📧栄光から没落国家へ転落したイギリスを復活させた”鉄の女”の涙と半生(2021年8月)⑪

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エリザベス女王が死去　写真と映像で振り返る在位70年（写真=ロイター）

世界史は覇権国家の栄光と衰退の繰り返しです。

産業革命に資本主義、七つの海を制したヴィクトリア女王の時代以来、世界の覇権国家となったイギリスは第二次世界大戦に際してアメリカから多額の借金をする事でその戦費を調達しました。

戦後は戦勝国であるにも関わらずその返済に追われ財政が常に逼迫していました。

そしてパクス・ブリタニカ、大英帝国時代の栄華を忘れることができないままに「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる手厚い社会保障を時の与党労働党は国民に与え続けてきました。

その一例は加入者の医療費は租税で80%、被保険者らが毎月の給与から支払う保険料で16%をカバーする自己負担原則”無料”の健康保険制度NHSが1948年に誕生し「王冠の中の宝石」と言われたほど。

第二次世界大戦以降の長引く経済停滞、そして失業率の悪化。慢性的なエネルギー資源の不足、悪性のインフレーションによってボロボロの英国経済…世界の国々ではこの様を観て、かつての覇権国家を揶揄して『英国病』と呼んだほどです。

1970年代、世界を二度のオイルショックが襲い、英国は財政危機に陥りました。電力が不足して都市の店は週3日だけしか営業出来ない有様。
1978年には労働者が働きもせず自分たちの権利ばかりを主張して労働組合によるストライキを繰り返し、暖房に使う石炭すら不足。

都市ではゴミさえも回収されずうず高く積み上げられ、墓を掘る人も墓を掘る手を止め労働者ストライキに参加し続けて遺体が6週間も放置されてロンドンなどの都市はあちこちから悪臭を放ち、第二次世界大戦の敗戦国で、国土の約半分が社会主義陣営に隔てられた西ドイツにさえGNP(国民総生産、日本では2001年からGDPが使われるようになる以前の経済指標)で抜かれ、国民からの不満が噴出する程でした。

*欧米は土葬が多い

最近の統計で「GNP」ではなく「GDP」や「GNI」が用いられているのはなぜですか。｜株式会社帝国書院

そんな近代英国においての暗黒時代とでも呼ぶに相応しい1979年、英国史上初の女性首相が登場しました。

マーガレット誕生と政治への道

マーガレット・サッチャー(旧姓マーガレット・ロバーツ)は1925年10月13日にロンドンの北160km離れたリンカシャー州グランサムで、階下からは店先で店主である父と買い物客との軽快な会話が聞こえてくる小さな食料雑貨店の次女として生まれます。

店主のアルフレッド・ロバーツは小さい頃、教師になるのが夢でした。

しかし生家には学業を続けるだけの経済的余裕がなく、13歳で中退。家計を支えるために働きに出るしかありませんでした。

その後、幾つかの仕事を転々としていた時、婦人服の仕立て仕事をしていたビアトリス・スティーブンソンと出逢い25歳で結婚。

二人は借金をして東部リンカンシャー州の田舎町グランサムに小さな食料雑貨店を開きました。

お店は繁盛して、街に2号店もオープンした頃、この物語の主人公マーガレットは誕生しました。

店が閉まっている時間でも、家族が2階で暮らしているためにノックの音がすれば買い物客の応対をする両親。

決して商売に子どもたちを駆り立てるような事はありませんでしたが、経済の基本である商売と共に生活がある中でマーガレットは育ちます。

町一番の働き者の父は町一番の読書家でも知られていて、子供の頃に叶わなかった進学の夢は親となった今も歴史、政治そして経済などの本を手に取らせ、独学で知識や考え方、そして教養を身につけていきました。

規則正しい生活を重んじる英国の伝統的プロテスタント派生メソジスト(メソッド重視)の家系で、家訓は「質素倹約」「自己責任・自助努力」だったそうです。

規則を何より重んじる家訓は幼い頃のマーガレットには退屈だったようで、ある日、彼女は父に友達の女の子がダンスを習っているから私も習いたいと言いました。
すると父アルフレッドは彼女にこう言い聞かせました。

「友達がダンスをしているからお前も習うというのかい？ よく聞きなさい。誰かがやっているからという理由で、自分も同じことをするのは間違っている。自分の意思で決めることが大切だよ」

友達が映画を観に行くから自分も行きたいと言えば、「他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはいけない」とそれを口癖のように言い聞かせたそうです。
それがどれだけ大切な事か、幼い頃には分からなかったというマーガレット。
しかし後に彼女は「人間として必要なことは全て父から学んだ。」と語り、その厳格な姿勢に大きな影響を受けたことを明かしています。

自営業という職業のお陰で、勤勉な父アルフレッドの姿を間近に観て育ったマーガレットは父の傍で本を読み、10代に入ると毎日のように父と一緒に新聞を読み、時にはタイムズ紙などの経済新聞にも目を通すようになります。

1929年にアメリカで起きた世界恐慌は英国にも大きな影響を与えましたが、グランサムのような田舎町にまでは比較的軽い影響でしたが、幼いマーガレットが世の中で起きている出来事に関心を持つには十分すぎるものでした。
1939年、第二次世界大戦が始まった頃には14歳となっており、戦争の背景についても理解をできるようになっていました。
一家で囲む食卓で、マーガレットは父アルフレッドに政治や戦争について質問をします。どんな質問にも丁寧に回答をしてくれる父との濃密な時間は少女に政治への関心を育むようになります。

父が買ってきた最新家電のラジオから時の首相ウィンストン・チャーチルの演説を聴き、「英国民に出来ないことは殆どないのだ」という母国への誇りが彼女の中に生まれたそうです。
(マーガレットにとって父アルフレッドとチャーチル首相は人生に多大な影響を与えたヒーローだった)

マーガレットは父の果たせなかった進学の夢を叶え、英国の名門オックスフォード大学へ進学。化学を専攻しました。

しかしまるで鉄が磁石に引き寄せられるかのように学生運動の盛んな1940年代初頭に学内での選挙集会で政治への関心を高めていきます。
同年代の政治に関心の高い人々との邂逅は田舎町で育った多感な年頃のマーガレットには刺激的な時間でした。

批判的な意見を、自分の中から答えを手繰り寄せ、意見を述べる。そうした躍動感に彼女の心は踊りました。

そして、マーガレットが大学在学中に運命的な出来事が起こります。

「人々がより働きやすい世の中にしたい」という信念の元で、その頃には保守党員としてグランサムの市会議員として政治に携わっていた父アルフレッドがグランサムの市長に選ばれたのです。
幼い頃に学業へ進む道を閉ざされた父が、努力と勤勉の末に多くの人々に賞賛され認められた姿はマーガレットの誇りでした。

父に連れられて地方議会、裁判所を訪れた経験は彼女のその後に多大な影響を与え、彼女自身も学生生活の最終年度には保守党協会の学生代表を務めるまでになります。

出馬と挫折、結婚・出産そして議員へ

1947年、化学の学位を修めて大学を卒業したマーガレットは化学関連の企業へ就職。

政治への道を模索しながら2年が経とうという時に学生時代の友人の紹介でイングランド南東部のダートフォードから史上最年少24歳の女性候補として出馬。国内外から大きな注目を集めますが1950年、1951年と二度続けての落選を経験します。
1949年2月、選挙集会後の晩餐会で保守党支部の有力者に囲まれながらもまだ政治家にもなれていない未熟なマーガレットに熱い視線を送る人がいました。

彼女より10歳年上のビジネスマン、デニス・サッチャーは政治に強い関心を示しており、家業は塗装や防腐剤を作る化学関連の企業をしていました。
選挙区の集会で時々顔を合わせる二人にとって共通の話題が豊富だったのは想像に難くないでしょう。

意見を交わすうちに二人で会う機会が増え、デートを重ねていくうちにデニスの知的さ、気さくでユーモアに溢れた性格はマーガレットの心を掴んでいきました。

「僕の妻になってくれないだろうか」
デニスのプロポーズに、26歳のマーガレットは「私は、政治家になりたい…あなたが望むような普通の奥さんにはなれないわ」

そう断ったそうです。
しかしデニスはそれを受けてこう言いました。

「もちろん分かっているよ。そんな君だからこそ一緒にいたいんだ」

全力で選挙活動をサポートしてくれる彼の一途な気持ち。

マーガレットが結論を出すのには長い沈黙の時間を必要としました。
しかし、こんなに話の合う人はいない。しかも自分を応援してくれる…考えれば考えるほど答えは明確になっていきます。
マーガレットはデニスと二人でこれからの人生を歩むことを決意し、マーガレット・サッチャーとして生きていくことを選びました。

二人の間に双子の、しかも男女の子ども(マーク、キャロル)が誕生したのはその2年後の事でした。

そして夫の強力なサポートの中で家事と子育てをし、その傍で父アルフレッド譲りの勤勉さで、法律の勉強をして僅か2年で法廷弁護士(バリスター)の資格を取得。

マーガレット・サッチャーが出産、家事・育児、弁護士資格取得に励んだ1950年代には女性の地位に大きな変化が訪れた時代でした。

1952年にヴィクトリア女王から観て曾孫の子にあたるエリザベス2世が新女王として25歳で即位し、新たな時代の幕開けと呼ばれた時代。社会的にも女性の活躍に関心が集まっていきました。

しかし同時に、女性は政治に足を踏み入れるべきではないという古い価値観も未だ根強い時代でした。

「二人の幼児の子育てをしながら女性に議員が務まるのか？」と言った懐疑論が囁かれる中で、マーガレット・サッチャーは何度も挫けそうになります。

「私には政治に寄与できる何かがある」

選挙区を奔走し再びの出馬を目指す彼女には最強のパートナーがいました。

「行うべきは、子を持つ母でも政治家としての職務を全うするのが如何に可能であるか、説得を重ねるべきだ」

夫デニスの懸命なサポートによって彼女はその後何度も人生の中で味わう挫折から立ち上がり、この国の中での自身の役割を見出していきます。

1959年、ロンドン北部のフィンチリー選挙区から三度目の出馬。マーガレット・サッチャー、34歳で初当選。

そして1970年、45歳の時にヒース内閣で教育相に大抜擢されました。

党首、そして初の女性首相へ

マーガレット・サッチャーはひっ迫する英国経済を鑑み、歳費削減のために公立学校で給食の牛乳無償配布を停止した事から「ミルク泥棒」と主婦たちからも反発されました。

あの女には私たち庶民の気持ちなど分からない…

彼女の実家は雑貨店ですし、二人の子を育てている母親でもある訳ですから知らないはずがありません。英国の財政がそれだけ逼迫していたのです。

1974年、保守党が総選挙で下野すると翌年、50歳でヒース元首相を破って保守党初の女性党首へ。

冷戦時代のソ連が主導するヨーロッパ諸国との国境線を現状維持しようとする与党労働党が交わしたヘルシンキ宣言を痛烈に批判。

ソ連機関紙は彼女の強固な反共姿勢を「鉄の女」と揶揄しました。
しかし本人はこの言葉を気に入り、以降は自分のキャッチコピーとして使い始めます。
1979年に再びの総選挙で与党として保守党が返り咲くと54歳で英国初の女性首相となります。

サッチャー政権の理念と呼びかけ

首相となった彼女の脳裏には母校オックスフォード在学中に参加した選挙集会で一人の年配男性が語った言葉が残り続けていました。

「私が自分のお金を少しばかり貯金したからというだけの理由で、『生活保護』はもらえなくなる。もし、このお金を全部使ってしまったら、もらえるのに」

健康上の理由で働けない人は国がサポートする必要があるけれど、十分に働けるにも関わらず社会福祉に依存する人々を野放しにしていてはいけない。
努力し、向上しようという人が評価される社会でなければ国は発展しないだろう。

彼女は首相就任から最初の2年で大規模な税制改正を行いました。

当時のイギリスは所得税が高く、真面目に働く人ほど負担を強いられ、その税金から生活福祉に依存する人を支えるために所得税負担が更に課せられるという悪循環にありました。

上昇思考の人でさえ「給与が税金に消えるなら、一生懸命働く意味などない」と考えるのもやむない状況でした。
そこで基本所得税33%を30%へ、そして翌年以降も段階的に引き下げ1988年までに25%としました。
代わりに付加価値税(日本における消費税)を一般税率8%、贅沢品12.5%を一律15%として働いて稼ぐことにメリットが感じられ、物価上昇*を抑制する方法を選びます。

*買い物(需要)を抑制することで、インフレーションの抑制(需要<供給)を促す。

しかしメディアは政策的には正しいこの改正は金持ち優遇であり、低所得者ほど可処分所得(手取りの所得)が少ないのに付加価値税が上がっては負担増であると大バッシングを受けます。

なんと首相就任2年で経済成長は2年連続のマイナス。

大企業はリストラ、中小企業は倒産が相次ぎ就任翌年の1980年の失業者数160万人が首相就任の2年後には250万人、3年後には300万人。
失業率は遂には10%を超える有様でした。

あまりに厳しく質素倹約、自助努力を促すサッチャー政権に支持率は低迷。

首相解任も囁かれる中で1982年2月、英国中を揺るがす大事件が飛び込んできました。