人間の形を取り戻す

2024年の大晦日は昨年と同じく、知恩院に行った。知恩院は浄土宗の総本山であり、開祖である法然上人の入寂の地として知られる由緒正しい寺院だが、好き好んで2年連続でこの地で年明けを過ごしたのは、別に浄土宗への信仰心からというわけではなく、もっと言えば実家の宗派は浄土真宗である。
17人の僧侶が力を合わせて鐘をダイナミックに撞く様子が視覚的にインパクトがあって面白いから。理由としては、ただそれだけ。紅白とかガキ使(もう今はないのだったか)とかを見ないと年を越せない感覚とほぼ同型だと思う。参拝をエンタメ化していると怒られそうだが、正直寺院と参拝者は共犯関係にあると思う。

関西に越してきて、早いものでもう2年が経とうとしている。初めこそ戸惑いもあったものの、もはや慣れたもので、今なら近鉄や京都市営地下鉄、阪急はノールックで乗れるし、鶴橋や丹波橋が乗り換え駅ということだって知っているし、昔から通っているかのような顔で京都市役所近くで髪を切るようにもなった。見知らぬ土地に日常を築き上げるとはこういうことなのだろう。大学進学を機に上京してきた人などは自分よりもずっと前にこういうことをやっていたわけで、必要に迫られてそうなったことを措いても、尊敬してしまう。

息子を私立中学、娘を公立中高から私立の女子大に入れられるが、息子を私立大学に通わせるほどの裕福さはない、そういう経済水準の家庭で育った。親族に高学歴は存在せず、いわゆる文化資本もない、そんな家だった。祖父は戦禍に巻き込まれ、中卒でメーカー勤務をしていたらしいと聞くが、大学卒の人間が重用される現実に悔しさを覚え、自分の父には名の知れていないところであっても、それを承知で大学進学をさせたと幼い頃に聞いた。生まれ育った実家には高度経済成長期の全集ブームの煽りを受けて購入したのだろう、函入りの文学全集があった。強い劣等感や執着こそないものの、学歴的なものへの憧憬がうっすら漂った、そんな家だった。

20数年ほど前にこの世に生まれた。自分で言うのもなんだが、幼少期から賢い子供だったらしい。突発的に家族にそんな子供が生まれたのと、両親のいずれの容姿にも全く似ていないのとで、「橋の下で拾ってきた子」「どちらかが浮気してできた子」と冗談めかして言われたこともよくあった。自分自身も、薄々そう考えて育ってきたし、今でもあまりこの人たちから生まれてきたという実感はない。

物心ついた頃からこういう不思議な存在として受け止められたためか、自分自身も家族とか親子とかいうものがいまだによくわからない。現代日本では家庭という枠組みで人間を育てることになっているので、現代日本に子供として存在する以上自分も家庭に割り振られる必要があったので、そこにいたと思っている。

そんな不思議な子であったが、両親は自分の子供として熱心に子育てをしていた。熱心すぎるがゆえに、叱責の際に不適切な行為や言動が見られることもよくあった。そうはいっても無垢な子供であった自分は、そうした場面で恐怖から身動きがとれず、いつも放心して、遠い目で嵐が過ぎるのを待っていた。

20歳くらいのころから、薄らとした離人感が漂いはじめた。ただ、今思えば、それまでも別に現実感があったわけではない。コアと呼ぶべき部分に衝き動かされるような生き方をしており、自分が物理的に形を持った存在であることなど意識したこともなかった。

今思うとその素地はこうした家庭環境の中で形成されていったのだと思う。小学校中学年くらいの頃から、何らかの役割がアプリオリに与えられており、それを遂行するための装置として、自分自身を認識するようになった。それが、自身の置かれた状況に対する最も自然な解釈と思われたからである。その装置としてイマイチなパフォーマンスだと、アイデンティティ・クライシスに陥る、そんな生き方を20年ほどしてきた。

同年代はもうほぼ全員就職した。結婚報告も相次いでいる。人間というオブジェクトとして、世界に取り込まれつつある。形をもたない粘土塊が、いつの間にやらそれらしい塑像になっている。自分はその様子を眺めているだけで、そもそも捏ねられるべき粘土という認識すらあまりなく、いつまでも、ふわふわと漂っている。

周囲の同等と思われる存在が形を帯びてくるにつれ、ますます離人感が強まっている。数秒後には視界がマーブル状に歪んで、世界が真の姿を現してもおかしくないと思ったり、過去も未来も、善悪も、全てまやかしだと思ったりする。わけもわからないまま、ぬるっとこの世になぜか存在して、便宜上人間の形をして生きている。

一方で、そんなものこそまやかしだとも思っていて、そんな生き方には持続性がどこまであるのか、不安になることもしばしばある。現実感のなさから、ちょっとそこの窓からフライアウェイしてみたら何か変わるんじゃないかと思ったりもする。自分でも恐らくそんなことはないのは頭ではわかっているのでやらないけれど、案外若いうちになぜかあの世へ逝く人はこんな感じなのかもしれないと薄ら寒くなることもある。
そうなる確率を下げるには、自分もどう足掻いたところでただの人間でしかないことを認めて、いつか現実の中に定置されなければならないのだろう。

年末、職場で知り合った人間との飲み会に参加した。その中に、来月からマレーシアに留学する先輩がいた。以前にサマセット・モームの『月と六ペンス』の話で盛り上がったことのある人だ。この歳ではよくあることだと思うが、漠然とした将来への不安や、これまで、そして、これからの人生についての話になった。

そのなかで、その人が最も好きな映画として、"Into The Wild"を挙げた。恥ずかしながら知らなかったので、どんな映画かと訊くと、将来有望とされた青年が恵まれた環境を捨ててその身一つでアラスカの地に旅立ち、廃バスの中で生活するも、最期に「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合ったときだ」という言葉を遺して息絶える、という実話に基づいた話だという。好きが高じて卒業旅行はアラスカに行って、実際にそのバスを見ようとしたんだけど、結局見れなかった、と笑っていた。

その会は、これまでのあらゆる会と比べても、群を抜いて楽しいものだった。他の人間も個性的なバックグラウンドを持っていて、普段は語らないものの、少なからずこれまでの人生で思い悩んできたことがあって、それがゆえに、その人にしか言えないことを持っていた。むろん、これまでにも楽しい飲み会はあったが、互いの過去に興味を持って、これまで話さなかったことまで話して、それも全て真正面から受け止める、それほどまでの深い部分で通じ合う経験はなかったのだった。
自分がきちんと一人の人間として受け入れられており、また自分も強くその感覚を得ることができた。先の青年の遺言は真理を突いているなとしみじみと感じられた。今後の人生で目指すべきものに触れた気がした。最後は再会を祈って、笑って解散した。

除夜の鐘を聴きながら、私はいま何を祈るだろうか、と考えた。自分の努力次第のことは祈ったところで意味がないだろうとの考えもあって、いつのころからか、そういう場面では漠然と世界の平和や全人類の幸福を祈っておくことにしていた。ただ、それはメタ的な視点からであった。そのなかに自分も含まれるということを徐々に認識して、他人と同等の存在として対峙して、言葉を交わして、衝突しながらも理解して、そういう作業を、遅いかもしれないがこれから時間をかけてやっていこう。その一環として、面倒で時間を食っても文章を書かなければならないし、人間との共同生活に身を投じなければならない。それを新年の目標としよう、と思った。

そうやって、私は私の幸福を現実のものとしていくのだ。




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