Ráre Act
" Attachment "
パンチの効いた風は、速やかに、私の全身を悦に入れてくれた ‥。
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東京・隅田川沿いにそびえ立つ、大型マンションの群れが見えてきた。あの私の1人暮らしの住処まで、あともう少し。
真夏の夜、いつものように、川沿いの綺麗に整備されたテラスを1人で歩いていた。
今日も残業。OL生活はもうすぐ10年になる。その間、いくつかの昇給は貰ったけれど、その度にまとわりついてくるストレスの拭い方がまだわからない。
でも、私にまとわりついている汗は拭わなくていい。今夜も川風が気持ち良く汗を拭ってくれる。毎月払う割高な家賃も、この川風に払っていると思えば、むしろ割安にさえ感じる。
私はヘアゴムを取り、後ろで束ねていた髪を自由にした。人もいないから、着ているシフォンブラウスのフロントホックも下まで外して、胸元を露わにした。
パンチの効いた風は、速やかに、私の全身を悦に入れてくれた ‥。
自宅マンションまで、あと40メートル程の所まで来て私は立ち止まった。エントランス付近がブルーシートで覆われている。その前にパトカーが4台、警官と白いワイシャツ姿の男性も数人。私は外していたブラウスのホックを直し、風で乱れた髪も手ぐしで軽く整えた。
何かあったのは明白( はぁー ‥)。
途端に溜息が出た。このままエントランスまで行ってエレベーターに乗り、自分の部屋まで行く一連の途中で、警察の人に声をかけられて足止めを食うのは明白( 面倒だわ ‥)。
明日も朝は早い。部屋に行かないわけにもいかない。私は渋々エントランスへ向かった。案の定、早速警官が近づいて来た。
「失礼します。こちらの住人の方ですか?」
数分後、私はマンションの管理人室にいた。
このマンション内の一室で、女性の変死体が発見された ‥ ということが、この騒々しさの理由だった。私は管理人室で、エントランスに設置してある監視カメラの録画映像を見せられていた。
映像は極めて高精細・高画質だが、犯行推定日時から4時間の間、監視カメラに映っていたのは、ある1人の女だけということだった。しかしその女は出入り口の自動ドアを出る時、咄嗟に顔を手で隠していた。カメラに映っていたのは、女のサイドアングルからの上半身のみ。ノースリーブのブラウスから出る細長い右腕と右手の甲、そして長い爪は確認できた。初老の刑事が、頭を何度も下げながら私に近寄ってきた。
「住人様の確認だけさせて下さい。あなた様の部屋番号とお名前・年齢をお聞かせいただけますでしょうか?」
「404号室・秋山リカです。32才」
「はい、ありがとうございます。この映像の女性をご覧になって、何か見覚えなどありますでしょうか?」
「ありません。顔もわからないですし。あ、もういいですか? 明日、朝早いもので」
「はいはい、夜分遅くに申し訳ありませんでした。結構です、はい」
私は椅子から立ち上がった。映像操作をしていた管理人も初老の男性で、刑事と一緒に私に頭を下げていた。私はショルダーバッグを持って、最後に何気なく映像画面に目をやった。
その時、映像操作をしていた管理人は、機器の操作に慣れていないのか、一旦消すところを誤って拡大画面にしてしまっていた。画面には犯人と思われる女の指先=爪がアップで映し出された。管理人は、頭を掻きながら再生を停止し、画面は青一色になった。私はバッグを椅子に戻し、管理人の男性に頼んだ。
「あ、ちょっとすみません。もう1度、今の映像見せていただけますか?」
また最初からの映像が映し出された。もう1度管理人に言った。
「今の指先アップのところだけで結構です。あ、いいです。私やります」
私はマウスを右手に、指先=爪アップの静止画面を食い入るように見つめていた。刑事が話しかけてきた。
「この爪が、どうかしましたか? これはアレですよね、つけ爪とかいうんですかね? 私ども、こういうのは詳しくなくて ‥ あはは」
今度は自動ドアが開いて、女が出てくるところを超スロー再生で見た。
自動ドアが開く ┉┉ 女の右腕がゆっくりと顔を隠す ┉┉ その時、細長い腕がムチのようにしなり、下から上へ ┉┉ やはり顔はギリギリのタイミングで隠しきれている。でも顔はどうでもいい ┉┉ 再び手元にズームアップ ┉┉ 超スロー再生だと、指先や爪の微妙な立体感まで伝わってくる ┉┉ マニキュア・カラーはディープバイオレット ┉┉ そして ‥。
見終わった私は再生を停止して、画面は再び青一色になった。管理人と刑事の方に向き直った。
「あ、ごめんなさい、もう結構です。ちょっと、爪が綺麗だったもので、つい見とれてしまって ‥」
今度は私の方が管理人と刑事に頭を下げて管理人室を出た。1人エレベーターに乗り、扉が閉まった。
閉まったと同時に、自分の顔に醜悪な影のアタッチメントが貼りつく感覚を覚えた。
刑事でなくても、ネイルをやり慣れている若い女性でも、あの映像の爪を見れば、皆がつけ爪と思うだろう。でもあれは、つけ爪ではない。
つけ爪は長さだけではなく厚みのアタッチメントもある。爪の位置でいえば、ルヌーラ( 爪半月=爪甲の根元部分 )から爪の先端までチップやアクリル、ジェルがのる。その分、厚みがつく。
私も今でこそ爪は短いが、8年程前までは長い爪をしていた。でも当時の私のセンスは、東洋人女性の華奢な指に、あのつけ爪の厚みは似合わないという方向を向いていた。だからつけ爪ではなく、ペーパーラップというネイルメニューをして、爪の先端のみを保護して長い爪を維持していた。
【 ペーパーラップは、ネイルメンダーという接着効果のある液体を使い、極薄のペーパーを爪の先端に囲うように貼りつける爪補強メニューの1つ。ペーパーはリムーバー( 除光液 )でほぼ溶けてしまうため、ペーパーラップの寿命=マニキュアカラーの寿命。トップコートをこまめに重ねても1週間保てるかどうか ‥ というところがデメリット。しかし爪に厚みをつけずに、長さをキープできるところがペーパーラップのメリット。】
私はマンション・監視カメラ録画映像の、一瞬の指先の拡大画面を見た時、映っていた爪が長いのに厚みがなかったのを見逃さなかった。
あの長さだとリキッド系の補強では無理。布( シルク・リネン・ファイバー )を使用した補強であれば、微かに見える筈の織り目も確認できず、あれはペーパーラップで間違いない。かつて私もやっていたものだから瞬時に反応できた。あの平らでありながらの長い爪 =フラットネイル の感覚は、8年経っても私から離れていなかった。
そのペーパーラップは、今ではつけ爪や他のネイルラップメニューに押され気味で、このメニューを扱っているネイルサロンはほとんどない。すぐに寿命がきてしまうことが嫌われている。私がかつてペーパーラップをやっていたネイルサロンも、今はぺーパーラップをメニューから引いている。
今現在、都内でペーパーラップを扱っているネイルサロンをくまなく探した。幸いと言っていいだろう、そのサロンは1つしかなかった。
私は自分の顔に、醜悪な影のアタッチメントが、ふたたび貼りつく感覚を覚えた。
都内で唯一のペーパーラップ導入店の名はネイルサロン・L。
場所は、私の住処の前を流れる隅田川をずっと北上した墨田区・向島にあった。私は勤めている会社に、月曜から金曜で祝日が1回ある週に、4日間の有休を申請した。これで4日間の有休+祝日・土日で、1週間の休みが手に入った。
そして向島のネイルサロン・Lの前で張り込み待機した。ペーパーラップの寿命は1週間弱だから、あの女がこの1週間のうちのどこかで、この店まで来ることは濃厚。顔はわからなくても、あの細長い腕は充分に識別になる。女の細い腕は細い脚より数は多いが、あの女の腕の細さはひときわだった。だから腕が露出する、この季節のうちが勝負だった。
女が店に現れたのは、私が張り込んでから4日目の夕方だった。その日は夕方でもまだ暑く、体感気温は昼間と大差がなかった。
現れた女は私とほぼ同年代に見える。女の体裁は、つば広のストローハットに大きなブラックレンズのサングラス、そして腕・肩・デコルテがザックリ開いたタイトなキャミソール ‥ 腕は余裕で全開のキャミソール。腕の細さは私にインプットされた記憶と寸分の狂いなく一致( あの女、あの細い腕 ‥)。
キャミソールの女が店に入ってから40分が経過した。ペーパーラップをしていれば、もうペーパーは貼り終わっている時間。私は店に電話をかけた。
「すみません、今そちらでペーパーラップしている人、ちょっと電話つないでいただけますか? 身内の者です。急用なんです」
女が電話に出た。私はすぐに電話を切った( 100%間違いない )。
石橋を叩いた私は、少し店から離れて再び待機。やがて女が店から出てきて、すぐにタクシーを止めて乗り込んでいた。私もタクシーをつかまえて女を追った。明治通りを進み、北区・王子で女はタクシーを降りた。そして緑でうっそうとした感のある、飛鳥山公園の奥まった方へ歩いていった。さらにその先の雑木林の方へ。
付かず離れずで追跡している私は、今、自分の前を歩く女を追い詰めている人間が、この世で自分だけなことに妙に興奮していた。揺するか、奪うか、レシピはまだ決めていないが、この女を具材に調理すれば一獲千金という一品が出来上がる予感が、私に汚いよだれを垂らさせた。
『このよだれは、仕方ないわよ。堅実に生きてきて、何一ついいことなんて、なかったんだから。安全第一を心がけたら安全しか手に入らなかった。セオリーは、私をどこにも連れて行ってくれなかったのよ。ビッグマネーを獲るルートは、こっちでいいのよね』
私は自分の顔に、醜悪な影のアタッチメントが、みたび貼りつく感覚を覚えた。
しかし、ひとけがなく森にも近い雑木林の、より木々が深く生い茂った所で、突然女は振り向いて私を睨みつけた。
" Forest "
誰かに後をつけられいる ‥。
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週に1回、ペーパーラップというネイルの補強をするために、ネイルサロン・Lという店へ通っている。
ある日、ペーパーラップの施術が終わる頃、私に電話があった。携帯ではなく、店に電話は初めてのことだった。
「お身内の方からです。急用だそうです」
スタッフはそう言っていたが、私に身内などいない。訝しく思いながら電話に出たが、すぐに切られた。私は店を出てタクシーに乗った。
誰かに後をつけられいる ‥。
後をつけられているのが、すぐに分かった。勿論、家には行かず、今現在ひとけのない場所を頭の中で物色した。そして北区の飛鳥山公園が思い浮かんだ。
私の後をつけている女をひとけがなく森にも近い雑木林の、より木々が深く生い茂った所までおびき寄せ、そこで振り向いて女を睨みつけた。
私がペーパーの補強で長い爪を維持しているのは、私の好みではなく、警察にこれをつけ爪と勘違いさせるための計略。
あの日マンション・エントランスで、カメラに爪が映るように、わざとアングルしたのもそのためだった。すると警察によるたくさんのネイルサロンへの聞き込みは、最近つけ爪をした女性がキーワードになる。でもそれを切り口にいくら入っても、私までは辿り着けない。私は、つけ爪はしていないから。
垢抜けない男性と、おしゃれ・美容に疎いタイプの女性しかいない警察。あそこはそっち方面に、まるで機転が利かない。その弱点を私の計略は容赦なく突いた。一方で警察以外の誰かが、もし私を嗅ぎ付けるなら、向島のあのネイルサロン・Lに来るのは必至だった。当然それは女 ‥ 当然とても煩わしい女。
私は殺しの依頼者からの要望通り、あのマンションで女を1人殺した。
しかし、その後もネイルサロン・Lに通い続け、ペーパーラップは続けた。もしかして存在する、煩わしい女をおびき寄せるために。‥ それは案に違わずだった。
念押しはしておくものだ。万に一つの僅かな可能性、その狭い隙間から入り込んできた女と、私は今、対峙している。
こういう煩わしい女からは逃げるのではなく、おびき寄せて葬り去るのが最良と信じている。
こういう煩わしい女を中途半端に生かしておくから、いつも完全犯罪は途中で挫折する。‥ 鋭利に、信じている。
この森にも近い雑木林で、Forest Witch( 森の魔女 )になるのは私。
対峙している女は、見た限りでは、ずいぶん堅実してきた女に見える。セオリーっていう満員電車に駆け込み乗車したのかしら。でも、今さらこっちにこられても、ねぇ ‥。
私は後ろに右手を回した。背肌中央に、直にテープで貼り付けていた折りたたみナイフが、すぐに汗で剥がれ落ちた。落ちた先は右手。ナイフ付きの私の細長い右腕が、ムチのようにしなり、下から上へ大きく弧を描いた ‥。
【太平洋戦争中、飛鳥山公園の斜面には、1万人が収容できたと言われる巨大な防空壕があった。しかし大量の焼夷弾による攻撃には耐えられず、防空壕はその役割を果たせなかった。多くの犠牲者を出し、戦後10年経った頃でも、まだこの斜面から白骨が見つかっていたとされる。】
私の後をつけてきた女の死屍は、雑草が生い茂る公園の斜面に隠し置いた。もし白骨化するまで見つからなければ、" 壕の中で朽ち果てた怨念、今再び " とかいって、どっかのジャーナリストは喜ぶかしら。
今、着ているキャミソールの色はディープバイオレットカラー。飛び散った血の色は、乾いてこの色に紛れ込んだ。乾いた血の色は赤ではない。
このまま着替えなくていい。私はいつでも人を殺せる実用的なこの色しか着ない。アクセも、マニキュアも、この色なのは念押し。ディープバイオレットカラーは私の念押し。
その足で浅草へ出た。そこからその日最終便の水上バスに乗った時、空は暮れ果てていた。
乗客は私を入れて4人。誰も私の服が血だらけなのは気づかない。私1人が屋上デッキへ上がった。私の住処から最寄の発着場である、お台場海浜公園まで約1時間隅田川を下る。途中、さっき殺した女が居住していたマンションを横目に見ながら、その先にある勝鬨橋もくぐり、隅田川河口へ。
私にまとわりついている汗は、拭わなくていい。屋上デッキに吹きつける川風が、気持ち良く汗を拭ってくれる。この運航距離にしては割高な運賃も、この川風に払っていると思えば、むしろ割安にさえ感じる。
キャミソール一枚の私は半分裸のようなもの。風が気持ちよかった。
パンチの効いた風は、速やかに、私の全身を悦に入れてくれた‥。
昨日振り込まれた殺しの依頼者からの成功報酬は、嬉しいことに思ったよりヘビーだった。サロンクルーザー1艘くらい買えると思う。でもその前に船舶免許取らないと ‥。
レインボーブリッジが大きく迫ってきた。お台場はそのすぐ先。高揚感のせいか、周辺の夜景がより一層眩しく感じたから、私はサングラスをかけた。
『夜のサングラスって、最高の贅沢よね』
そう呟いた時、レインボーブリッジ・中央部分にいる男の姿が視界に飛び込んできた。男が銃を私に向けているのを確認できた瞬間、銃声が鳴り響いた。銃弾が私の顔面にヒットし、仰向けにデッキの床に倒れ込んだ。
殺し屋を殺す殺し屋 ‥ その存在を私は織り込んでいなかった。
銃弾は私のサングラス・レンズ部分に的中していた。銃弾を受けた瞬間だけは泣き叫んだが ‥。
『夜のサングラスって、最高の贅沢よね』
銃弾が放たれる2秒程前に、私がかけたサングラスのレンズは防弾ガラス製だった。念押しレンズは、見事に銃弾をはね返していた。
とはいえ、かけてから2秒。ましてや、銃弾が当たった箇所は、レンズの上端ギリギリのところ。もし、もう2秒かけるのが遅かったら ‥ もし、もう2ミリ上に当たっていたら ‥。
私は仰向けのまま星空を見つめていた。2発目の銃弾を願い下げるため、しばらく死んだふりをする必要もあった。
その間、受け取った殺しの報酬が取られないよう、ネットバンキングのモバイル操作で別口座へネット振込する気づきも無事につかみ取った。
空には夏の星座の主役を譲らない、はくちょう座がいた。
パンチの効いた、はくちょう座の艶やかさは、速やかに私の気色を悦に入れてくれた ‥。
私にとっては夜景よりもさらに眩しい星空だった。だから、亀裂が入ったサングラスは、そのまま外さなかった。
私だけの星空を充分に味わい尽くし、立ち上がった。水上バスは、お台場海浜公園の発着場まで、あと僅かのところまで来ていた。
そこから見渡す夜景は、東京ゲートブリッジ、ライトアップされたパレットタウンの観覧車、アクア・シティ、ホテル・トラスティ。東京ベイエリアの街並みを醸すこの夜景は、私の凄まじい悪運の強さに、ただ呆然とひれ伏すばかりであった。‥ 私、大丈夫。
『大丈夫よ。奇特に生きてきて、あんまり悪いことってなかったわ。リスクはリスクのままなら、ちょっと痒いけど痛くはない。セオリーっていう満員電車に、私は乗らなかったのよ。そりゃあ、人に言える仕事はしてないけど、人に言わなくたっていいじゃないの。人に言える仕事って、窮屈で退屈なものばかり。それで見返り少ないものばかり。アンリーズナブル!』
フラットネイル、ディープバイオレットカラー、バレットプルーフ・サングラス ‥‥ 私のマストアイテムは、すべての条理を蹴散らしてくれた。
水上バスは、いつも通りの何食わぬ顔のまま、いつもと同じ波止場に到着した。
そして波止場に降り立った時、夜景はやっと意識を取り戻し、惜しげもなく盛大な拍手をくれた。波止場に吹き寄せる強い川風も「お疲れ様」と体を拭ってくれた。奇特の狭い隙間で、勢いよく生きる私への礼賛と汲み取らせてもらう。
架空の創作物の中では、私みたいな女は、最後に朽ち果てないといけないみたいだけど、そうはいかない。
現実の駒は、案外無愛想に進むもの。でも、それを知る者は、ずっと私だけでいい。他に、いらない。
川風はさらに強まり、サマーストームに姿を変えた。
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パンチの効いた風は、速やかに、私の全身を悦に入れてくれた ‥。✦
Fin
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