見出し画像

Tip Tóes

" I’m a Pedicurist "


『つま先を痛めないヒールやパンプスはありません。足の小指の爪、お大事になさって下さいね』



手の爪は扱わない。私は足の爪のみに特化したネイリスト=ペディキュアリストを4年続けている。
4件のネイルサロンと業務委託契約を結び、完全歩合制でやっている。ネイルサロンは完全予約制だから、その都度予約に応じて東京都内を動き回っている。

フットネイルと称される足の美容メニューは、手の方とは違って客数は少なく、ニーズが少ないマイナー・ジャンルの域は出ない。だから普段靴で隠れている足の爪に、お金をかけてくれる人は私にとっては貴重な宝。

足だけのペディキュアリストだと、どこのサロンへいっても正スタッフとしては雇ってもらえないハンデもある。でも契約先のサロン数に恵まれている今は不満もない。稼ぎは欲を言ったらキリがない。24歳の女1人食べてはいける。ただボーナスのない私なので、さすがに7月と12月は正スタッフを羨ましく思ったりもするが、それを除けば今は不満のない毎日を送っている。

今日は赤坂のサロンAに予約が入った。
私はいつものように、予約時間の1時間前にサロンへ出向き、準備を始めた。施術場所は立派な施術ルームは断り、どのサロンへ出向いても、出入り口そばの小スペースを借りる。ここで施術風景を手の爪で来店のお客様にも見せることで、フットネイルをアピールする。

『へー、足って、ああやってやるんだー』 『あたしも、足やろうかな』

‥ こんな反応が、喉から手が出るほど欲しい、ペディキュアリストの私。

フットバスに入れた、ミネラル・バスソルト入りのウォーターがホットになる頃、お客様が来店した。新規の方だったので私は自己紹介する。

「初めまして。本日フットネイルを担当させて頂きます、大井アミと申します。よろしくお願い致します」

90度のお辞儀をして、まずはフットバスにお客様の足(くるぶしから先部分)を入れる。

「足のお手入れは初めてですか?」

「はい、初めてなんです」

他愛もない会話のあと、バスから足を出して、柔らかくなった甘皮をキューティクル・プッシャーで押しまくる。浮いた甘皮をキューティクル・ニッパーで切り落とす。ここで少しでも爪面積を大きくしないと、あとで塗るペディキュア・カラーが映えない。

「はい、こんなに爪が出てきましたよ。小指の爪もこんなに」

「わー、すごーい!」

あとは、しゃもじのような形のファイルで、かかとの硬い角質を除去してすべすべに。ファイルの当て具合は強すぎると痛い。弱すぎるとくすぐったい。この加減は簡単ではない。そして膝下のマッサージ・トリートメント、ラストのカラーリングで終了。

「はい、終わりました!」

「わー、なんかストッキング履くの、もったいないみたい!」

今日も好感触で終わった。新規の方の場合、術後に必ず言うワン・コメントがある。

「つま先を痛めないヒールやパンプスはありません。足の小指の爪、お大事になさって下さいね」

足の小指の爪が潰れたら、もうケアをしようとするテンションは下がるもの。それが下がれば来店もない。だから、このワン・コメントだけは忘れずに言う。
その他にも、変形、巻き爪、爪が斜めに生える、爪表面の凸凹、不自然な爪の厚みなどは靴による圧迫 ‥ 是非ともお気をつけ頂きたい。
そしてお帰りの際、最後の90度のお辞儀まで気を抜かない。ここで印象を崩したら、せっかくやり遂げた施術が、なかったことになってしまう。

「ありがとうございました!」

翌日、芝大門の雑居ビル4階にある、サロンBに予約が入った。
私はいつものように、予約時間の1時間前にサロンへ出向き、準備を始めた。サロンBのチーフ・マネージャーが、私に近寄って来た。

「大井さん、今日のフットネイルのお客様ね、うちのつけ爪のリピーターさんなんだけど、他のサロンでフットネイル・ケアをしたらしいのよ。でも気に入らないからやり直してほしいって。‥ちょっと神経質な人だから気をつけてね」

「はい、わかりました」

そうして来店されたフットネイルのお客様は、昨日赤坂のサロンAで、私がやったあのお客様だった。

「あら‥大井さん、ここでもやってたの? 同じ人に直してもらっても、しょうがないわね、帰るわ」

私は行き場のない恥ずかしさを堪えて、早足で帰ろうとするお客様を追いかけた。

「あの、いえ、やらせて頂きます。申し訳ございません」

そのお客様は1度も振り返らず、無言でエレベーターに乗ってしまった。すぐにエレベーターの扉は閉まり、私はエレベーター横の階段を駆け下りて、下まで行こうとした。その時チーフ・マネージャーが、後ろから私の肩を押さえて引き止めた。

翌日、昨日の屈辱感がまだ冷めない私は、今度は予約が入った北青山のサロンCに出向いた。
私はいつものように、予約時間の1時間前にサロンへ出向き、準備を始めた。‥ いや、いつものようにではなかった。まだ昨日のことを考えていた。あんなことは初めてだった。施術の不手際など、自分に身に覚えがあれば、まだ気色は落ち着く。しかしこれといった不手際は思い当たらず、昨晩も眠れずに過ごしたことも手伝って、今日はいつものボルテージは上がらずのままだった。

そんな中、なんとか施術は終わらせた。新規の方だったので、いつものワン・コメント。

「つま先を痛めないヒールやパンプスはありません。足の小指の爪、お大事になさって下さいね」

翌日、一昨日に屈辱を味わった芝大門のサロンBにふたたび予約が入り、私は出向いたが、一昨日と同じことが起きた。
昨日の北青山のサロンCで私が担当したお客様が、やり直してほしいと来店した。

「あら‥大井さん、ここでもやってたの? 同じ人に直してもらっても、しょうがないわね、帰るわ」

台詞まで一緒だ。これはどういうことなのか。そもそもケアのやり直しってこと自体がおかしい。ケアの場合、形として施術結果に出るのは甘皮部くらいだ。そこは問題なかったのに‥。

翌日、今度は東品川のサロンDへ。
もう疑心暗鬼の塊になって私は出向いた。また新規の方‥。さすがに施術後、念を押した。牽制の意味もあった。

「気になるところは、ないですか?」

「ありません」

「あれば、今お申し付けください」

「本当にありません」

‥ いつものワン・コメント。

「つま先を痛めないヒールやパンプスはありません。足の小指の爪、お大事になさって下さいね」

翌日、みたび芝大門のサロンBに予約が入った。
そして昨日のサロンDのお客様がやり直しの依頼。

「あら‥大井さん、ここでもやってたの? 同じ人に直してもらっても、しょうがないわね、帰るわ」

もう正気でいるのは無理だった。私はそのお客の前まで走り、帰路をふさいで凄んだ。

「待ってください。誰に頼まれたのですか? 昨日はちゃんと満足していらしたのに」

エキサイトする私を、チーフ・マネージャーがなだめた。そして、そのままマネージャー室へ入り、私はチーフ・マネージャーと向かい合っていた。長めの沈黙のあと、チーフ・マネージャーが先に口を開いた。

「悪いけど、大井さんには今日で辞めてもらうわ。契約解除します」

長めの沈黙で頭が冷えていた私は、ようやく、ことの輪郭が見えた。
ここ数日、やり直しの依頼客が、このサロンBばかりに来る。今、私の目の前にいるこの女‥この女が私を切るために仕組んだのは明白だった。吼え狂いたかった。しかし、すでにレームダックにされているのを肌で感じた私は、最後にこの女を渾身で睨みつけるのが精一杯だった。

そして、こういう噂はすぐに広まる。例えばサロンBのスタッフの友人がサロンAにいたり、サロンBとサロンCが施術で使用する美容商材のディーラーが同じだったりすると、そこから漏れる。
私がサロンBとの契約が解除になったことは、すぐにサロンA・C・Dへ広まった。そして、もうそこからもお客様を回してもらえなくなり、私はペディキュアリストを廃業するしかなかった。

他店でまた、といっても、もう都心では面が割れている。このジャンル、都心でアウトなら廃業しかない。地方で足の手入れまでする女性なんて、いないとは言わないが ‥‥ いない。

時間を置いて仕切り直してまた、といっても、今までの4年間の苦労をまた最初からやり直す気概は私にはない。それだけ大変だった。1回しかできない苦労だった。これだけ大変なのを知らなかったからできた辛苦だった。もう1回は無理。

せっかく頑張ってきたのに、数多くのつま先を綺麗にしてきたのに、この成れの果て。夢が割れる音を初めて聞いた。そう簡単に受け止めきれる音ではなかった。小さい夢ほど割れないって言ってたの、誰だったかしら ‥‥ 割れたじゃないの。


" Damage "


~ サロンB・マネージャー室 ~

『はい、大井は切りました。はい、そうです、はい。では、失礼致します』

このサロンBで、8年間チーフ・マネージャーをしている私は、今オーナーとの電話を終えた。これからサロン隅にあるマネージャー室で、損益計算書を作成する。
誰もいない閉店後の真っ暗な店内、明るいのはここだけ。静まり返っている店内、音は私が打つキーボードの音だけ。

昨日、契約していたフリー・ペディキュアリストの大井アミが、4年間で積み上げたフットネイルのお客の担当をそのままうちのスタッフへ移行させるための最終過程( 契約解除 )を終えた。

いつまでもフットネイルを外注のまま続ける気はなかった。外注の契約制だと、施術料金の大半は技術者に持っていかれる。サロンの正スタッフにやらせた方が、はるかに利幅は大きい。とはいえ、顧客数は積み上がるまでには、それなりの年数はかかる。よって積み上がるまでは、固定給のない外注の方が効率的だった。

私は大井がいない日に、若手スタッフにフットネイルの技術レッスンはさせていた。大井がある程度お客を積み上げたところで、大井との契約は解除して、うちの若手にやらせるつもりだった。とはいえ、今はこういうことにセンシティブな時代。少々のテクニカルが必要だった。

4年前、大井との契約の際、法的に定められたものではないとされる、業務委託契約書の契約形態を私は請負契約に仕立てた。

【 ❈ 請負契約 = 当事者の一方がある仕事を完成することを約し、相手方がその仕事の結果に対して、その報酬を支払うことを約する契約 ―― 民法632条 】

客を装って、サロンA・C・Dに大井のフットネイルを受けに行ってもらったのは、私の旧知の友人3人。
彼女たち3人は、サロンA・C・Dでの大井のフットネイル施術翌日に、私の指示通り、気に入らないからやり直しで、ここサロンBに来て、私の指示通りの台詞を言った。

〈 あら‥大井さん、ここでもやってたの? 同じ人に直してもらっても、しょうがないわね、帰るわ 〉

彼女たち3人は、うちのつけ爪のリピーターさん ‥ と大井には嘘を言った。だから大井の施術の不手際が、結果的にうちの顧客を不快にさせ、売り上げにも響いた( 大井は仕事の結果を出していない )という格好を作った。これで請負契約解消へと持っていった。当然契約内容を知っている大井も、私から契約解除を通達された時は何も言えず、ただ私を睨みつけるしかできないでいた。

これがリアルというもの。薄味のリアリティーなんて、この世にはない。少なくとも、私は知らない。

蹴り飛ばし不可欠なものは、確実に蹴り飛ばす。
「売り上げは、いらないから、利益出せ」はオーナーの二言目だから。

私だって結果を出さなければ、冷酷なオーナーにすぐ切られる立場にいる。この先行き不透明なポジション、女1人生きていくため、なりふりを構う余裕などない。
「利益は右肩上がりじゃ遅い。垂直に上げろ、明日上げろ」はオーナーの三言目だから。

他に整理するものはないかしらと、いつも潜考せんこうするのは、サロンのためじゃなく、私自身のため。
「チーフ・マネージャー職に就く女は、Kicking Witch( しびれる悪女 )であれ」はオーナーの四言目 ‥ ではなく、私の二言目だから。

念押しは、フットネイル全メニューの期間限定・大幅プライスダウン。これで一部の熱烈な大井のファンもこっちになびいてくる。

Finally Over! ―― 私、ちゃんと、醜いかしら。

~ 東京ミッドタウン ~

それから半年後のある休日、私は六本木から東京ミッドタウン・ガレリア棟内へ入り、1人でショッピングを楽しんでいた。ネイルサロンのチーフ・マネージャー職も当然ストレスはたまる。その発散手段は買い物に限ると思っている。

ガレリア2階へ上がり、シューズ・ブティックの店頭に上品なスエード・パンプスを見つけた。それを手にとっていた時、ブティック・スタッフが近寄って来た。

「お客様、そちらの商品、私も履いています。こんな感じです」

私はスタッフの足元に目をやった。少しも丸みを帯びていないトゥの部分が目に入った。スタッフの顔を見て、会釈するのが面倒だったので、すぐに手に持っているパンプスに視線を戻した。

しかし、今聞いたスタッフの声は、かなり聞き覚えのある声だった。正視はせず、手に持っているパンプスを見ながら、視界の端ですぐ横にいる女性スタッフを探った。そこには半年前、私が切った元・ペディキュアリストの大井アミが、確かに佇んでいた。私より15cmほど背の低い大井は、つま先立ちで私の耳元で囁いた。

「つま先を痛めないヒールやパンプスはありません。でも、つま先なんて、どーでもいいですよね!」


" No, I'm Not "


~ 東京郊外のアパート・大井アミの部屋 ~

ペディキュアリストを廃業させられてから半年が過ぎた。
辞めてすぐに就いたシューズ・ブティックの仕事が今日も終わり、帰宅してすぐシャワーのあと、バスローブを巻きつけ、右足の爪にペディキュアを塗っている。今はもう足の小指の爪は潰れているので、指は5本でも爪が付いている指は4本しかない。半年前の屈辱の廃業のあと、生まれて初めて履いたヒールの窮屈さが、つま先と一緒に私の心肝を締めつけた。

画像9

いつかシューズのプロになって、つま先タイトな靴をたくさん作って売りまくる。
そうして、ごまんといる東京の女 ‥ そのつま先を完膚なきまでに壊してやると思い定めた。こうでも思わなければ、心の採算が取れない今の私。女の綺麗な生足を見ただけで、激しく憤るように豹変した今の私。

見苦しいのは分かっている。でも、とりあえず、引けない。

右足の爪を塗り終えた。4本の爪は、ほくそ笑んでいる。 私も片頬だけで、ほくそ笑んでみる。ほくそ笑んだあとに、絡みついてくる虚脱感は蹴り飛ばしたかった。だから、いつまでも懸命にほくそ笑み続ける。

でも、ほくそ笑めば、ほくそ笑むほど、目が濡れてくる。頬が筋状に濡れてくる。これも蹴り飛ばしたかった。だから流し台兼洗面台にある、スプレー式のフェイス・ローションをわしづかんだ。それを顔に何回も吹きつけて、頬が濡れているのをローションのせいにする。

すると、ほくそ笑む唇のすき間から、口内へローションの苦みが入ってくる。渾身で蹴り飛ばすように唾を吐いたら、虚脱感も涙も苦味も、やっと私にひれ伏した。

孤独でも心は忙しい ‥ こんな夜が続いている。
割れた夢のかけらを拾い集めるより、かけらを踏み潰して粉々にする方を選んだから。要するに私はバックができない女だから ‥ こんな夜が続いている。
ごまんといる東京の女 ‥ そのつま先を磨り砕いて、いつか穏やかな夜を手に入れる。そう定めた私の手は、ずぶ濡れの顔を少しも拭かずに、左足の4本の爪を塗り始めた。

見苦しいのは分かっている。でも、どうしても、引けない。もう少し、このまま、やらせてほしい。

~ 東京ミッドタウン ~

シューズ・ブティックのスタッフになって、腑の抜けた2年が過ぎた。
私は相変わらず悶々としながら、毎日先の尖ったヒール、パンプスを売っている。

ある日、店の端にヒール・アクセサリーのコーナーが設けられた。
ヒールなどのアッパー(甲部分)にクリップ式でつけるアクセで、リボン、ジュエリー、コサージュ、ファーなどの種類が所狭しと並べられた。これらをデザイン・制作しているのは小田ランというフリーのアクセサリー作家。ランは週に1度、商品の入れ替えで店に来る。委託販売の形だから、売れ残りは持ち帰り、そして新作を毎週持ち込み、売り場へ並べていく。

コーナーが設けられて、半年ほどでランは結果を出した。ブティックの商品コンセプトをよく理解し、それに沿ったものを作り続けたランのアビリティは高かった。
私は自分と同い年のランとすぐに仲良くなり、仕事が終わると一緒に食事したりする仲になっていた。
ランはアクセの作家だけではまだ食べてはいけないので、アルバイトをしながら生計を立てている。それでも、いつも活き活きとして、いつかアクセサリー作家だけでやっていけることを夢見て頑張っている。
私もペディキュアリストを始めた頃はアルバイトと掛け持ちだった。今のランは、その頃の私とよく似ている。そんなランを見ていたら、いつまでも燻っている自分が恥ずかしくなり、徐々に心の歪みが取れていった。

シューズ・ブティックの他のスタッフとは、挨拶と便宜上必要な会話だけ。休憩時間も作り笑顔とお世辞の言い合い。建前だけの人付き合いの面倒臭さに耐える毎日の中、ランが来る日は嬉しかった。私にとってランは久しぶりにできた友人だった。

「アミちゃん、あたし、これからも頑張る。よろしくね」

「うん、ランちゃんのアクセが少しでも売れるように、あたしも売り場で、できることは何でもするわ」

割れた私の夢は、もう戻らないけれど、私の分までランには輝いてほしい。心からそう思った。

それから1年後のある休日、ミッドタウン内では一番安く食事ができるラウンジで、ランとリゾットを食べている最中、フラットな日々に終わりを告げる携帯が鳴った。シューズ・ブティックの店長からだった。

『アミ、今電話大丈夫かしら。あのね、明後日からヒール・アクセサリーは、委託販売から買付販売に切りかえるから。よろしくね』

『ちょっと店長、それ、どういうことですか?』

『予定に沿ってるだけよ。いつまでもヒール・アクセサリーを外注のまま続ける気はなかったのよ。外注の委託販売だと、売値の大半はランに持っていかれるし、店でメーカーから直に仕入れた方が、はるかに利幅は大きいわ。とはいえ、ヒール・アクセの売りデータ、ウチにはなかったからね。データが出るまでは、売れ残りが返品できる委託販売の方が効率的だったのよ。あ、明日中にランの持ち込み商品、どかしといてね。ランには、このあとこっちから、契約解除のメールしておくから』

『ちょっと店長、それって‥』

『だって今月だけで、お客様からのヒール・アクセの返品が3回もあったのよ。すぐ壊れたってね。ランは少しも不服申立てなんてできないわ』

私は店長と一緒に毎日フルタイム勤務している。アクセの返品なんて1回もなかった。返品が嘘なのは明白だった。吼え狂いたかった。しかし、すでにランがレームダックにされているのを電話越しに感じた私は、無言で店長に圧をかけるのが精一杯だった。

圧が届いたのか、店長の声は、ドスのきいた重低音に変わった。

『アミ、これがリアルというものよ。薄味のリアリティーなんて、この世にはないわ。少なくとも、私は知らないのよ』

電話の後、目の前にいるランの顔を見れなかった。3年前の私同様、もうすぐランはランではなくなる。

社会のモンスターは小さい夢も容赦なく食べにくる。小さい夢って、そんなに美味しいのかしら。未熟な私たちはどんな味かしら。―― 違う、未熟と一本気は違うわよ。

今、私がずっと爪を見つめ、マニキュアの剥がれをチェックしているのは、このまま目を伏せ続けるため。―― マニキュアが少しも剥がれていないのは、わかってるわよ。

ランの携帯が鳴った。メール画面を見るランの顔が凍りついているのは、見なくても私にはわかる。このあと急速にランの顔が歪み始めるのも、見なくても私にはわかる。
わかるから、ずっと、マニキュアをチェックしている。

目の前にある、食べかけのリゾットの水気がなくなり、完全に干からびた頃、ラウンジの生演奏がスタイリッシュに始まった。それでも私たちは下を向いたまま、静止画像のように、動かない、動けない。

オーボエの音色が、垂れた頭を上げられない私たちをあざ笑っている。 騒々しいタンバリンも、私たちをせせら笑っている。演奏が、そんなヒスノイズに聴こえるのは、気のせいじゃない。
気のせいじゃないから、私は、ずっと、マニキュアをチェックしている。


Fin

《 2020.11 / First post on g.o.a.t 》