あたしが、あいをかたるのなら
人間の本質は『愛』だ、と僕は思っています。本質ってなんでしょう。「好き」も「嫌い」も「喜び」も「怒り」も「哀しみ」も「楽しみ」も「憎しみ」も『愛』から生まれるものだと思ってます。
そんな『愛』を語ることは簡単で、難しくて。でも表現者たちはしばしば、不思議と、でも自ずと『愛』というテーマに向き合っていきます。
アンノウン・マザーグース。『「ラブ」という得体の知れないもの』に向き合って、その全てを歌にしたwowakaの表現。何度見返しても、彼にしては驚くほど真っ直ぐな歌詞です。
そしてそれを、目に耳に感じた人たちに問い掛ける。「君たちの『愛』は本当に今のままで表現できるものなのか?」と。目を開けて、向き合って、自らの詞で語ってはみないかと。
彼が詞に込めた思い、「アンハッピーリフレイン」リリース後の葛藤については、DECO*27との対談記事などでも語られています。読めば、この曲が象るものが紛れもなく彼の人生の一端であることはすぐに分かります。
しかしこの曲、ある人の人生の一端を象ったものであると同時に、普遍的に捉えようとすればそれもまた可能です。今日は、そんなことを徒然なるままに書き綴るとします。今書き綴っておきたいから。そして折角なら、とここに遺しておきます。
僕にとって、愛を語る場所の最も大きな一つは「ここ」。彼の言う通り、愛を語り、音に呑まれることは「全世界共通の快楽」です。ひとりぼっちでも酔いしれることはできる。…ような気がする。本当に?
先回りをしますが、彼は誰も知らないこの物語を口ずさんでしまいました。誰も知らないその想いを唄で明かしてしまいました。僕らに聞こえるように、独り言を呟いてしまった。そうすることで清算できる想いがあったから。語らねばならないと思ったから。今が語るときだと思ったから。
きっと誰も知らない物語は、童謡のごとく聞かれ歌い継がれていきます。そして、それは僕らとて同じこと。それとは、人に共有したい感情があること。語りたいこと、伝えたいことがあること。
叫びたい。彼の心は張り裂けそうになっていました。だから、口ずさんだ。見境無い感情論を。
「好き」と言えたなら、「好き」を願えたら、それが過去の自分も、現在の自分も、未来の自分をも肯定してくれる。意味のある存在になれる。それが『愛』を歌うということ。それが呑み込んでいた張り裂けそうな心の正体です。
Give me love,again.
人間の本質は『愛』だ、と僕は思っています。本質ってなんでしょう。「好き」も「嫌い」も「喜び」も「怒り」も「哀しみ」も「楽しみ」も「憎しみ」も『愛』から生まれるものだと思ってます。
もう少しお話をします。「喜怒哀楽」プラス「憎しみ」。これらの感情は『愛』から生まれた「好き」から生まれるものだと思っています。
「好き」だから「喜び」
「好き」だから「怒り」
「好き」だから「哀しみ」
「好き」だから「楽しみ」
「好き」だから「憎む」。
生き写しのあなたは、ここに記された詞だ。貴方が奏でる音だ。貴方の昇華する画だ。
心臓が心の喩えなのだとすれば、彼も僕と同じことを思っているのかもしれません。愛に色を付けるならそれが何色か。僕はこの問いに答えられません。だって、そこには無限の可能性が広がっている。「虹色」すら、それを満たす答えとしては不十分に思えてしまいます。
歌姫や、かつての仲間たち、言うなれば戦友に向けて彼は言っているのだと思います。
でも、僕が「ここ」に当てはめて考えたとき、「ここ」の意味が疑われたときのことを考えれば、僕のなかでは僕だけの、独自のドラマが展開していきます。
誰のおかげでここに『愛』を語れるのか。ただ口ずさんだだけの詞が人々の目や耳に届くのか。それは本当に独りで、孤独の中で達成されうるのか、違うでしょう。「誰か」がそうしてくれる限り、僕はここに帰ってくることができる。
そして、今は住んでる此処からいつかは離れたとしても、きっと帰ってくる。あるいは定住して、自分が次の「誰か」になるのかもしれません。どうなるか、先々のことは今は分かりません。
爪弾きにすれば『愛』はどうなるんだろう。失えない喜び、あるでしょう。手放すことすら出来ない哀しみ、もちろんあるでしょう。その全てを、彼は抱きしめていたいというひとつの「答え」。爪弾きなんて。
この6文字だけ見てみると、えらく子どものワガママのようにも見えます。当たり前といえば当たり前になってしまいます。この曲の表題はアンノウン・マザーグース。本来子どもにも広く親しまれるようなものですから。
改めて少し前の表現に立ち返る。
「好き」と公にして言うことは、周りに向けて自分が目立つようにスポットを当てることであり、同時に自分が進むべき道や自分の心の中、自分でも分からないことに光を当てることでもある。
そしてその光は、きっと相互関係の中で一層明るくなっていきます。
もっと言わせて。「ここ」の将来を照らすのは、燻っている人々の一声の積み重なりです。表現者がいて、それを消費し、感じたことを口にしていく者がいて、未だ見ぬ世界が来ます。少なくとも、僕はそう思っています。反論があってもいい、それもまた一声。
歌詞は、詞です。詞と書いて「ことば」と読む。
それがもっともシンプルな「表現」の手法であるがゆえに、言葉にすれば何もちっぽけで安っぽくなってしまうような気がしますし、そこには常に語弊を生じさせるリスクも存在します。
でも同時に、多くの場面で人の心を動かしてきた人間の武器の一つは「言葉」です。「言霊」という語があるように、言葉には魂が宿るし、人は大方それを感じ取ることができる素養を有しています。たぶん。
「あい」をかたりつくすために、こどものころにたちかえったきもちで、うたをくちずさんで。
あるものはそれを「字」におこし
あるものはそれを「音」にのせ
あるものはそれを「絵」にあらわす。
なんだっていいんだけれど、きもちを「表現」することをためらわないで。その「表現」がきっと、行く末を照らす灯だから。
20. アンノウン・マザーグース【曲紹介・感想】
#vocanote
こどもの日に出した方がぽかったかもなんて後悔しても後の祭り、公開ボタンに手を伸ばします。読んでくれて本当にありがとうございました。
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