24日奥多摩古民家焚き火の会
モンスーン遠地点の今日はキツかった。4件の音読指導をこなした。しかし午前から雨の中車で外出し長時間駐車場に停めて、自転車移動による疲労を防いだ。コロナ周辺にも匂い、自分が毎日8時間以上も眠ることを不思議に思う。
24日午後、奥多摩の古民家を訪問した。着くとそこは「もぬけの殻」。後で中に留守番の女性がいたことを知るが、積んできた薪を下ろすと、すぐにそのまま「飛び込み河原」へ向かう。
車を道路脇木陰にとめて、靴を履き替えて、山道を下へ下る。道は細いが整備された直後なのか、草が生えてなくて意外と歩きやすい。眼下木々の葉を通して、河原全体の景色が眺望する地点に着いた。直線距離で50メートルほど下のところに人が見えるが、明るい河原からはこの木陰の姿は発見しにくいことだろう。
Peep the people―集団から孤立するアウトサイダー的性向者からすれば、これはまたとない喜びである。これと同じ感覚は、良からぬ想像ではあるが、戦争で山岳ジャングル行軍中に、眼下にある村と人々の生活を眺めた瞬間などなどならでは得られる瞬間ではないものである。
眼下の河原の隅の木陰には数人の帽子を被った女性たちと子どもたち。幼い子も何人かいるが、皆散々冷たい川で遊んだ一休み中という風情。陽の当たるところに、もはやこれ以上黒くならないだろうと思われるほどに陽焼けしたハラカヌーとオガサーレイ。何かしきりに話している。少し離れた岩の「竈門」には、流木などが詰め込んであり、しかもヤカンがかかるが、燻ぶる気煙だけで火は起こっていない。一人の体格の良い男性が、これに息を吹きかけているがうまくいかない。車まで戻って最新風送り兵器を取ってきてやろうかと思うが、二人の陽焼けがすぐに解決するだろうと思ってそのままにすることにした。
人数を数えると、結構男性の姿もあって20人以上。向こうの「急流」で遊んでいる連中が4〜5人。30人近くの集団であることがわかる。
自然を満喫する人々。個々人全ての状態を観察した。そして自然に瞑想に入る。
それはもう10年以上前、都市生活で精神体調バランスの悪くなった子どもたちの回復のために、思い切って千葉の農家の力を借りて焚き火教育を始めた。その「手応え」は想像以上に大きいものだったが、その継続はなかなか面倒なことだった。詳しくは書かないが、子どもたちを移動させるための手段には苦労した。高速バスを使うにしてもバス停まで迎えに行かなければならない。現地で思い思いに遊ぶ子どもたちも見守るのも大変。サポーターは全てボランティアだった。この「助っ人」として登場・活躍したのが現Tokyo Sawyer代表前田だった。前田は当ブログを読み、本当かどうかかなり逡巡した上で私にアクセスしてきたと言う。
回を重ねて私の教育論に賛同した前田は、あるとき私に尋ねてきた。
「焚き火の次は何なのですか?」
私は即答した。
「焚き火の次は囲炉裏よ。囲炉裏のある古民家と焚き火がある自然環境で、子どもたちのアタマを本来の冴えまくる状態に環境設定して、そこで自主学習フィールド学習教育を行う」
私はいつも質問にその場でテキトーに答える者であるが、これまた驚いたことに前田はこれを実践した。いやそれ以上にこれを教育に応用した。
教育において最も大切な視点は「能力開発」である。
しかし、その「前提」には、「教育環境設定」があり、そしてそれには「自然環境」が欠かせない。
子どものアタマをヨクするには、生野菜と自然環境。
前田は、常人にはできない驚くべき試行錯誤と忍耐の連続の結果、奥多摩珊瑚荘の庵主となることに成功した。
そして、全てはそこに始まった。
「自然環境」ならぬ、「教育環境設定」は実現した。
ゆえに、そこに最大限の「能力開発」教育が可能となった。
今目の前机上に、主要参加者たちの文章をまとめた『奥多摩古民家会報第1号』があり、その裏には「奥多摩珊瑚荘作家連」とある。
こいつらが生まれたことこそ、この教育の「華」である。
自分の考えを自在に述べることができる若者たちの創造。
小説もエッセイも論説文体もお手のもの。
こんな人間がどうしてできるのか。
彼らの先輩はSFCダブル合格。そうでなくともホイスカ推薦入試合格。
それは奥多摩珊瑚礁古民家で焚き火を経験したためである。
デキる者は、夜を徹して焚き火を実践する者である。
彼らはその「エネルギー」を知った。
焚き火のエネルギーの連続がなければこれは起こらなかったことなのである。
暖炉の前のデカルトはともかく、縄文人、いやネアンデルタール人も知った「火」=「炎」のエネルギー。それを子どもたちに届けることの正しさを実践してきたが、今眼下河原にいる子どもたちを眺めると、そこに「河」=「水の流れ」と言う焚き火同然にエネルギーを与えるものが見えてくる。
私はそれを見渡して納得満足した。
火、水、風、植物、そして太陽。
そこにそれを完全吸収する人たちがある。
これは一種の「充電」である。
全ての子どもが自然を満喫し、それをこの場に連れてくるという役目をしている親たちもこの自然を満喫している。
善哉善也。
幸せはこの木陰下の光景にある。
そこには感性と直勘による「判断」と「行動」があったのである。
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