誰かのオタクでいるということ
これは推し活の話です。あと、本当はきちんと文章化したかったんだけど、上手くまとめられませんでした。なんとなく残しておきたいな、と思ったので、まとまりがないまま書きます。
前に「何故生きるんだと思う?」って話をされた時に、「いつか死ぬため」と答えたことがあります。これはネガティブな希死念慮があるとか、そういう話ではなくて、ただ単に全ての事象は始まった瞬間終わりに向かうと思っているからなんですけど。
ケーキは食べ始めたらいつかなくなるし、歩みを続けていたらいつかは目的地につくし、どんなイントロも最後はアウトロになるし、この文章も読み進めていたらいつか終わる、生まれてきたら人は死ぬんですよね、最後は絶対。
また別の方に「なんでいつかは誰かと結婚してしまうかもしれないのに、男性アイドルが好きなの?」って訊かれたことがあります。
さくらいは所謂『夢女子』なので、これはその方の思考の引き出しにそういった思想がないためにでてきた質問でした。結婚、というのはこの思想におけるひとつの終わりと言えるかなと思います。
そのときは「いつかは誰かと結婚するかもとか考えながら推したことなんかないよ、人は必ずいつか死ぬけど、あなただってこの子、いつか死ぬかも……って思いながら誰かを好きになったりしないでしょ?」と答えました。
死ぬ、はちょっぴり大袈裟だったかもしれないけど、いつか終わりは来るんです、なにごとにも必ず。でもそんないつか来るかもしれない終わりのことなんか、好きになる時にいちいち考えない。
自分もいつか死ぬって分かってても、どうせ死ぬんだ、じゃあ生きてても無駄だし今死ぬか!とは(心が穏やかであれば)なかなかならないじゃないですか。それと同じで。まあだからこそ終わったときに悲しいのですけど。
これはいつだかインターネットのどこかで見た話なんですけど、ねこを亡くしてしまうと人の心にはねこ型の穴が空くんだそうです。ねこの見た目や個性は様々ですから、その穴をふさげる別のねこはどこにも存在しないと。
ねこに限らず、きっと同じくらいの愛情を注いだものに関してはなんでもそうなのではないかと思います。結局100%条件を満たす代わりなんてどこにもいないので、新しい家族をお迎えしたとしても、新しく好きだと思える推しに出会えたとしても、どこかに隙間は残ってしまうんじゃないでしょうか。
このせかいに生まれた以上、たくさんのはじまりと終わりを繰り返しながら生きていくしかないです。しいていうなら、自分から手放す形で失う時は、そうでない時に比べたら少しは気持ちが楽なのかもしれないです。失う覚悟をしているということなので(それでも喪失感を0にできるわけではないのですが)
あとは、その対象に自分の心がどれだけ依存しているか、も喪失感の度合いを少し左右するのかな、と思います。
他人、それも誰か1人の軸にだけ自分を委ねて生きていくのは心地よいけど危うくて、なくしたときに空いてしまう穴はとても大きいし、少しずつでも埋めるのにものすごく時間がかかってしまう。例えば周りの人はもう前を向いているのに、自分はいつまでも立ち直れないでおいてきぼりになっている、なんてこともあると思うのですが、そういうときは焦らなくていいと思います。
周りの言うことも気にしなくていいです。『この先も応援できないなんてファンじゃない、心がない』なんて決めていいのは、それこそ応援されていた人以外にいるはずがないでしょう。
どうしても受け入れられないものを無理に受け入れる必要だってどこにもなく、しいて言うのであれば必要なのは考え方の違う人間の思想をただ認めることだけだと思います。そこに納得も理解も必要なく、ただお互い否定さえしなければいい。これは別に推し活関係なく、だいたいのことに当てはまると思うのですけど。
推し活って言葉、なんだかカジュアルで楽しそうな言葉だと思うけど、実際のところこういう苦しみを伴う機会も人より少し増えるような気がします。それでもやめられないのは、同じかそれ以上に楽しいと思う時間が多いか、苦しんだ分だけ楽しい時が際立つからなのかもしれないですね。
いま、わたしの近くで好きな人がいなくなる事に悲しんでいるひとたちが早く元気になってほしい、なんてこれはただのエゴですけれど、ごはんがおいしいとか、おふろがあったかいだとか、ささやかでも幸せなことがありますように。
そして、新しい道を選択して舞台を降りることにした全ての人のこの先がずっと明るいこともお祈りしています。