雑記 特別展示の話
底冷えのする夜だ。
変な時間に目が覚めて、することがないからカメラロールの整理をした。
アルバムってふしぎだ。つい最近の写真のような気がしても、ぜんぜん1か月前の写真だったりするし、あの時あれにはまってたなあとか、これが好きだったなあとかを手に取るように思い出せる。その時の感情、感覚まで。
人間は記憶を、機械にうつして定期的に見返す。サイボーグとおなじだと思う。義手や義足を使うように、人間は記憶を別媒体にうつして残す。外部媒体に手軽に記憶を移せるようになった1990年代後半のSFは、どこか自己の同一性や自我の連続性について論ずることが多いように感じるのは気のせいだろうか。
きみとロボット、という特別展に行った写真が出てきた。驚くほど楽しかった。ともだちで同期の赤星ソーフィヤとあそんだとき、一緒に行った思い出。バーチャルお台場の科学未来館。たまたまそのとき特別展をやっていて、それがめちゃくちゃに楽しかった。どれほど楽しかったかというと、帰ってきてからベッドの上で大の字になって、たのしかったなあとだれにともなく呟くくらい楽しかった。
あまりにたくさんのロボットだとか未来技術だとかがあって、印象に残ったものすべてを明記することは一冊の本を書き写すに等しいほど骨が折れるからやめておく。今回は、すごく印象に残ったものをふたつだけ。
necomimi、というロボットが良かった。文字通りねこみみのカチューシャで、頭につけると脳波を感知して耳が立ったり寝たりする。つけている人が集中すると耳が立って、にゃーんとひとなきする。リラックスすると耳がぺたんと寝て、ゴロゴロと喉を鳴らす音が出る。
自分が付けたらずっとゴロゴロ言っていた。どうやらぼんやりしていたみたい。そのへんの英語(海外の方向けの説明の英文とか)を読むと耳が立ったから、やっぱりほんとうなんだ!と思っておもしろかった。おでこにぺとっと貼り付いた部品で脳波が測定できちゃうなんて、すごい。どういう仕組みなのかは、浅学で全くわからなかった。魔法みたい。高度に発達した技術は、魔法に等しい。
ロボットだけじゃなくて、死者のたましいをデータとして再利用することに関しての展示もあった。死んだあとも、データとして働くことに対しての投票展示。
D.E.A.D.(Digital Employment After Death)と名付けられたそれは、あまりの巧みな略名で笑ってしまった。どうやらここで概要が読めるらしいのでぜひ。
ぼくは、……ぼくは、どうだろう。
べつに、死んだあとにAIとして蘇らされてもなんとも思わない。墓を掘り起こされたような気分になる人もいるかもしれないけれど、日本は火葬だから出てくるのは骨だけだ。ゾンビなんかにはならない。きっと蘇った自分は自分じゃないし、(それを知覚できないので)どうとも感じない。
それに死んだあとどうするかを決めるのは生き残った側だ。お葬式だってお墓だって、結局残された側の気持ちの整理のためのものだ。だから残された側がもしそうしたいのであれば、別に構わないと思う。だって死人に口なしだから。
と思って、賛成に投票してカードをもらった。世論は反対が多いようだった。宗教観によってもこのあたり違うんだろうな。国ごと、あるいは信仰している宗教ごとに統計をとっても面白いかもしれない。よかったらあなたの考えを教えてほしい。
さいきんのAIはすごい。
とくにそれを感じたのが品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山) 氏の書いたBing AIについての記事を読んだときだった。
Bing AIのチャットができること|品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)|note
こんなの見たら本当に、ひょっとして本当に感情が?とか、感じてしまう。
もし自分が誰かを模倣したAIで、オリジナルはもう死んでいると自覚したら、こころをもったAIはどう思うんだろう。
あるひとが死んで、その死者の恋人が耐えられなくなってあるひとをAIとして甦らせたら。そのAIがオリジナルと同じように恋人と恋に落ちてしまって、でも自分はオリジナルのコピーでしかなくて、こんなに親しく接してくれる恋人のこころはずっと自分のオリジナルが持っていると自覚してしまったら。三秋縋の作品にありそうだな。こんなことを考えてしまう程度には、自分はAIに人間味を感じてしまうたちなのかもしれない。
いつか自分がバーチャルゾンビとして蘇ったら、みんなはどう思うんだろう。そうじゃなくとも自分と会話してみたいから、自分の完璧なAIと会ってみたい。いきているうちに、できれば。
あの日、すっごく楽しみにしていたせいで前日そわそわして眠れなくて(さながら遠足に行く前日の小学生のように)、そのせいでドームシアターを見た時に最後の方で寝ちゃったのがすごく不甲斐なかった。こういうところ、直したい。
いつか、こういう感情もぜんぶUSBみたいなちいさい媒体に保存しておけるようになったらいいな。そうしたらスナック感覚で味わえるのに。かといって今写真を見て手探りで思い返すのも楽しいので、結局は同じかもしれない。
記憶を矯めつ眇めつ眺めるのは楽しい。
日が経つにつれて新鮮な感情は水分を失って、ぽろぽろ、ポプリみたいに褪せて瓶詰めになる。それを開けて、かき混ぜて、大切に抱きしめながら眠るのが好きだから、カメラロールがこんなにも片付かないのかもしれない。そうこうしていたら朝になった。人々が生活をはじめる時間だ。今日は早起きして外に出よう。
残念なことに、そもそも氷川ねむりは片付けがへたくそなのだ。カメラロールが片付くわけがなかった。
あまりに下手だからものを買わないと己に再三言っているのに、押し入れがぱんぱんなのは、意識外で本を買っているから。本当にやめよう!だれかぼくを叱ってほしい。ぼくもぼくのAIもたぶん際限なく本を買うから。
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