ことばについて考える
ふとベランダに出て空を見上げたとき、なんとなく星がきれいだったり夜風が気持ちよかったりする時の言葉がほしい。
ギリシャ語で雨の匂いを示す言葉があることを知って、うれしくなった。正しくは雨が降った時の石畳の匂い。あの匂いと感覚をつたえたいと思った人間が他にもいたんだなあ。全くちがうところで生活している人間だったとしても、同じことを考える。それは幸せなことだと思う。
ことば、というものが好きだ。
とりわけなんの言葉が好きだとか、言語化が得意だとか、そういう明確な何かがあるかと言われたらそうではなくて、ああ、好きだなあと、文章をなぞる度に思う。
土地によって、地域によって違って、言語の違いによって考え方も違ってきたりだとか。自分は言語学が堪能なわけではないけれど、なんとなく面白いなと思う。
ことばは、「あなたにこれを伝えたいです」という気持ちからはじまっている。必ず誰かがいないと産まれないものだ。それは愛だと思うし、ほんのりとした絶望でもある。言葉は武器にもなり得るし、やわらかいタオルケットにもなる。
お屋敷の夜はとっても賑やかで、素敵な空間で、あたたかくて、ほっとする紅茶の匂いが漂っていて、それがすごく好きだ。誰しもが誰かのためを想って言葉がやりとりされている空間であり、悪意のない場所である。とおもっている。そこに居られる自分を誇りに思う。
お屋敷から出て自分のおうちに帰るとき、いつもお祭りの後みたいな気持ちがぴったり貼り付いている。
お祭りの後の感覚、あれにも名前がほしい。
どこか浮ついていてふわふわしていて楽しくて、後ろ髪引いてさみしい感じ。調べたら「祭りのあと症候群」なるものがあるらしい。その感覚は「祭りのあと」としか伝えられないみたい。でもやっぱり、みんなこの感覚を持ってるんだと思ったら、不思議な気持ち。
エモい。そう、エモいって言うのかも。
でもエモいって一言で終わらせちゃうの、寂しいよなあ。コンビニエンスなことばは感情をインスタントにしてしまう。消費される。スワイプして次に目を向ける。もう前のものに目は向かない。
やっぱりことばは難しい。
誰かに伝えるために生まれたはずのそれが、何かを型にはめてしまうために使われてしまう。行き場の無い感情を届けるためにできたものが、寄る辺ない思いを形骸化してしまう。
そのうえ言葉は、勝手に作っても相手に伝わらなかったら意味がないからむずかしい。自分はときどき、この思いをどうしても手持ちの言葉で伝えられないからと、脳みそをくっつけ合えたらいいのにねなんて話をすることがある。そうしたらおんなじきもちになれるのにね。
でも、ことばなんて不確かなツールを使いながら、不器用に気持ちを伝えようとするそれは、かわいいと思う。愛おしい。
だからやっぱり、ことばが好きなんだと思う。それらを必死に使おうとする人間が。
ことばなんかなくったって、いずれ人間は感情をデータとして共有できるようになる。htmlタグに紐付けされた感情をダウンロードして、簡単に楽しめるようになる。
そう思ってしまうのは確実にとある作品の影響で、自分はそれが到来したらどんなに面白いかと思うけれど、ちょっぴりさみしい気もする。17字で行き場のない感情を伝えようとした時代のこと、たくさんの140字が花筏みたいにならんでいる時代のこと、忘れたくはない。
ザラメみたいにちらちら光る星とか、今だけはなんでも許されるようなまったりと甘い空気とか。
あの静かな夜の、なんだか全部諦めたみたいなやわらかい風と、イヤホンから流れる音楽に、救われながら生きている。この感情が誰かに伝わればいい。
氷川ねむりは幸せものです。
あなたに会えて幸せです。
この気持ちがどうか、冷めてしまう前に、あたたかいうちに伝わりますように。