雑記 翻訳できない わたしの言葉
前に、ずっと気になっていた展覧会、『翻訳できないわたしの言葉』展に赴いた。とても良かったし、ことばを扱うわたしたちにとって大切なもののように思えた。
翻訳できない わたしの言葉
展示場では、一室一室かなり時間をかけてまわった。なんだかそうすべきだと思った。ぐるぐる、ぐるぐる。途中に休憩スペースがあったり、再入場が可能だったり、座って体験できるスペースもあったりして、体力がないわたしでも端から端まで楽しめた。
布にくるまれた、袋に入った水にたぽたぽと触れて、身体感覚に思いを馳せたり、いま広く使われている言語が共通語とされる道のうしろに、きえていったことばのことを考えたり。
本編の展示については、調べればたくさん内容が出てくると思うので、わたしはとくに印象に残った最後の部屋の「わたしの言葉のガーランド」について記しておこうと思う。
「わたしの言葉のガーランド」では、来場者が自由に感想を書けるメモが置いてあって、それを紐に吊るすことで最終的にたくさんの来場者による感想や思いによるガーランドが出来上がるというものだった。わたしは終わりがけに足を運んだこともあって、もうすっかりガーランドが出来上がっていた。これが、本当に、この展示を締めくくるに相応しいとても素晴らしいものだった。
アルファベットの羅列に、何だろうと目で追うと、日本語の方言の音で綴られた文章だったり。全く読めないアラビア文字の文章だったり。勉強していないのに何故かなんとなく読める中国語だったり。これが「ことば」なんだと思った。無形の、でも熱のある、確かにそこにひとの影があるものだった。
わかりにくい方言を矯正したり、上京したひとが標準語を使うようになったりしたこと。その間で抜け落ちたような「なにか」のニュアンスについて、寂寞の感を覚えた日のこと。英語の勉強なんて大変だから、世界のことばがまるきりひとつの言語になってしまえば楽だと思った日のこと。その先にある、その言語にしかないことばの消滅のこと。
言語が思考に影響を与えるという、「言語相対論」という考え方がある。異なる言語の話者では、思考のプロセスが異なるというもので、その程度については研究者によって諸説あるものの、学術的テーマとして現在も研究されている。
もし始めから全ての言語がまるごとひとつだったなら、いま、わたしはこの思考を持たないのかもしれない。もっと違う性質を持っていたかもしれない。無形のことばは、思考は、その行先のことは誰も知らない。
わたしは、自分のことを話そうとするとのどが詰まって涙が出てくることがある。ことばが喉につっかえて、代わりのように涙が溢れてくるのだ。自分で調節できるものではなく、ほぼ生理的なものなのだが、これはわたしの、からだのことばなのかもしれない。
からだのことば。こころのことば。無形だったとしても、そこに確かにぬくもりがあるもの。たくさんの手札の中から、あなただけに向けて選ばれた花束のようなことばたち。身体からの、もっとも直接的なものたち。それをあたたかく包んで、たいせつなひとに渡せたのなら、そのままの形で受け取れたのなら、それ以上に幸せなことなどない。きっとたぶんそうだ。幸せということばの無責任さが憎らしいときもあるが、混じりのないこれをしあわせと呼びたいと思った。
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