文治地震
1185年8月6日正午頃(西暦)後鳥羽天皇の時代
【規模】マグニチュードM7.4(諸説あり)
【震源】琵琶湖西岸断層帯 または 南海トラフ(諸説あり)
壇ノ浦の戦いから3ヶ月余りで起きた地震
治承・寿永の乱の壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)から3ヶ月余りの8月6日、京都を中心に大きな地震が起きた。京都では三十三間堂が倒壊し、岡崎にあった『六勝寺』のうち法勝寺の八角九重大塔が破損するなど、白河エリアを中心に甚大な被害が出た。
琵琶湖の水は北流して干上がり、比叡山も被害を受け、宇治橋は崩落した。京都以外でも津波があったと伝わる。都では9月末まで余震が続いた。
被害のあった三十三間堂は鳥羽上皇に平清盛の父・忠盛が寄進したもので、六勝寺は白河天皇から5代にわたって天皇の願で建立し院政が行われていた場所であった。
後鳥羽天皇は元号を「元暦」から「文治」に改元し、戦でなく文で治するという願いを込めたが、同年11月28日には、源頼朝による守護地頭の設置の要請を朝廷が認める「文治の勅許」が出されることとなる。