Review:Azavana 『0=』
──ねぇ、キミは知っているかい? かつてAshmaze.というバンドがいたことを。
彼らの楽曲はいってみれば、「乖離」を伴っていた。一聴してみるといい。手数の多い煌びやかなフレーズを撒き散らすツインギター。抜けのいい音造りでメロディアスなプレイを聴かせてくれるドラム。それら三人を繋ぎとめるためせわしなく動き回るベース。エッジィな演奏ぶりと対照をなす甘い声質のボーカル。ここからはいくつもの単語が想起されるだろう……「メタルコア」「ポストロック」「エモ」「Djent」……。けれど、いずれかの単語で類型化してしまえば、とたんに演奏の妙味を見失ってしまう。
なるほど、彼らの音楽性はひとことで形容しがたい。しかしながら、無節操にアイディアを詰め込んでいるわけでもない。むしろ贅肉を削ぎ落し、骨と皮が剥き出しになったような音像だ。ここでは、全員がみずからの音楽的ルーツを激しくぶつけあうことで、歪なグルーヴを形作っている。5ではなく1 vs 1 vs 1 vs 1 vs 1の音。すなわちAshmaze.の音楽とは、人と人の摩擦から生まれた火花のようなものだ──思えば、こうしたバンドのありかたは、LUNA SEAの時代から続く、ヴィジュアル系のひとつの伝統でもあったね──。
しかし、早くも「Ashmaze.」に終止符が打たれた。同年4月22日の単独ライブをもって、Vo.双真が脱退してしまったのだ。残された4人は解散を選ばなかった。同年9月2日、新Vo.遼(ex.-VIRGE)を迎え入れてバンドは再始動する。それに伴って、バンド名も改められる──「Ashmaze.」から「Azavana」へと。
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Azavanaは同年11月19日、ふたつのEPをリリースした。新規曲を収録した『0=』と、Ashmaze.とVIRGEの既存曲をセルフカバーした『回想録』だ。今回は『0=』に注目しよう。ここには、Ashmaze.以前とのスタイルの違いが如実に現れているから。
『0=』は「乖離」より「調和」のサウンドだ。なにより一番に、新Vo.遼を軸とした作風に仕上げられている。
Vo.遼は、高貴な雰囲気をまとったハイトーン・ボイスを得意とするボーカルだ。彼はかねてよりVIRGEのフロントマンとして活躍していたため、すでにその名は広く知られていた。その彼を迎え入れるべく、『0=』はミドルテンポでボーカルをじっくりと聴かせる曲構成となっているんだ。むろんテクニカルなプレイヤーが揃ったバンドだ、楽曲にはさまざまな仕掛けが施されている。けれども、それは他のプレイヤーを脅かすようなものではなく、あくまで遼の歌声を引き立てる役割を果たす。
遼の書くリリックも、バンドの調和を強める。前Vo.双真は歪な人間模様や現代社会を風刺してみせるアイロニスト(皮肉屋)だった。また同時に、街の光景を克明に描写してみせるレアリスト(写実主義者)でもある。遼はどうか? 今作での彼は、みずからの喪失体験を高らかに歌い上げてみせる。いわば、慟哭のロマンチスト(ロマン主義者)だ。
EP全編においてくりかえされていく「堕ちる」「見えない・伏せる」の言葉。これは遼自身の伸びやかな歌と好対照をなす。彼が声を張り上げるほどに視界はぼやけ、哀しみが身体を重くする。そしてAshmaze.時代よりも分厚いミドルテンポのギターリフは、遼と同調し、詩の説得力を倍加させる。Azavanaは失われた故郷のもとに集い、調和する。5人は歌うほどに堕ちていく……。
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かつての仲間との別離をきっかけにして、残された者たちが結束する。これは人間社会でしばしば起きることで、とりわけバンド・ミュージックの世界では創作のトリガーにすらなりうる。このメカニズムを解き明かすのに、わざわざむつかしい本を開くまでもないよ。たとえば、Pink Floyd『炎 〜あなたがここにいてほしい』を聴くとすぐさま理解できるはず。だが重要なのは、彼らはやがて喪失の次を目指したということ。活動後期の大作『The Wall』がそれを物語っている。
Azavanaはいまだ岐路に立っている。故郷喪失のモチーフはとても強力で、これを一生背負うことで傑作を生み出し続ける作家は数多く挙げられる──たとえばアンドレイ・タルコフスキーやパウル・ツェランを想起されたい──。けど、創作のモチベーションを保つ方法は他にもいろいろな選択肢がある。もちろんそれらの優劣を決めようって話じゃない。
これからAzavanaは何を指針とするのか? 遼は何を見つめ、何を歌うか? バンド・アンサンブルが表現するのは「調和」か「乖離」か、あるいは他の何かか? わたしは5人の選択を、この目で見届けたいんだ。
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