星を纏う ─ 伊藤美来 Live Tour 2024 「from now on」名古屋公演・現地感想 ─
はじめに
どらこ爆発と申します。伊藤美来さんが七尾百合子役で出演している「アイドルマスター ミリオンライブ!」シリーズのファンをしております。
正直に申し上げますと、私と伊藤美来さんとの繋がりは、それ以上のものがありません。標記のライブを現地にて鑑賞し、今、こうして思うところをしたためさせて頂こうとしている訳ですが、もとより、キャパの小さな人間である私は、「ミリオンライブ」という膨大なコンテンツに生活を捧げるだけで手一杯であり、今更に声優沼へ沈むだけのゆとりは、残念ながら持ち合わせていないのであります。
しかしながら、標記のライブを鑑賞した私は、ある証言を為さねばならぬ衝動に駆り立てられました。そのような衝動の出力が本稿であり、ライブのリポートないしレビュー記事という性格を持つものではないことを、ご了承ください。
また、どうしてもセットリストやステージ演出等へ具体的に触れる箇所も出てまいります。これからライブツアーに参加しようとする方におかれましては、ネタバレとなる可能性が多分に存します。その点もまた、ご了承ください。
ライブ構成の確認
さて。去る 2024 年 6 月 23 日(日)、名古屋・愛知県芸術劇場大ホールで開催された伊藤美来さんのライブは、2 つの新曲『Now On Air』と『点と線』とを引っ提げてのライブツアー、その初日公演でありました。
ライブへの予習としましては、サブスク配信サービスを活用して曲を聴き込む程度のことしかしておりませんでしたが、それでも、この2曲が主軸となるのであろうことは、そのリリース時期などから容易に推察されました。
そして、事実、おおよそ 2 部構成をとったライブのセットリストにおいて、両曲はそれぞれ、前半パート、後半パートの最初の楽曲として歌唱されました。
ひとつ、重要なことは、いずれのパートにも冒頭、歌唱に先立ってショートムービーが用意されていたことです。アーティスト単独ライブというものを初めて鑑賞する私には、これがごくありふれた構成であるのか否か、定かではないのですが、それでも敢えて、断言いたします。
この構成は、大成功でした。
『Now On Air』 ─「私」が「声である」こと─
開場の時間は押しましたが、開演は定刻通り、18:30 ぴったりであったと思われます。開場が遅れたのは機材調整のため、とのことでありました。恰幅の良い男性スタッフが、大ホール前の広い空間に、よく通る声で、何度も繰り返し、アナウンスをされていました。
遅れた開場の時を迎え、手際良いもぎりを受けて、会場内へと歩を進めました。オーセンティックなコンサートや演劇にも使われるのであろう、芸術劇場大ホールは、ゆったりと座れる椅子が、立ち上がるのにも窮屈さを感じさせない感覚で並んでいました。開演は定刻通りの 18:30 。二階席の端の方──それでも随分とステージを近くに感じられる席で、私はその時を迎えました。
オーバーチュアに続く、ショートムービー。それは、『Now On Air』という楽曲のコンセプトに全く見合うものでした。
──私は、声。
マイクに向かって台本[ホン]を読み上げる、伊藤美来さん。
その姿を見て、瞬間、私はあまりにも軽率にこの場へ居合わせてしまったことに思い至り、冷や汗を垂らしました。
そうです。容易に推察できたことではありませんか。
このライブは、声優である伊藤美来さんが、正面から、真っ向勝負に、「声」をテーマに掲げて挑むものであったのです。
繰り返しますが、映像は、マイクに向かって台本を読み上げる、伊藤美来さんの姿を映し出しておりました。
美しい声で届けられる、美しい言葉。それが台本に書かれた言葉であることを、包み隠そうとはせず、いや、それこそがあるべき姿として、映像は私にあらためて思い知ることを迫るのでした。
声優にせよ、役者にせよ、台本を読み込み、そのセリフもト書きもしっかりと自分のものにした上で、演技に臨むものでありましょう。
それはすなわち、他者の言葉を自分の言葉として引き受けることを為し、さらにその上で、一度は我が物とした言葉を他者の声(あるいは所作)として手放すことを意味するのです。
それはそもそも、声というものにまつわる、ごく当たり前の、しかし考えてもみれば非常な、一種の困難ではないでしょうか。
言葉を持って生まれてくるものはありません。言葉とは常に、誰か、他者のものである。それを私たちは、自分のものとして行かねばならない──「自分の言葉」に責任を負うことすら、しなければならないのです。
しかも、その言葉をひとたび、声として発するということは、その瞬間に、その言葉はもはや、私のものではなくなっているはずなのです。にも関わらず、私たちはまるで自明のように、人の発する声を、その人自身を表すものであるかのように受け止める。そのように受け止められることを、まるで自明のように要求される。
『Now On Air』という楽曲は、「声」と同時に、「夢」や「未来」をも重要なテーマ、あるいはモチーフとした楽曲です。声のように、あるいは声の伝える言葉のように、不確かで、その形を如何様にも捉えられる、夢や未来。にも関わらず、私たちが具体的なこの世で生きるにあたって、何かひとつの明確な形を持って存在することを擬制されずにはいられない、夢や未来。
私は伊藤美来さんの来歴をほとんど知らないのですが、それでも、この方が夢を、かつて夢見た未来を、今、生きているのであろうと、漠然と思っておりました。それは畢竟、間違いではないのだと思います。しかし、
──私は、声。
その言明は、宣言は、『Now On Air』を引っ提げてのライブである以上、当然になされるものであった。しかし、私はそのことを予見しそびれた、それどころか、その言明がどれほどの困難を伴うものであることかについて、恐ろしく無自覚なまま、愛知県芸術劇場大ホールの 2 階席を訪れていた。
──私は、声。
伊藤美来さんは、声。
その事実にほとんど打ちひしがれてすらいた私の目の前に、しかし、確かな存在として、立ち現れたのです。
私たちが今、夢見るべき未来が。伊藤美来さんが。
『Now On Air』、それに続く楽曲歌唱、伊藤美来さん自身の言葉で語られる MC 。そのステージは、素晴らしいものでした。
「from now on」というツアータイトル、それに込めた「今ここから」という思い。
誰もが、それぞれの形や大きさで夢を持ち、夢を追う、その足取りを後押ししたいという思い。
そうした思いに形を纏わせていくパフォーマンス。言葉と歌声は確かな存在として、私の前に、確かに在りました。
背景の大型ディスプレイに加えてステージ演出を担う、二枚の可動式ディスプレイ──人ひとりがすっぽりと後ろへ隠れられるくらいのサイズであるそのディスプレイは、すだれのように発光体が隙間を持って並んでいるのでしょうか、人が後ろに立つとシルエットのようにその人の姿が朧に浮かぶのでした──その二枚の、等身大のディスプレイを「LEDさん」と呼んで、これからのツアー公演をともに歩んでいく仲間のように紹介する様子も、ただ微笑ましいばかりでなく、機材という他者を引き受け、自身のパフォーマンスの一部として身体化し、そして私たちの目に映る新しいもの(それはもはやただの機材ではないのです)として演じさせる、そうした表現者としての云々とかはとりあえずさておいてもうほんとひたすらに微笑ましくて可愛くてさあ。この先ちょっとくらいヤなことあっても「うるせえ俺は名古屋でみっくさんに応援してもらったんだぞ」で乗り切れるな、と。
危うく声優沼に沈むところでありました。
『点と線』(1) ─星を繋ぐ視座─
言葉が──声であることに自覚的な声で表される言葉が、不確かな夢を後押しする。そうした前半パートが瞬く間に終わり、再び、ショートムービーが始まりました。
芸術劇場大ホールのゆったりとした椅子に腰を降ろしながら、私は、というよりもあの場にいた私たちは、昂る気持ちの中に、厳かな気持ちをも抱き、共有していたのではないかと思います。
次の楽曲は『点と線』である。その確信ひとつでも、そのような気持ちの共有はなされたことと思います。
この度のライブに向けた「予習」の中で、私が『点と線』について抱いた印象を、ここに記しておくべきでしょう──星々の歌う、歌。それが、このライブを迎えるまでの、私の最終的な印象でありました。
もちろん、この楽曲は、そのような楽曲ではない。歌詞を読めば、またタイアップ先の物語を考慮に入れれば、この歌は人の歌う、歌である。星空の下にある人が、星空を見上げる人が歌う、歌である。そのことに、疑いを挟む余地はないのです。
それでも、繰り返し何度も『点と線』聞く中で、私は星々の歌う、歌として、この楽曲の印象を深めていきました。
それはおそらく、誤りを含まないことなのです。素晴らしい伴奏の中で、幽けきながら確かに響く、伊藤美来さんの、声。それが星々の歌う、歌として、私たちに印象づけられる。だからこそ、その歌詞の言葉が依って立つ視座──星を見上げ、星の海に恋焦がれる誰かの言葉、その言葉が紡がれる、まさにその視座に、私たちは立つことが出来るのです。
歌詞の言葉を紡ぎ出す誰かは、星空を見ている。
その歌を聴く私たちは、その歌という星空の下にある。
かような境地こそが「厳か」と呼ばれるべきなのであります。
ですから、次の楽曲が疑いなく『点と線』であるという確信ひとつで、私たちは厳かな気持ちの共有を果たすことができたのです。
そして、それに加えて、歌唱の前にショートムービーが差し挟まれる──繰り返しますが、この演出は大成功だったのです──その映像が伝えるメッセージは、私たちに、真に厳かであるものが何であるかを教えてくれました。
映像は、先のパートのものを踏まえ、声を主題として始まりました。
声が、形をなす。
その声が語る、夢や、未来も、人それぞれの形をもつ。
けれども。
──それは、点、かも知れない。
形も大きさも持たない、点。私たちの存在や、夢や、未来が、そのような点であること。むしろ私たちは、そのような実感の只中で生きてあるように思えます。
しかし。いや、だからこそ。
──つなぐ。
点と点とを、つなぐ。点であるからこそ、つなぐことができる。つなぐ線にも、なることができる。
星空の中に私たちは繋がりを見ます──いや、白状してしまいますと、私は星を読むという技能を全く欠いているのでありますが、それでも、例えばオリオンならば、はっきりと繋がったものとして見ることができるのです。
それと同時に私は、浅薄な知識ではありますが、それでも、あの夜空の星々の、どれもひとつひとつが、私たちの頂く太陽よりもはるかに眩く巨大なものであることを知っているのです。
地上から星空を「眺める」私たち。その目に映る星々は、形も大きさも持たない点である──だからこそ余計に、その輝きの違いだけが際立って見えてしまうものです。しかし、私たちは、それゆえに星々に、各々の占める座を与え、それぞれの繋がりを見ることができ ──「現実」にはひとつの星座を形作る星々は何光年と離れて互いに関わりを持たない──そうした「現実」を優越した視座に、私たちは既にして立っているということではありませんか。何となれば私たちは「目を凝らす」ことで、ひとつひとつの恒星の物性的な観察をも為しうる視座にあるのですから。
星々を「眺める」視座。それはまさに世界への没入です。無限の星宙へと私が没入する、その時、星々も私自身も、形も大きさも持たない点になる。自他の区別、主客の区別はそこにはない。無限への没入、それは究極的に他者を引き受けることであります。
星に「目を凝らす」視座。それは星を対象化する視座であり、自他の区別、主客の区別の発生、つまりは無限からの分離であります。私たちは分離としてこの視座にある。ひとたびは我がものとした星宙を──あるいは星宙が私を我がものとしたのと全く区別はつきませんが──他なるものとして手放す。
言葉を声として発するように。
だからこそ、私たちは、つなぐことが出来る。
真に厳かであるもの、それが天上の世界でないことは、もはや明白であります。この地上の世界。しかも、追憶の過去へと消え去ったユートピアではない、今、ここにある、まさにこの世界。
歌詞の言葉を紡ぎ出す、私にとっての他者、すなわち「あなた」が歌を歌ってくれる、この世界。それこそが真に厳かなものであるのです。
この世界に、どうか「あなた」が歌ってくれて在りますように。
私たちが星にかける、たったひとつの願いは、たがうことなく叶えられました。
『点と線』(2) ─星を纏う─
ステージに立つ、伊藤美来さん。
その背後の大スクリーンは、つながりゆく星々を映し出していました。
そして、その前方にも。
二枚の「LED さん」が、伊藤美来さんの前に置かれ、つながりゆく星々を映し出していました。
星宙が私たちの前に現れた。
その星宙が、『点と線』を歌う。
もちろん、歌っているのは声優・伊藤美来です。
しかし、伊藤美来さんは声優なのです。声であること。他者の言葉を引き受け、自らのものとして、そして他者のものとして声を発すること。
圧倒的な「眺め」の中、私たちは星々の歌う、歌に、没入した。
それと同時に、私たちは「目を凝らす」ことも行なっていました当たり前だろみっくさん可愛すぎるんだから。
そうして目を凝らす先──二枚の「LED さん」の隙間から、そして「LED さん」の構造上、その画面にも、シルエットのように映し出されて見える、伊藤美来さんの姿。
それはさながら、自らが演じる星々を、衣装のように身に纏う姿でした。
2024 年 6 月 23 日の日曜日、名古屋の愛知県芸術劇場大ホールにおいて、伊藤美来さんは、声であり、星であった。
その事実を証言するために、私は本稿をしたためたのであります。
結語に代えて:ライブフィナーレの演出
その後のセットリスト、すなわちライブの後半パートは、声であり星である伊藤美来さんが、次第に等身大に近づいてくるような構成でありました。
点のような星々のひとつひとつにも、各々の思いと生き様があることを叫び、叩きつけるような、激情の歌。それを経て、気軽に、それなりに、もっと簡単に日々を生きることが生きていることだと歌う歌。
超越的な魅力から、人間大の魅力へ。
星宙から、私たちの目の前へ。
伊藤美来さんって、空から地上へ降りてきたお星さまだったんですね。なっとく。
ライブの最後には、このライブの最後にふさわしい、二つの重要な演出がありました。
第一に。私は声。その言明が意味するところは、言葉と声の本来的な他者性である、と、しても、です。やはり、私たちは聞きたくないですか。伊藤美来さんの、伊藤美来さん自身の、声を。
その願いもまた、叶えられたのです。
そして、もうひとつ。他者の言葉を自らのものとして引き受け──いや、私たちはまず、その時点でつまずきを重ねることが多くありませんか。言葉を我がものとすることにも、言葉を他として手放すことにも、私たちはあまりに多く、失敗を重ねるものではないでしょうか。
ライブの最後を飾る、クレジットムービー。その冒頭で、伊藤美来さんが再びマイクの前に立ち、台本[ホン]を読む……
──セリフを間違えてしまいました(笑
あああああああ!!!! みっくさんかわいいいいいいいいいい!!!
Appendix: ミリP(「アイドルマスター ミリオンライブ!」ファン)として、オススメしたい楽曲など。
さて。危うく声優沼に落ちるところだった訳ですが、私はあくまでもミリPでありますから、最後に、みっくみんの皆さまに「アイドルマスター ミリオンライブ!」の世界を紹介させていただきたいと思います。
まずは何よりも、伊藤美来さんが演じておられる「七尾百合子」について。
七尾百合子は読書好きのアイドルです。ただし「図書室の暴走特急」という二つ名で呼ばれるところから推察できるとおり、そのイメージはいわゆる文学少女のそれとは大きく異なっています。
本当はゲーム「アイドルマスター ミリオンライブ!シアターデイズ」をダウンロードしてプレイしていただきたいところなのですが、いかんせん、52 人のアイドルたちがそれぞれの個性を発揮する大ボリュームのゲームでありますから、特定のキャラクターを目当てに始めるのは少々、ハードルが高いかもしれません(ゲームシステムとしてはリズムゲームですので、始めること自体のハードルはかなり低いのですが)。
七尾百合子を知っていただくためには、昨年放映されたアニメ「アイドルマスター ミリオンライブ!」(通称、ミリアニ)の第 3 話を見ていただくのが一番良いと思われます。
「from now on」のステージは、星宙でありました。私たちは客席から、星宙を眺め、その星に目を凝らした。では、そのステージから客席はどのように見えていたのだろう。ミリアニ第 3 話は百合子回であるとともに、その疑問にも一つの答えを提供してくれるものであると思われます。
それでは、オススメの楽曲紹介に移ります。まずはやはり、七尾百合子のソロ曲から。
現状、ユニット曲のソロ歌唱版を除けば、七尾百合子のソロ曲は 4 曲あります。その中でも特にオススメしたいのは『空想文学少女』です。
本稿をここまで読んでくださった奇特な(失礼)方々には、この歌の歌詞構成は、ドンピシャにブッ刺さること、お約束いたします。どうか、「空想文学少女 歌詞 考察」と検索する前に、歌詞を表示しながら繰り返し、聴いていただきたいと思います。
他 3 つのソロ曲、いずれも魅力的な楽曲揃いです。
爽やかなメロディーに乗るポジティブな歌詞が心地よい鑑賞体験をもたらしてくれる、『透明なプロローグ』。
「図書室の暴走特急」の面目躍如とも言える、誰も見たことのない物語の世界が生き生きと広がる、『地球儀にない国』。
プロデューサーに向かってなんだそのかわいさは、『恋のWA・WO・N』。
他、七尾百合子の参加するユニット曲についても、各種サブスクサービスで検索していただければ、おおよそ全て試聴することが出来ます。
最後に、七尾百合子の歌唱曲ではないのですが、私と同じように「from now on」での『点と線』がブッ刺さった方へオススメしたい一曲、それが、初期の楽曲ながらも名曲としての定評を持つ『瞳の中のシリウス』です。
星々を見上げる歌でありながら、星々自らの歌う歌であるかのような印象をもたらす、美しい楽曲。歌詞の世界観や曲調は『点と線』と大きく異なりますが、その感動の性質には、重なり合うところが大であると思われます。
長々と書き綴ってきた本稿も、これにて終わりとさせていただきたいと思います。読んでくださったあなたと、ライブ会場でお会いできることがあれば幸いです──そうですね、どちらのライブであったとしても。
ご高覧、誠にありがとうございました。
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