ミリアニ第3幕鑑賞の記録: 「Rat a Tat!!!」の、そして如月千早の物語としてのアニメ『アイドルマスター ミリオンライブ!』
結論
私は、私でしかない。
私は、可能性でしかない。
その事実が絶望なのではなく希望であること。
もうひとつ。
如月千早の存在が、呪いではないということ。
夜、如月千早について
夜。ベッドの上、布団の中で、如月千早について考える。
そうしない夜は、ほとんどない。
しばしば考えることは、彼女のもとに送られてくるであろうファンレターについてだ。
── どうすれば千早さんのように歌が上手くなりますか。
── 私もたくさん練習すれば千早さんのように歌えますか。
── 私も千早さんのようになりたいです。
もしも千早が返事を書くならば。今の彼女ならば、その言葉の意図するところに合わせて語るべきことを選び取ることができるだろう。
効果的なトレーニング方法を求めているならば、自分の日々の実践を伝えることだろう。
夢への足取りに不安を覚え、後押しを求めているならば、歩み続けることの大切さを言葉にのせて、その背中を優しく押すだろう。
ただ憧れの表明であるならば、面映い気持ちとともに礼を述べるだろう。
そうした言葉を書き綴るとき、千早の胸にはひとつの思いが常に、去来するのではないだろうか。
「私のようには、なってほしくない」
そのことを率直に書き綴ることもあるだろう。
「私のようになる必要はありません」
「あなたは、あなただけのあなたらしさを、大切にして」
「大丈夫。あなただけが奏でられる音、世界に一つだけの音が、きっと見つかるから」
そうした空想をたくましゅうして、やがて眠りに落ちる時、私は愕然とする。
私自身が、如月千早のようであろうとしていることに気づいて。
ホテルの3人、海辺の千早
── ボクたちだって、褒められれば嬉しいし、上手くいかなければ悔しいよ。
「私も千早さんみたいに歌えたら」
千早は、嬉しそうな顔をしてはいなかった。
第3幕鑑賞の概略と、第10話の静香
私は第 3 幕の初鑑賞を豊洲で迎えた。
9 月 29 日。仕事終わりに夜行バスで東京へ向かい、翌朝、新宿から秋葉原へ、atre 外観の写真をカメラに納め、そして豊洲へ向かい、風景の写真を何枚か撮った後、第 1 幕および第 2 幕の応援上映へ参加し、続けて第 3 幕を鑑賞した。
その後、もう一度、第 3 幕を鑑賞した。
間の食事はうどんにしようかと思ったが、コラボアクスタが紬しか残っていなかったこと、そしてかなりの空腹を覚えていたことから、唐揚げ定食にした。
美味しかった。
あ、ミリアニから入ってくださった新規さん。
白石紬の中の人がですね、唐揚げ好きで有名なんです。
あと、ゲームの方だと静香は割と重度な、うどん狂いキャラでして、はい。
二回の鑑賞は、当然に、いずれも通常上映である。
第 3 幕を通常上映で見るというのは一種の拷問である。
バンナムフェス 2nd 現地を堪能した諸姉諸兄であれば、声出し禁止のあのライブにおける AS パートの、非人道的なセトリに想いを馳せたのではなかろうか。
私の第 3 幕鑑賞はどうであったか。ライブパートはもちろん、拷問であった。
それとは別に。第 10 話で苦悩の淵に沈んでいく静香を見る時にも、これは拷問であると感じた。
いや、今にして思えば、応援上映でなくてよかったのだろう。
私が通常上映を二回、続けて鑑賞したのは、声に出せない声を、あの場で精一杯に出し切って、応援上映でも叫ぶことのできない声を、枯らせておくためにしたのかも知れない。
「私も、千早さんのように歌えれば」
だめだ、静香。
やめろ。
頼む、やめてくれ。
千早も俺も、そんなことを望んじゃいない。
静香のお父さんだって。
静香、きっとお前自身だって。
如月千早になろうとしちゃだめだ。
頼む、静香。
俺の大好きな千早を。
呪いにしないでくれ。
誰か、止めてくれ。
静香を、千早を。
頼む、誰か。
この物語を、止めてくれ。
如月千早が如月千早であろうとすること
細氷と Just be myself!! はともに千早の到達点と言われていた。
Coming Smile と君に映るポートレイトがリリースされた今でも、前掲の 2 曲が対比的に特別な位置にあることは変わらないであろう。
そして、この 2 曲を、二つの最高峰をつなぐ、いわば尾根線として、Snow White がある。
そう書いてしまうと、 Snow White はただの経路に過ぎない、そんな評価を私が与えているように思われてしまうだろうか。
間違いではない。
Snow White は、細氷と JBM!! をつなぐ、道だ。
この 2 曲をつなぐ道が、往還可能であるそのような道が、ありうるばかりか現にあるという事実に、私は畏敬の念を覚える。
雪の降る道。
雪の積もる道。
雪は、確かな足跡を残してくれる。
それと同時に、その足跡を消し去っていく。
如月千早の歩む道を表すのに、これほど相応しいモチーフがあるだろうか。
自分を否定するかのように、歌へ没頭する。
そのことでのみ、自分を肯定できる。
そんな自分を否定しながら、可能性を広げていく、そうした自分を肯定する。
如月千早が、如月千早であろうとすること。
細氷
JBM
ともに、それはかくも鮮烈な輝きだ。
誰もが、如月千早になりたいと、思わせるほどに。
静香から、翼へ
千早の過去は千早だけのもの。
千早の痛みは千早だけのもの。
それはもちろん、そのとおりである。
千早の痛みに寄り添うことでしか、かろうじて生きることのできない私にとって、千早の過去や痛みを過分に普遍化して語ることは、あまり、好ましいことではない。
それでも。如月千早という存在を特徴づける、否定と肯定の複雑な織り成し。それは人間の存在一般に通底するものであること、それ自体はやはり、否定し難い事実である。
そしてここには、二重の矛盾がある。
成長とは、今の状態の否定を必然にともなう。
人は成長していくべきものだ──そうとするならば、否定を伴って初めて、その存在が肯定されることになる。
第一の矛盾は、否定=肯定が成り立つということだ。
ただし、それは成長を伴って在る、全ての生命に共通する矛盾でしかない。
人間存在には、第二の矛盾がある。
人間は、今ある自己を肯定しなければならない存在である。
それは、自己肯定の喪失が究極には自死へつながるという、パーソナルな話でもある。
一方で、昨日の自己の否定によって今の自己があるとしても、その互いに異なる(かのように見える)自己同士が(事実として)同一のものである、という擬制なくしては、契約や責任によって成る社会規範が成り立たなくなる、というソーシャルな話でもある。
このように、第二の矛盾は、より深刻である。
それは、人間存在においては「否定=肯定であり、かつ、肯定≠否定であらねばならない」という矛盾である。
この矛盾に正面から立ち向かったのがミリアニにおける伊吹翼だった。
自己からも、他者からも、惜しみない肯定を受け取り続けていた彼女。
── このままじゃ、負けちゃうかもね。
その言葉を受け止めて、「美希ちゃん」への憧れを捨て去ることも、彼女にはできたはずなのだ。
理想に反して泥臭い努力をする星井美希の姿を目の当たりにしていたのだから、なおのことだ。
にも関わらず、翼は、美希から与えられた否定を、その言葉通りよりもはるかに重く、我が物とした。
何故か。何故、それが可能であったのか。
「美希ちゃん」への憧れがそれだけ強かった、というだけではないはずだ。
第2幕において既に、否定に立ち向かう最上静香の姿を、翼は目の当たりにしていた。
その驚きを、桜守歌織に自分の言葉で伝えていた、表現していた。
否定を通じてこそ、自分を肯定する。その必要を、伊吹翼はすでにして、開花を待つ萌芽としてではあるが、確かに持っていたのだ。
だが、その萌芽を花開かせるだけでは、不足であった。
「本気って、なに〜?」
くっそ可愛いなこいつ。私がそんな感想をもって見ていたあの瞬間に、翼はもう一つの矛盾とも立ち向かい始めた。
今の自分は、「可能性でしかない」。
本当にキラキラ輝く自分は、まだ、この先にある。
でも。それでも。
── まだまだ、だね。
そんな評価しかもらえない、今の自分であっても。
チーム 8th は、柿落とし公演でのデビューである。
徳川まつりや松田亜利沙は、きっと、ソロ曲をそれ以前に披露していたのだろう。
翼は、違う。
だから、作劇上、あの、私たちがよく知るコールが、描写されることはなかった。
もしかすると、私たちに act-3 へ向けて与えられた、大きな宿題なのかもしれない。そうではないかもしれないが。そうであったらいいなと、素直に思う。
飛躍する、その可能性こそが。
── ツバサ!
「私!」
頼むぜ、JUNGOさん。
※追記:ありがとう、JUNGOさん。本当に、ありがとう。
如月千早が呪いであり得たこと
少し回り道をしてしまった。
改めて確認しておこう。
自分を否定することでしか自分を肯定できなかった、過去の千早。
そんな自分をも肯定し(しかもそれは自分には歌しかないと自分を限っていたことの否定という手段でもっての肯定である)、可能性としての自分を否定に陥ることなく肯定する、如月千早という存在。
彼女の過去の出来事を知らずとも、その自己の存在をここにあるものとして示し続ける、如月千早の輝きは、誰にも鮮烈に伝わるはずだ。
(実際のところ、アニメ作中の最上静香が千早の過去を全く知らないという仮定の方が、考え難い。アニマスと異なる時間線とはいえ、ほぼ、同じような出来事があったという前提のもとで、ミリアニは作られているようである。だとすれば、渋澤記者による悪意に満ちた記事、吉澤記者による回復の記事もまた、ミリアニの過去に似たような形で出版されていたと考えるべきだろう。直接か間接かは別にして、如月千早への憧れを抱く静香が、それらに全く触れていなかったとは、やはり、考え難いのである。)
その輝きは、如月千早だけのものであるとしても、人間存在の矛盾と呼応する。
否定と肯定の矛盾に苛むものにこそ、その輝きは、自己を見る目を灼くものと成ることだろう。
「私も、千早さんみたいだったら」
如月千早が如月千早であることの輝きは、限りない自己否定の呪いとなりうる。
「私だけが、届かない」
春日未来が原因ではないこと
ひとつ、単純な事実を指摘しておく。
第 10 話での静香の苦悩の根底にあるものは、如月千早が如月千早であることの輝きが、呪いとして作用していたことである ── そうだとすれば、その呪いはすでに、第 9 話の時点で、静香の心に澱のように潜んでいたことが、明らかとなっている。
夜の海辺で、千早に漏らした言葉。
千早が受け止め切ることの出来なかった、言葉。
未来ちゃはむしろグッジョブだった。
春日未来が言葉にせずとも、如月千早とのレッスンの中で、静香は、千早になることで父親の意を意のままにしようとする、他者を自己に同化する(しかもそれを手段として別の他者をも自己に同化しようとする)という究極的な「自分のことしか考えていない」状態に、意識しないままに、陥っていたであろう。
荒療治ではあったが、未来の言葉で意識化されることで、静香は自分が向き合うべきものと向き合うことに、たどり着くことができたのだ。
如月千早の物語
「私も千早さんみたいに歌えたら」
自分の放つ輝きの強さ、その強さが自己を見る目を妬く呪いとなりうること、そのことに思い至らない千早は、静香の言葉を、受け止めきれない。
ただ、不思議そうな表情で、静香を見るだけだった。
それよりも。
言葉よりも。
如月千早は、自分が見出したものを、信じることを選んだ。
「最上さんはもう、持っていると思う」
アイドルとして、大切なこと。
人に、人の生きることのあり方を、示し続けること。
降りしきる雪の中を歩くように。
足跡も轍もない道。自分の残す足跡もまた、いつかは消えていくとしても。
心に灯る明かり、ただひとつを導きとして。
優に歌った、歌。
父に歌った、歌。
如月千早が、如月千早であること。
それと照応する、
最上静香が、最上静香であること。
第3幕鑑賞の概略への付記と、物語の終わり
2 回の第 3 幕鑑賞を終えたときには、もう、予定していた東京観光を行う時間の余裕もなく、ほぼ真っ直ぐに新宿バスタへ向かい、地元へ戻る夜行バスに乗り込んだ。
翌朝、地元への帰還。10月1日である。旅の疲れを自宅で癒しつつ、本稿を書き始めた私は、途中、居ても立ってもいられぬ思いで、地元劇場(と言っても自動車道利用で片道1時間以上かかるのだが)でのレイトショーに赴いた。
翌日も、仕事が早めに終わったので、同じく車を走らせてレイトショーで鑑賞した。脱稿時点で、私は 4 回、第 3 幕を鑑賞したことになる。
この 4 回目の鑑賞で、私はようやく、ミリアニ第 3 幕をミリオンライブの物語として観ることができた。具体的には、オレンジノキオクを聞きながら喜びの涙を流す未来と共に、私も、喜びの涙を流すことが、初めて出来た。
居ても立ってもいられぬ思いに駆られた、3 回目の鑑賞。
物語の行く末をしっかりと胸に刻んだ私にとって、ライブパート以外の部分は、もう、拷問ではなくなっていた。
それでも。応援上映の始まる前に、声に出せない声で、届けなければならない言葉があった。
「背中、押してくれるかな」
自分の弱さとも向き合えるようになった、最上静香。その覚醒は必然である。
翼を広げる。羽根が舞い散る。
その光景を見遣る千早に、私は語りかける。
千早。よかったな。本当に、よかったな。
こうして、私が第 3 幕鑑賞を通して見届けた、如月千早の物語は、ひとまずの終わりを迎えることができた。
5 回目の鑑賞は、再び豊洲で、舞台挨拶ライブビューイング(11 : 30 ~ の回)の席を確保してある。待望の応援上映鑑賞が、6回目となるのか、それとも舞台挨拶 2 回目も鑑賞したのちの 7 回目となるのかは、まだ未確定である。いずれにしても、その場所は豊洲であろう。
如月千早の物語は胸に秘めて。ミリオンライブの物語を見るために。
いってきます。
※以下、追記(20231223)
このように書いたのだが。結局、私はアニメ『アイドルマスター ミリオンライブ!』を、如月千早の物語として観ることから、ついぞ、脱却しきれなかった。
それも当然と言えるかもしれない。私はもともと、千早担当であるというよりも、千早とともにシアターのアイドルたちを見守りたい、そのような立ち位置を求めながら、ミリオンライブというコンテンツに接しているのであるから。
今は、それでも良いのかなと、思い始めている。
ミリアニについて、私はまだまだ多くのことを語りたいと思っている──静香と翼について、本稿でかなりのことを書き尽くした感はあるが、しかし、本稿はあくまでもファーストインプレッションの記録として書いたものであり、いずれ、よりこなれた言葉に自分の思いを翻案していきたい。
そして、何よりも、春日未来について。最終話のテレビ放映を目前に控えたいま、なお、私はミリアニにおける未来の姿を言い表すのに十分と思えるだけの言葉を持てないでいる。ただ、朧げに構想は持つことが出来つつある。
「私は私でしかない」──その事実が絶望ではなく希望であることを示したのが静香であるならば。
私は「可能性でしかない」──それでもなお私がここに在りうることを示したのが翼であるならば。
春日未来は「Rat a Tat!!!」、すなわち、扉を叩くことそのものの困難とともに、常に、あったと、私は考えている。
扉を叩くという行為は、その向こうに誰かがいることを、常に期待しなければ成り立たない。
扉の向こうに誰かが「待つ」ことへの期待。
その誰かが応答することを「待つ」という行為。
待つこと、待ち切るということ。
私たちには畢竟、待つことしかできないのだという事実。
おそらく春日未来は、その事実との結節をもつ存在である。
ならば、如月千早の物語としての見方を良しとする私は、今一度、向き合わなければならない──アニマス20話と。閉ざされた扉の向こう側に「如月千早」が今なお在ることを信じぬき、その応答を(「約束」を交わすために自らの足で再び歩き出すことを)待ち切った、天海春香。その想いと、私は向き合わなければならないであろう。
今の私には、それだけの余力がない。まとまった論考をいずれ、したためることができるものか、とりあえずは細切れに、少しずつ、言葉にしていく作業が必要であると感じている。
最後に、あらためて。最上静香と、彼女を担当する、あるいは彼女と関わりを持つ、すべてのPへ。如月千早とともにこの物語を見つめようとしている私から、限りない感謝の念を捧げたい。
如月千早へ憧れを抱く人が、いずれ千早と並び立ち、きっちいつか越えていく人が、あなたであって、本当に良かった。
ありがとう。