帰ってきたカウボーイ達と「宮崎駿」展にみる日本のアニメに流れた時間
アカデミー映画ミュージアム Academy Museum of Motion Pictures に行く機会があった。こけら落としとも言える「宮崎駿(Hayao Miyazaki)」展を観るためである。このミュージアム自体は出来たばかりで、企画展以外を観る時間がなかったものの、映画の歴史を紐解くような興味深いテーマで、各階の展示が構成されている(らしい)のでまた機会を見つけて訪問したいと思う。
このミュージアムは、LACMA(ラクマ)の相性で既に長年親しまれている Los Angeles County Museum of Art (ロスアンゼルス郡アート・ミュージアム)の敷地の一角に新設されている。スタジオ・ジブリや日本のアニメーションに特別知識のない来場者でも楽しめるように配慮されている。
「宮崎駿」展に関して言えば、映画の重要なシーンを短く切り取ったクリップをプロジェクションにより上映しつつ、彼の作品を通じて共通に語られるテーマ(例えば「大気や海の汚染といった公害についての懸念」)をわかりやすく来場者に見せる工夫がされていた。またトトロに代表される宮崎作品における重要なモチーフである「神秘の森」を光ファイバーで表現したオブジェクトや、(これまた宮崎作品の主人公達がよくやる)寝っ転がると青空を雲が動いていくのが見える丘をモチーフにつくられた仕掛けを来場者が楽しんでいるのを見て、ファミリー層やグループのアニメ・ファン達から好感を得ているのが理解できた。
その一方で、色鉛筆や水彩画で描かれているストーリーボード(進行を説明するための絵コンテ)やイメージボード(世界観を表す一枚絵)が豊富に展示され、制作過程に興味のあるファンの期待にも十分応えられると思う。ジブリのアニメーターが実際に使っていたという机も展示されていたが、広い展示場の中でその机は随分小さく感じられた。ただの机一つだけとは言え、日米の制作現場の違いがそこに現れているようにも思われた。
さて、ネットフリックスが日本のアニメータを支援するというニュースを先日聞いたばかり。ここ数年だけを見ると、日本のアニメーションに最も投資している企業の一つがネットフリックスであるのが現実かもしれない。
ちょうど「宮崎駿」展を訪問したのと時期を同じくして、ネットフリックス(以下ネトフリ)版の「カウボーイ・ビバップ」が公開された。「宮崎駿」展の同日に視聴を開始することが出来たのは、もちろん偶然だが同じアニメでも「ジブリ」と「ビバップ」は何から何まで対極にあるように思う。
各エピソードでジャズに代表されるレトロな雰囲気の音楽が流れ、「ルパン3世」的な大人も楽しめるキャラクター設定。シリーズ全話を通じても「まだ語られていない何かがあるに違いない」と思わせるディープな世界観は、アニメ史に残るカルト的な作品と言っていいのではないのだろうか。
かつて原作のアニメ作品で音楽を担当していた管野よう子氏が率いるバンド「シートベルツ」の一夜限りのライブを観に行った自分としては、まさに20年来の時間があっという間に感じられる「事件」であった。
(以下、ネトフリ版「カウボーイ・ビバップ」のマイルドなネタバレを一部含むことをお断りしておきます。)
肝心のネトフリ版の出来だが、豊富なビジュアル・エフェクツを駆使して、オリジナルの雰囲気を極力再現しようとして努力の後がよく分かる。シナリオも、最初の数話こそオリジナルのエピソードを容易に思い出せる展開であったが、後の劇場映画「天国の扉(英題: Knockin' On Heaven's Door)」からと思われるストーリーが交錯し、アニメ未見の視聴者でも次の展開が楽しみになるように良く工夫されていた。
業界情報サイト Entertainment Weekly に製作者および俳優達のインタビューが掲載されていたので、ここで少し抜粋したいと思う。(翻訳の正確さについては以下のオリジナルサイトを参照してください。)
「原作アニメを、みんなのソウル(魂)に染み込ませるような作品にしたかったんです。」ネットフリックス版「現代版・宇宙叙事詩」とでも呼ぶべきライブ・アクション「カウボーイ・ビバップ」の撮影という、興味深いイベントをオーガナイズするショー・ランナーのアンドレ・ネメク(André Nemec)は言う。彼は撮影に参加するほぼ全員がソースとなるマテリアルを何度も味わったと信じているが「このショーの制作に参加する人全員-コスチュームから小道具から大道具から照明から会計に至るまで-に思い出してほしいのは『これこそまさに私達が作っているものなんだ』ということ。」
既に構築された「カウボーイ・ビバップ」の世界をあらたに作り上げるという使命は、ネメクのチームにとって作品の登場人物達を超えるものである。「すべてのセットやロケーションがまさに存在するものであるかのように、何十年もの間そこにあったかのように感じられるものにしました」と語るのは、プロダクション・デザイナーのゲイリー・マッケイである。彼は原作のシリーズのノスタルジアなバイブをインスピレーションとして、(主人公3人の司令塔である)ビバップの宇宙船 Junker や、スパイク(・スピーゲル)のメカジキのようなジェットは、アニメでも何年も使いこまれたような外観をしている。
ジョン・チョウは「カウボーイ・ビバップ」のレガシーを理解しつつ、ライブ・アクションのスパイクを演じる契約を結んだ。彼はハリウッドにおけるアニメを原作とした映画が、原作アニメの名声にそぐわないものだったことを知っている。(「甲殻機動隊(Ghost in the Shell)」, 「ドラゴン・ボール(Dragonball Evolution)」「マッハ・ゴー・ゴー・ゴー(Speed Racer)」と言った作品を見てほしい。)
「私達がどんなアプローチでこの作品に望むか、みんないろいろ推量してるみたいだけど。」彼は言う。「みんなが同意したのは『原作を尊重しつつオリジナルな部分をつくっていこう』ということだね。常にみんなで話し合うのは『これはカウボーイ・ビバップのスピリットの範疇なのかな?』ていうことが最も多いよ。」
チョウが力を入れていることの一つはキャラクターの肉体的な特徴で、それは「二次元のキャラクターを現実の世界に登場させる」ことに対する彼の不安によるものだ。「イラストで描かれた人物を直接に自分が翻訳しようとするのは非常に難しいよね。そうしてしまったら不正確なものになってしまう。」彼が指摘するのは、現実の「血の流れた肉体のあるキャラクター」に比べてアニメで描かれているキャラクターは、複雑な格闘の振り付けから単純な表情に至るまで「より詩的」であるということだ。「スパイク(・スピーゲル)の背景となるストーリーが説明されていくにつれて、それは暗い物語なんだけどそのことがよりリアルに感じられるようにフォーカスしたんだ」とチョウは言う。「このシーズンの冒険は、全員の過去と彼らの現在のモチベーションを理解することなんだ。」
「アニメのスピリットは、フェイ・バレンタインのコスチューム以上のものだね」とネメクは言う。「(コスチュームの下に)実際に存在しているかのような人間がいるってことなんだ。」(フェイ役の女優である)ダニエラ・ピネダはフェイのパーソナリティを「サバイバー」と表現する。フェイは20代前半のように見えるが、実際には見かけよりずっと年をとっている。スペースシャトルの事故によって十年以上極低温で冷凍されていたのである。「彼女には本当に共感するわ。解凍されてから自分が何者なのか、家族は誰なのか、あるいは誰に愛情を注がれてきたのかある時点で分からなくなったのだから。」とピネダは言う。「彼女がここまで来る間には本当に悲しい出来事がたくさんあったはず。それでも彼女は信じられないぐらい強くて自立した女性なの。彼女はとてもファニーだから、機会があれば出来る限りコメディ色が強まるように演技してきたわ。」(以上翻訳ここまで)
以下は私見であるが:
オリジナルではミステリアスな美女といった雰囲気のバウンティ・ハンター、フェイ・バレンタインにガール・フレンドが出来る場面には唸らされた。2021年のアメリカの人気ドラマでは「スーパー・ガール」や「バット・ウーマン」を引き合いに出すまでもなく、いわゆるLGBTのキャラクター達は当たり前になってきたと言える。この大人向けの実写版ビバップ(それなりに直接的で残酷と思われる暴力シーンも出てくる)に、フェイとガールフレンドのエピソードが挿入されるのは実にツボを得ている。その後のエピソードで彼女の母親が登場し彼女の過去が明かされるという展開にもごく自然に入ることが出来た。ここは製作者に拍手を送りたい。
今ネトフリでつくられたバージョンの「カウボーイ・ビバップ」を観ると、t当時の日本のアニメーションには(この作品が特別に実験的だったことは理解出来るにしても)極めて先鋭的なアイデアが込められていた。だからこそ、元々日本のアニメーションが放送されていたアジアは元より、アメリカやヨーロッパでも「アニメ・ブーム」は起きたし、日本のアニメやマンガの視聴者はこれからも増えていくだろう。(最近ネトフリで大ヒットとなった「イカゲーム」が日本のマンガにインスピレーションを受けていることも別に驚きではない。)
しかし一方でアメリカのドラマはキャラクターと物語の多様性(いわゆる「ダイバーシティ」)をこの20年あまりで獲得してきたが、果たして日本のアニメは20年でどう変わったのであろうか。30年以上にもおよび世界中の人たちに永く愛される映画をつくり続けていたジブリ作品を美術館で振り返った後に、日本以外の会社で作成された新しい「カウボーイ・ビバップ」を視聴したせいか、そんな疑問が湧いてくる。
ジブリ作品の根底にある自然や人間自身に対する人間の愛情は、いつまでも変わらなかったし、それこそが愛された理由である。一方で日本のアニメーション作品自体が海外市場を開拓したことで(単に「海外市場に発見された」だけかもしれないが)20年前に比べて変化してきた部分はあるのだろうか。そもそも日本のアニメ作品を観る機会が国際映画祭やネトフリに限定された自分には手がかりが多くはない。しかしライブ・アクションの「カウボーイ・ビバップ」のあまりの出来の良さに、異なる市場をターゲットとしているとは言え、産業として大きな差がついてしまった現実を見せられた気がした。これは20年という時間の流れを考えれば必然だったのかもしれないが、取り戻せない何か(あるいはあり得たかもしれない別の時間の流れ)を感じるのは自分だけだろうか。
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