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人間界への旅の始まり

3輪の赤いハイビスカスの咲いている寺院の一室、まだ早朝の爽やかな空気が涼しげに残る時間に、虚空という者が産まれた。胎内から窺い知っていた外の世界に行くのは恐ろしかったが、是と云うシグナルを受け取ったから仕方がなかったのである。外での初めての記憶は、自らの産声でも産湯でも乳の香りでもなく、甲高い沢山の音と声、ジョリっとした初めての感触、それは心地い良いとは言ず、控えめな表現でも不愉快極まりない感覚であった。まだ目も見えない虚空に触れる無遠慮な世界が始まってしまったのである。虚空は静かな場所へ行きたくてしかたなかったが一人で動く事も出来ず、只々受け入れるほか選択肢がなかった。匍匐の頃の記憶は明瞭ではないが、初めての伝い歩きは、ツルっとした木のような感触の物をしっかりと掴んだ事を記憶している。周りの者共がはしゃぐ声が無ければ虚空はよりその感覚を楽しんだに違いない。口内の感覚の記憶はそれらよりもっと新しく、舌を窄め喉を奥の奥までをも使いゴクリゴクリと動かし吸い付く乳頭が生温かったのは覚えているのだが、味は全く覚えていない。この感覚記憶が新しいのは、乳母がいた事により乳離れが遅かったせいでもあるかもしれない。
虚空の世界の周りは常に混沌としていた。寺院を庫裡で挟んだ隣接地には保育園もあり、とにかく人の出入りが多く、血縁者、乳母、来客者、誰もが虚空を構いたがる事に辟易し、まだ言葉を上手く話せなかったせいもあり常に困惑し、混濁に包まれていた。しかし、朝の湿った空気に響く寺院の早鐘のリズム、夕暮れを知らせる大鐘の遠くまで、そして体の芯まで響き渡る音は、虚空の全てが満たされ、静まるるような時間を味わっていたようだ。その鐘を撞いていたのは恭順と云う僧侶であり、その後虚空が成育していく為には不可欠な存在であったと認識している。恭順は笑い声を立てることも無く、声を荒げる事もなく、その名前の示すよう、全てが存在し、全てを受け入れると云う事へ恭順していた。恭順は日本画を深く学ぶ為、恭順のまだ若いころには難関であった、ある日本画科で勉学していたのだが、結核を患い退学の後、療養し、僧侶になる決意をしたのだと伝え知ったような気がする。それはそれは美しい瞳を持ち、普段であれば他者と目を合わせる事が得意ではない虚空ですら、その瞳には深く魅了され、恭順が絵を描く際、じいっと側に座り、長く長く見つめていた。その姿、輝きは隠せるようなものでは無いのにも関わらず、恭順は只々そこに存在する事を傍受し、常にどのような者と接する際も控えめな態度は変わらなかった。幼少時の虚空の記憶の中で、唯一の美しい人であった。ある日あまりにも丁寧に綺麗に魚を食するもので、虚空は恭順へ尋ねたことがある。すると恭順は、魚の絵を描きました。絵を描く事で、どこにどの様に骨があるのか知り、より丁寧に魚の命を戴く事ができるようにしております。と、上手く言葉を話せない年頃の虚空へそのように説明をしたのである。他者は不思議な生き物であった。特に大人共の理不尽さには我慢がならなかったが、恭順と共有した時間は、虚空が虚空らしく存在する事を妨げる事はなく、それはそれは丁寧な言葉で伝えてくれ、その美しくしずやかな瞳で寄り添いの眼差しを注ぎ続けていた為に、人間として存在している事に加え、自由と解放を経験できていたと自覚できている。

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