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自分の欠点は知るべきだけど、自分を変えなくていい

私はASDなので周りに合わせた言動が出来ない
周りに合わせた行動を必死に考え
試しにやってみて怒られたり恥かいたり
苦手な事を不安な気持ちで無理にやるのは嫌だ

でも、グレーゾーンや定型の人でも
自分は言いたくないのに雑談で悪口が始まる、とか
人前で話すのは嫌なのにスピーチをさせられる、とか
尊敬してない上司の武勇伝を聞く飲み会、とか
やりたくない事を胃を痛めてやる機会は多そうだ

本来の自分らしくない事をして
それが成長や協調性だと押し付けられて
自分を曲げていくのが大人だ、という価値観
まるで反発するのが子供だとねじ伏せる様な感じ
成人した我々は子供と評価されないために
グッと堪えて自分を変えようとする

その変化、必要なのかな?

■便利なイメージの良い単語「素直」

勤めていた会社で「素直さ」を求められた
自分の返答をして良いのだと、私は理解した
しかし、実際に求められていたのは
社長や上司の言葉に思考停止で従うこと
考えるべきは相手の期待を先読みし応える術
他人に「素直ないい人」と言われる様振る舞う
そういう「素直さ」だった

素直という言葉は自分に対して使う時と
他人に要求する時で意味合いが180度変わる
安易に使いたくない単語の一つだと学んだ
でも、

■現代は自分らしくある事を重要視し始めている

ドラマ「孤独のグルメ」が好きなんだけれど
類似作品が現在山ほどあるように思う
「ソロ活女子のススメ」も最近気に入っている
誰の価値観でもなく、自分の欲求に従い
自分のペースで思う存分好きな物事を堪能する
そういうドラマに需要がある証拠だ

昔は、恋愛とか友情とかチームとか
人と関わることによる「情」をきめ細やかに描く
そんなドラマが多かったような気がする
人情に温かさを感じるのは良いことだ
ドラマは時代を映しているから共感される
日常に少しの特異性や美しさを添えた物語だ
ひと昔前は情が大切な時代だったんだろうな

でも、それが続けば段々「配慮」は洗練され続け
要求は過剰になり重たいものになってくる
誰かのために生きすぎてしまっている人は
自分を抑え続けるのが習慣になってしまい
そこに本心では悲鳴を上げ続けて
他人にも同等のレベルでの気配りを要求し
言ってはいけない言葉で頭が溢れかえる

他人を見張るより
まず自分を癒した方がいい
だからこそ、
近年は自分に目を向けた作品が多いと思う
時代が変わっていくのは良いことだ

■じゃあ自分至上主義でいいのか?

というと、そうではないと思う
私のようなASDは変えられない特性があるし
曲げられない正義や苦手なことは
誰にだって少なからずあるけれど
「だから周囲が配慮しろ」「怒るな」は違う

「相手を変えるのは難しいけど
自分を変えるのは簡単」なんて言葉も
平成の頃にはよく見かけたように思う
どちらかが変わるの?
それ変じゃない?
0か100かの思考になってしまうとき
二つの傾向がある
・自己犠牲に走る
 犠牲になっている自分を誇張して見せつけ
 アナタのためにこうして頑張るよ、と
 無意識に相手の良心に訴えようとする
・自己中心に振り切る
 
理解を示さないお前は時代遅れ
 今は多様性の時代なのだから受け入れろ
 私が過ごしやすいように配慮しろと要求

これでは自分を破壊するか、悪役になるだけだ

■理解を得て、お互いにより良いやり方を相談する

「思いやり」という人の持つ美しい心が
いつしか「言わなくても察して当然」に変わり
言葉を交わして相談する行為がしにくくなった
ASDが急に目立つようになったのも
多くの人々が急激に進化したからだ

「ありがた迷惑」という言葉があるように
自分の良いが相手の良いでないことも普通にある
それを改めて理解し、
私たちは話し合っても良いのでは?と思う

出来ないこと、嫌なこと
シンプルに伝えてみたら良い
そして、「あなたはどうかな?」と
相手の素直な気持ちも聴いてみる
その上で、
「どうしたらお互いにとって良いかな?」
を忖度なしで考える
「私はこれが嫌です」って言われた相手は
「嫌でもやれよ」とか言いたくなるかもしれない
でも、
お互いが自分に素直になり話し合えば
互いに妥協して見つけたやり方でも
我慢し相手に不満や恐怖を感じて続く日々より
きっと少しは良くなる

そのためには
自分の欠点や嫌な事は知っておく必要がある
知っているからこそ伝えることが出来
理解を得た上で、相談することが出来るから

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