見出し画像

初めての海外旅行にひとりでインドに行った話 2/2 インドと腐れ縁を結ぶまでの6日間

|初めての海外旅行にインドを選び、一人で降り立った結果、案の定打ちのめされたけど、行って良かったよっていうよくある旅記録|

前編はこちらから

前回は「こんなに大変だったんだよ」と苦労自慢が目立ってしまった。

やはり、旅行記を誰かに読まれる形で書く以上、―それが国内であれ海外であれ― 読み手(私自身も含めて)のその土地への好奇心を刺激したいと思う。しかし、苦労自慢で読者の注目は引けても、そこへ万難を排して出かけようとする気力をいたずらに削いでしまったのだとしたら、それほど悲しいことはない。(むしろ外国での苦労を積極的に好み求めるタイプの方もいるだろうけど)

1日目はあんな形で散々だったが、それでも確信を持って「行って良かった」とこの旅を形容できる。
今回も恥を晒すことになるけれど、タージマハルやガンジス河にはそれらを吹き飛ばす魅力があった。インドならではの温かい出会いもあった。

私は少々傲慢ながら、誰かが旅に出かける負のリスクと好奇心を天秤にかけたとき、その好奇心の側の上皿で、私の文章がそっと重しになることをひそかに期待している。私も先人たちの記録から知らず知らずの内に影響を受けてきたように。

岡田悠さんの「旅を書くことは、次の誰かの旅につながる」は私の好きな言葉だ。

とはいえ、「インドよかったなあ」と思い出をしみじみ化できたのは旅を終えて、熱さが喉元を過ぎた後なのだけれど。


2日目


昨夜、宿で「地球の歩き方」を借りて、
①行先をタージマハルとガンジス河に
②ニューデリー駅近くの「外国人窓口」でそこへ向かう列車の切符を買うこと
を決めた。

さらに、仕事の休暇で旅行中のSさん(宿の共有スペースで出会った)と予定や希望が合う事が分かり、これから行動を共にすることになった。

お昼時、ニューデリー駅の近辺。「外国人窓口」がある建物は駅から少し離れたところに独立している。妙にがらんとしていて、そこはかとない緊張感をもたらす部屋の広さがある。勢いのあるインド英語に構えていたが、駅員さんは紳士的に時刻表と残席を説明してくれた。私の拙い英語にも表情を歪めず、チケットを購入した後、笑顔で見送ってくれた。

その後、適当にデリーでひとつ観光地へ行こうとしたけれど、どこも開催中のG20の影響で閉鎖されていた。行けないのだから仕方がないと思いながら、ほっとしている自分もいる。どこかに出かけて昨日みたいな面倒が起きないか不安だった。慣れないことに疲れて、タージマハルだけ見たらインドをもう出国したいとさえ思い始めていた。

それは半分冗談、半分本気で思っていたのだけど、宿でずっとごろごろしているのはあまりに旅情に欠けるので(それもまた旅)、宿の徒歩圏内をSさんと散歩した。チャイを飲んだり、住宅街を興味深く見て回ったり、近くの森を練り歩いてみる。こう文字にすると極めて平和的なんだけど、その、やっぱり、予想外が付き纏う土地(カオス)なので、野生の豚が闊歩していたり、犬に追いかけ回されたりするイベントには事欠かなかった。

放し飼いの説も浮上した

一人でも街を歩けるようになりたくて、夕食はSさんと別れて一人で店を探した。ローカル感のあるお店には衛生面の不安に打ち勝てず、結局「ツーリスト・レストラン」に落ち着いてしまった。

インドでは基本何を食べても美味しかった
しかし生野菜を食べる勇気はまだなかった

よく晴れていたので空を見上げていた。柔らかな光を放つ三日月が見えた。「この空と月だけは日本と同じだ、この空は日本に繋がっている」そんな当たり前のことを感傷的に思うのは、五感を酷使していて精神のキャパシティーが限界に近かったからかもしれない。出国までの日数を指折り数えてみる。

街の骨格を探る1日だった

3日目:タージマハル


大荷物はデリーに置いて、日帰りでタージマハルのある街アグラを目指した。

想像を上回る美しさに加え、遠近、方角を問わず、どこから見てもその存在感は圧倒的だ。ここで初めて「今、観光しているな」という感情を享受できた。これまではどちらかというと「生き凌いでいた」と言うべきだった。

門から出迎えられる感じがたまらなかった

その霊廟は解説文が書かれた看板やパンフレットなどはなく、ただそこに鎮座していた。観光客が思い思いに写真を撮っているだけだ。
何もなくとも、これだけの人を集める威厳こそがタージマハルの凄みと呼ぶべきものかもしれない。

写真を求められる同行者の皆さん

外国人だからという理由で写真を求められるのは「インドあるある」だと思うけど、私は誰にも求められなかった。なんで?

彼らは自分が外国人ともつるんでいるんだと自慢する為に写真を頼んでいるのではないか?と時々そんな考えが頭をよぎる。

背の高い白人系の女性には一番長い写真列ができていた。

こんなこともあった。
バラナシでインド人とタクシーを相乗りして仲良くなった。旅から日が経った後、結婚式に誘われた。流石に遠すぎて出席できなかったが、インドの結婚式はとにかく盛大なことで有名で、彼も挙式は2日間「だけ」と言っていた。

入場前に預けた荷物にチョークで番号が。
「これがグッチでも書かれるのかな」
同行者のYさんは言った。

これだけの世界的観光地を持ちながら、街の発展をあまり感じられない。色々と地域に還元されていない気がした。

アグラに見るべきものは少なく、カフェなどで時間を潰していたが、やることもなくなって、駅に戻ってきたのが16時。出発まであと2時間。
帰りの列車は1時間遅れで駅にやってきた。

外国人への好奇心から突然話しかけられたり、駅を走り回る猿を見て、「想像通りにインドっぽいなあ」とだけ考えて3時間が過ぎた。
列車は走りながらも遅れ続け、結局日を跨ぐ頃に予定の4時間遅れでデリーに到着した。

この日、esimをダウンロードして宿以外でもネットが使えるようになった。街中で情報が手に入らない恐怖から解放されただけでとんでもなく安堵する自分がいた。

自分は心のどれほどをインターネットに頼り切っていたのだろう。
ネットが使えないのなら分からないことを聞いて回ればよいだけの話だ。たとえインドでも。信頼に足る人物を見分け、聞きたいことを分かりやすく言葉にする。そしてあまり躊躇わないこと。そんなことを行き帰りの列車の中で考えていた。

たとえば、近くの店員さんに聞けば簡単に分かることをわざわざ携帯で調べて、決める。みたいなことって良くあるんだけど、できれば店員さんに自然とものを尋ねられる方が健康的ですよね。話すのが面倒とか、買わなきゃいけない空気になりそうとかもあるけれど、そりゃあ。

4日目


ちょうど同じタイミングでインドを回っている友人がいて、パハールガンジの一角で落ち合った。普段大学で会う人と外国で会うというのは不思議な感覚だったけれど、それだけでだいぶ気が楽になったことを覚えている。二人とも、日本語を話す同じ男に付きまとわれて土産屋へ連れ込まれそうだったことが判明した。

付属のケチャップがチリソースだったので、
未開封のものをお土産にした

深夜、再びニューデリー駅からガンジス河の流れるバラナシへ向かう夜行列車に乗った。

目線を感じる

5,6日目:私を包み込むガンジス河の光


列車がバラナシ駅に到着するのに合わせて、目を覚ました。私は普段から乗り物で寝れないタイプなのでぐっすり眠れたことと寝起きの良さに驚いた。列車の揺れはむしろ眠りを呼ぶようなごく小さなもので、快適という他なかった。

リキシャの客引きたち
私たちを取り合って喧嘩するのはやめて

こちらでもデリーと同じく日本人宿に泊まった。
ここでも大学のような雰囲気で初対面同士のぎこちなさが混じりながらも楽しく話して、街を探検する仲間を得た。

銭湯のように毎日入ってる人もいるみたいだ

河はすぐに現れた。騒がれているほど汚くないなというのが第一印象。今思い返せばロンドンのテムズ川の色と変わらない気もしてくる。匂いもなく、頭空っぽにすれば沐浴できそうな気もしてきたけど、さすがに自重して足だけにしておいた。(びびった)
潜るのは水が綺麗な上流のリシケシュを訪れたときにしておこう。

牛に道をふさがれている
もちろんアレもよく落ちていた

プジャと呼ばれる儀式も見ごたえがあった。観光客向けかと思ったら、ヒンドゥー教徒たちも熱心に眺めていた。外国人は少数派だった。バラナシはあくまで観光地というよりヒンドゥー教の聖地なのだと認識した。

翌朝、舟を浮かべて河沿いを巡るツアーに参加する。

朝日が出迎えてくれる

昨夜の熱気はどこへやら、朝焼けは川流れのように穏やかな光で街と私を包み込む。

大河にふさわしく波は穏やか
遠景になる河沿いが美しい

なんだかんだ言ってもただの汚い川かと思っていたら、とんでもなかった。

もし自分がインドに生まれていたら、この河を聖地とあがめ、どれだけ汚いと言われようと躊躇いなく沐浴しただろうと思う。そう思わせる力のある美しい朝だった。

ガンジス河でこの景色に出会ったことが、インドでの最大の収穫だった。


Sさんとはバラナシでお別れした。急に出会った足手まといな学生と4日間も一緒に楽しく旅してくれた。とても優しい人だった。ありがとうございました!

インドで出会った日本の人たちは、その年齢に関係なく私が失いたくないと思う種類の「若さ」を保っていた。それは若者らしく未知の場所を追い求める好奇心や気力、冒険心だろうか。それとも、物事に対してフラットな視座を保ち、偏りのない目で今を楽しむ人のことか。この人たちのように若い活力を保てる人になりたいと思った。 

7日日:脱出


デリーを離れて、ネパールに向かう飛行機に乗る。私の人生でこれほど「脱出」という言葉が似合う瞬間はなかった。(すみません)

結局デリーでは観光らしいことはほとんどしなかった。けれど、これからデリー、いやインドは私にとって腐れ縁のような国になるかもしれない、そんな直感がした。好きかは分からないが、少なくとももう一度は訪れなければならない気がする。

呼ばれている。

三島由紀夫に言わせれば、インドは「行くべき時期がある。行く時期はインドが決める」らしい。それが元で旅人は「インドに呼ばれた」と言う。

私にはこのタイミングが今だったのだろうか。初めての海外だぞ?ちょっと早くないか?と思いつつも、それはそれで適切な時期だった気もする。

インドは見所しかなかった。そのおもしろさの源泉の一つはカオスな雰囲気にある。けれど、おもしろいからそのままでいてくれなんて言うのは無茶な話だ。いずれ少しずつでも変わっていくし、今のような風景はなくなっていくだろう。ガンジス河もいつか透明になるかもしれない。それは不可逆的で不可避なものだ。だからこそこういう国はできるだけ若いうちの今行かなければならなかったのだと思う。

それと、北インドを少し見ただけで、とてもじゃないが、私にとってのインドをこれで終わらせてはいけないと思った。もっと多面性に満ち溢れた国のはずだ。14億人もいる巨大な国なのだから。コルカタやムンバイといった大都市からケララ州、タミル州の自然、インディアンヒマラヤ、レーの山岳地帯まで次の候補が尽きない。

ひとりで来たと書いたけれど、結局、多くの時間を現地で出会った旅の先輩方と過ごした。未熟者な私がここまで思い出に残る旅ができたのは間違いなくインドで出会った人々のおかげだ。

私はこの国へ再訪を誓いながらGooglemapを開き、お世話になったデリーの宿に「お気に入り」のピンを立てた。


最後までお読みいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?