呪術廻戦を体癖で見る Part1
経緯
体癖始めたての頃に「虎杖は五種」って主張を見て、最近それを思い出してほんまか?と思ったのがきっかけ。
ネタバレあり。(ネタバレなしで考察って逆にどうすりゃいいの)
登場人物の体癖(推測)
五条悟(前後五種)
かなりわかりやすい五種だね。合理的。
話し方も考え方もそうだし。弱音を吐かない(吐くメリットがないから)のも、それで微かな軋轢が生まれるのも。「勝つさ」で終わっちゃうのが五種。
あと宿儺と戦ってる時の張りつけたような笑顔がまさに五種の顔。あの赤ちゃんみたいな顔。
術式もねぇ~具現化だとか敵の干渉を防ぐ(保身)とかがかなり前後っぽい。
関係ない話すると”無下限は最強術式ですが六眼ないと使えませんよ”ってデザインがコピーガードとしてしっかりしてる。
ドーブルが無下限呪術をスケッチしても使えないってことだ。
虎杖悠仁(前後六種)
こいつね。"生まれつき体の強い六種"なの。変でしょ。
そんなのありえないから、体癖慣れてる人は「この前後的な価値観で体強いなら五種だろうな」って思う。
でもそれだと冒頭から見せる自己犠牲みたいなのはおかしい。五種はそういうの本当に下手。五種の合理的な価値観の根底には生存本能があるから。
あと五種って葛藤とかしない。
「俺は歯車だ」なんてのもわざわざ口に出さないし、「殺すって選択肢が俺の生活に入り込むと思うんだ」みたいな他人の心を打つ言葉もあんまり言えない。
不安はあっても迷いが無いから。
で、読み進めるとやっぱ六種だなぁと思う。
「別に俺が死ねば全部丸く収まるんスけどね」ってストーリーからして六種的だし、同中の女の子に対するエピソードとかまんま六。女たらし。
体の使い方のセンスも、五種とか七種的な筋肉によるパワーが~とか九種的な最小限の動きで~じゃなく”重心の動かし方”が上手いように見える。そういう動きが得意だから、六種は柔道とか上手い。
バチバチのネタバレになるけど、そもそも虎杖の生まれが自然じゃなく羂索が色々仕込んでたから生まれつき体が強いだけで。
別に本人の体質的には体が強くないはず。
伏黒恵(開閉九種)
顔つきも九だし、正しさとか結果とか関係なく自分の見たものを大事にしちゃうとことかまさしく。
姉と虎杖に対する偏愛みたいなのもそれっぽい。性根が頑固親父。
あと虎杖が真人と戦った後の顔見て「なんかあったろ」って聞くのもぽい勘が良い。
五条悟をあんま信用してないのも、九種から見た五種って信用できないわけね。感情とか思いやりを一切持たないサイコパスアド稼ぎ詐欺マシンに見える。
でも術式はこれ…九種ってこんな多機能なもん使えるのか?
そりゃ九種はセンス良くてなんでもできるけど。本人的にはもっと役割の絞れてハッキリした得物を好む傾向にあるのでは…
術式としては御三家のめっちゃ格調高いやつで応用も効くし最強格でも、九種ってそういうカタログスペック関係ないからなぁ。
「破壊された式神の遺した術式と力は他の式神に引き継がれます」だとか「影に色々収納できます」だとかやってること自体はめちゃくちゃヤバい。
ただそれが性分にあってるか?という話で。まぁ”式神を独力で調伏しないといけない”ってのは開閉っぽいか。
「式神使いなのに術者が動けるのも珍しい」ってのも九種ならではだね。元々体の動かし方が上手い。
母指球使ってしっかり動けるから咄嗟の瞬発力が高い。でもだからこそ、そもそも式神に頼る必要あるのかっつー…
領域展開が上手くいかないのも、九種の閉的意識だとだいぶ難儀する。
だから「自分の中から押し出すイメージ」「物質的な建造物を基準に閉じる明確なイメージ」の方がやりやすい。
曖昧に散漫に風呂敷拡げるのが苦手。
両面宿儺(開閉九種)
これも顔つきが典型的な九。リゼロのスバルみたいな顔つき。スバルも九。
虎杖から宿儺に意識が移るときに、泥棒猫みたいな雰囲気から野性的な狼みたいに変貌するのが上手く描き分けられてるなぁと感心する。
居るだけで周りが畏怖するような雰囲気とか、「俺は俺の身の丈で生きているに過ぎない」みたいな自閉傾向とかもそれっぽい。
虎杖に興味なくて伏黒に興味あるのとかも、九種って普通は六種のことあんま好きにならないから。自然。
術式はこれ…要は”料理”で、術式としての格自体は下も下よね。
とはいえ、伏黒のとこでも書いたけど九種はカタログスペックとか特に関係ない。
圧倒的なセンスで自分の中に落とし込んで使いこなすし、むしろ使い慣れてる変な道具に拘ることもしばしば。「えっ!?そんな精緻なイラストをパワポで描いてるの!?どうして!?」みたいな。
だから御廚子というコンセプトそっちのけで使いやすい”解”をメインに据えるのも性格に合ってる。シンプルな斬撃とか刺突は九種の一番好きな攻撃方法。
”捌”の自動で最適な斬撃って部分も九種的な勘の良さがそのまま表れてる感じ。
縛りに縛りを重ねて”竈”を使うのも、そもそも縛りってシステムが九種はめっちゃ得意。
閉じない領域ってのも一見「九種なのに閉じないの!?」って思うけど、”相手を閉じ込めない”ってのが徹底した個人主義なわけで。
むしろ完全に九種的なのよね。本質的には”開かない領域”の方が近い。つーか九種の周りは普段からそういうプレッシャーみたいなのある。
これが開閉十種だと「来るもの拒まず去る者追わず」みたいな顔してるのに死ぬほど拘束力が強い。
でも九種ってケヒャケヒャ笑うのか?それは九ってより六では…
九種だとどれだけ愉快でもクツクツと笑う。
女子供を食べるみたいな猟奇的な趣味は九種っぽいけど、そういうのやる時はもっと恍惚としながらやるしわざわざ他人に見せつけない。
ケヒャケヒャ笑って他人を振り回して遊ぶのは六種的に感じる。
宿儺と虎杖の魂がどうたらこうたらってことは二人とも6と9の複合なのか?
虎杖の身体能力が高いだけじゃなく体の使い方が上手いのもそのせい?伏黒が虎杖を気に入るのも半分9入ってるから?
そう考えると、宿儺の尊大な態度とか死に際のみっともない駆け引きとかも六種混じってるからなんだろうか。よくわからん。
【追記分】
伏黒の術式を9種じゃなくない?って言ってたけど、宿儺の使い方見るとやっぱ9っぽい術式なのかも。
「式神に戦いを全部任せるのが十種影法術の一般的な使い方」と思ってた。実際「式神使いがそんな体動かせるのは珍しい」的なセリフもまぁまぁ出てくるし。
でも呪霊操術みたいな規模ならともかく、2体までしか式神を出せないならやっぱ伏黒みたいに術者本人も同時に動く方が強い。
で、そう考えると”獣を駆って獲物を追い込み自分自身の動きを通す”ってやってることが猟師。九種の戦略だ。
魔虚羅に限らず十種影法術自体のコンセプトが一貫して「あらゆる状況への対処を術者一人(とその道具)で行う」なんだろうなと思う。「式神に戦わせる」「仲間と共に戦う」とかではなく。
影というモチーフも多分「物体の輪郭に応じて自身のシルエットを変化させるもの」の現れで、そう考えるとかなり九種っぽい。
伏黒に教えてた術式の解釈を広げるという話も、実際宿儺本人は「式神を完全に実体化させないで壊れるのを防ぐ」だとか「式神の術式だけを自分で使う」とかやりたい放題やってる。
でもこれに関してはそもそもみんな思い込みで使い方を制限してるんじゃないか。
禪院家相伝の術式は十種影法術というわけじゃなく”像を映す”という呪術的な要素でしかないんだと思う。
それをベースにして、縛りを重ねて「単独で調伏できたら式神を使えますよ」みたいな一つ一つの技を構築できる。でもその使い方そのものが変えようのない生得術式ではない。
ナイフ一つ使うにしたって切り分けるだけじゃなく柄で殴ったり溝を掘ったり振るい方を変えれば色々できるわけで。
術式は生まれつきのものといっても、その使い方の方針は本人が決めてるだけなんだろう。だから秤とか綺羅羅のやつみたいな「新しい術式」も生まれる。
相伝の術式が現れるときと現れないときがあるのも突き詰めると本人の性分(っつーか体癖)の問題だろうなと思う。
例えば体癖って別に遺伝するものではない。一卵性双生児が性格も体つきも全く同じなの考えると遺伝情報が混ざり終わった段階で決まってはいるのかも?でも親と同じ体癖になるとかはない。
禪院家の「像を映す」という相伝の術を九種的に使うと「影のような対応力」になり、真依さんみたいな六種?五種?が使うと「物体(妄想)の実体化になる。燃費が悪くて本人の諦観が凄いのを考えると六種っぽいか。
投射呪法なんかもそうだと思う。予め計画を立てるってのは五種的な使い方なのかな?でも直哉くんはあんま五種っぽくないね。
Part1終わりに
こんだけ書いてまだ四人!?まぁこの四人が主要人物だから特段力入るってのも無理ないか…
Part1と銘打ってるけど別にPart2があるとは限りません。