201.夫婦喧嘩がなくなる方法
先日SNSで、「夫婦喧嘩をしない方法」と題された投稿を見かけた。
「どちらも悪くない」という考え方は、夫婦喧嘩をしない最強の方法だという。どちらもがんばっていて偉くて間違っていない、と。
確かに。と思ったが、何かがしっくりこなかった。
だって、それじゃどっちも「謝らない!」となってしまうのではないだろうか。
このことを語るためには、そもそも喧嘩というものの定義をきちんと定めなければならないと思うが、とりあえず意味だけ調べてみた。
喧嘩とは「言い争うこと」で、争うとは「勝ろうとする、敵対する、競争する、抵抗する、自分の正しさを押し通す」という意味らしい。
私が夫婦喧嘩と聞いて一番しっくりくるとすれば、「自分の正しさを押し通す」であろうか。
そういう意味でいえば、我々夫婦にはあまり”喧嘩”はない…と思う。我々の場合98%がちゃんと話し合いになるし、2人とも冷静に相手の言うことを受け入れられるし、解決策がとりあえずでも見つかることが大半だからだ。
こうやって思い返すと、我々の話し合いに謝罪の言葉はとても多い。しかも口先だけではない、きちんと実感の伴った謝罪だ。これは、冒頭の投稿でいう「どちらも悪くない」という考えの下では起こりえない。
これがなぜ起こるのかを考えてみた結果、一つの答えに辿り着いた。それは、話し合いの出発点をどちらかの感情にしているということだ。
我々夫婦にはある掟がある。話し合いには、感情の共有と解決策の模索の2つのフェーズを設けることだ。つまり、話し合いの出発点は常にどちらかの感情なのである。
そもそも、悪い、悪くないという概念が出てくるのは、”行動”にフォーカスしてジャッジしてしまうからだ。悪いとか、悪くないとか自分が思ったとき、それは何かの行動の結果に他ならない。
例えば靴下が裏返しのまま脱ぎ散らかされていたとする。それを見て多くの人が、相手が靴下を裏返しに脱いだことを問題視して、靴下を元に戻して洗濯かごに入れられない相手が悪いと考えてしまう。
すると、相手に話を持ち掛ける際の第一声は「ねぇ、靴下また裏返しだったんだけど」とか「洗濯物は洗濯かごに入れてっていつも言ってるじゃん」という切り口になっていくのだ。
でも実際はどうだろうか。裏返しの靴下を見た瞬間から心に黒い渦が湧くまでの思考をきちんとひも解けば、「あー、せっかく今日部屋片づけたのになぁ、気持ちよく過ごせる空間が汚された…」とか、「非協力的なことを感じてしまって悲しい」とか「仕事で疲れて帰ってきたところにすでにやらなきゃいけないことを見せつけられてしんどい」とか思っているのである。
まぁこの思考の根底には、裏がえった靴下を戻して洗濯するのは自分、という固定観念が横たわっているのだが、それは一旦おいておく。
つまり問題視すべきは、私の感情がマイナスに傾いたという事実だけなのである。
では、”感情”にフォーカスすると相手に持ち掛ける切り口はどうなるのだろうか。
「靴下裏返しに脱いであったけどさ、せっかく片付けた部屋にそれがポンとおいてあるの見てすごいしんどかった」「二人で生活していきたいと思っているのに、非協力的な部分を感じてしまって悲しかったんだよね」とかになっていくのではなかろうか。
そしてこの場合、相手が悪いとか悪くないとかは何も含んでいない。そう、自分がどうだったかということだけ。大事なのは、自分がしんどかったことや悲しかったことであって、相手が靴下を裏返しに脱いだことではない。
さらに言えば、これは自分の置かれた状況によってかなり異なる様相を呈する。
1日かけて片付けた後と、まぁまぁ散らかっている部屋の状態での出来事だとすれば、全然心持が違う。仕事で疲れて帰ってきた後と、それなりにゆっくりできた休日の午後でも全然違う。
それを踏まえると、伝え方ももちろん変わってくるはずだ。あくまで、自分の状態が最初から悪かったんだよ、と。
ちなみに、相手の言い分を聞く際や、解決策を模索する際にも感情ベースで話をするといい。
「靴下裏返すくらいできないの?」という行動ベースでできるできないを聞くのではなく、「靴下裏返すのって相当面倒くさい?」という感情ベースで確認する。
恐らくこの例なら「まぁ面倒くさいよね」と返ってくるが、そうなればむしろチャンスだ。それならその面倒くさいのと私が悲しいのとを、両方小さくできる方法を考えようって話になるから。
問題解決がゴールなんだけど、”問題”を出来事や行動ではなく感情なのだと認識すること、これが、私なりの夫婦喧嘩をしないための最強の考え方である。だって、いつだってゴールは、お互いが気持ちよく過ごすことだもの。