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ビジネスと芸術、反比例していく、紹介したいのはアート、歌詞紹介でアートが死んでいく
ども、みゆうぇ(本記事の文字数が10,000字越えにつき、文量短縮のため自己紹介簡略化)です。
アート性を抜群に有したKOHH が、好きだ。
適当に生きているように見えて、クリエイティブを極めしKOHH が、好きだ。
とんでもないリリシズムを放つKOHH が、好きだ。
などというと、千葉雄喜はどうなんだ?今年武道館やるんだぞ?まさかお前、チーム友達ではないのか?と指摘を受けるかもしれない。
言うまでもなく、千葉雄喜だって大好きだ。
それでもあえて今日は、鶴橋でお好み焼きを食う前のKOHH におけるアート性を、私なりにたっぷりと紹介したい。
KOHHを紹介する意味
大事なことなので、冒頭で述べておこう。
紹介して説明する以上、私がこれからやることは、決してアートではない。むしろ、お節介だ。
とあるインタビューでのやり取りを引用する。
— 日常において、KOHHくんは、例えば、どんな瞬間にアートを感じます?
KOHH:俺の曲を聴いて、誰かが何かを感じたとしたら、それが作り手の意図と違ったとしても、その人が感じた何かは、それはそれで正しいんですよね。それに対して、作り手側が「作ったものにはこういう意味があって、こういうことなんだよ」って説明するのは芸術的じゃないし、そういう意味ではインタビューも芸術的ではないなって思いますね。
— 感覚的に作ったものを言葉で説明するのは無粋な行為でもありますからね。
KOHH:だから、どんな時にアートを感じるかは説明出来ないし、言えるのは、説明的な行為にはアートを感じないということだけ。「どうして、この曲はこうなっているのか」ってことは聞かれたくないっすね(笑)。
by Mastered編集部
私はおしゃべり好きだし、長々と文章を書くことがご褒美だと考えるタイプの人間だ。
彼のアート性に並々ならぬ興味があり、書きたくてたまらない。そこにはアート性を微塵も感じないし、KOHH から最も遠い行為になる。
だからこそ、アート性のない本記事を通して、彼のアート性を浮き彫りにしてみせるかもしれない。
Business and Art
今日の中心曲はこれだ。
タイトルからして、まさにアート。
2016年リリースの、『DIRT Ⅱ』収録曲だ。
私見に私見の私見を重ねるので、もはや某ホストもビビるくらい私しかいなくて恐縮だが、この曲こそが日本における、現代ヒップホップの最高到達点の一つだと思い込んでいる。
ここを起点と到達点にして、彼の様々な曲のリリックを引用しながら、KOHH 独自のアート性に迫っていきたい。
なお、引用曲数が多いため、苦渋の決断だが曲のリンクは省略する。
ビートも含め素っっっっ晴らしい曲ばかりなので、是非とも聞いてみてほしい。
聞き方には欲を加えるが、毛色が全く違う曲を複数聞くと、頭の中でカオスが渦巻くのでオススメだ。
即物的な快楽
KOHH に限らず、ラッパーはリリック内で性行為をしていることが多々多々ある。ラッパーを考える上で、性表現を避けて通ることは不可能に近い。
リリックの引用は割愛するが、キャリア初期の「JUNJI TAKADA」や「HELLO KITTY」なんかは、まさに即物的な快楽を気持ち良い程に歌い上げている。
他の曲なら、こんな風に。
i phone5
(Verse 1 から抜粋)
Pussy in my iPhone5
女の子とベッドでfly
(Verse 2 から抜粋)
君はまだiPhone4
ぶっちゃ変わんないほとんど
~中略~
女の子と原宿に出かける
ブーティコールはやりたいだけ
Bad biiitch fuck it
~中略~
番号交換する
翼を授ける Like red bull
Fly boy fly chick 空に浮く
New pussy 登録する
i phone に登録されている女性にbooty call(性行為を中心目的とした連絡行為)をして、たくさんfly をして、たくさんbitch を登録する、という無限ループソングだ。
余談にはなるが、KOHHは単なるモテ自慢やイキリ倒しをしない。思わず笑ってしまうリリックを入れ込むような、ユーモア性を持っている。
「君はまだi phone4」の後に「ぶっちゃけ変わんないほとんど」で毎回笑ってしまう。
それやったら、何で曲名にi phone5 つけとんねん。フックでめちゃくちゃ機種名連呼してるんやったら、違いくらい分かっとかんかい。
と思わず突っ込んでしまう。
そんなKOHH が、Business and Art ではこう言ってのける。
Business and Art
(Verse 1 から抜粋)
やってるのはアート
男たちがほしがってるのはマ×コ
ここをどう受け止めるかは人それぞれだが、色々な曲を聞いた上で吟味すると、どこか距離感があるような印象を受ける。
「男たち」に自分を含めていないような、アートをしている自分が、上記の姿勢に飽きているような――そんな気がするのである。
無論、他の曲で純愛を歌い上げていることもあるし、千葉雄喜以降のスタンスの違いも理解しているつもりだ。
しかし、ことBusiness and Art に関しては、性に対して明らかな距離を取っている。ここでは引用していないが、「いくら大金もらっても~」のリリックからも、距離を感じてしまう。
ある曲では奔放な性関係を歌い、ある曲ではどこか俯瞰して見ている。
ヒップホップはkeep it real なはずなのに、KOHH が放つリアルはぐちゃぐちゃで、ずっと聞いていると、自分というアイデンティティの範囲が曖昧になっていき、それがいかに狭かったのかを痛感する。
KOHHの即物的な快楽に対する距離感は、掴みどころがない。
歪みきった人生観
即物的な快楽を歌い上げるラッパー達は、先のことなんて考えない。ブルーハーツもびっくりするくらい、手の中から未来をこぼしている。
そして刹那的な人生を送り、アップダウンすらもリリックに落とし込む。私はそんな様に興奮を覚えながら、いつもヒップホップを楽しんでいる。
KOHH だって同じだ。
人生観においては、「やりたいことをやりたいときにやって死ぬ」に収れんされていく。
……のだが、KOHH の哲学は歪みきっている。
Die young
(Verse 1)
死んでもいいけど死にやしない
殺せるもんなら今殺せ
Basquiat, Jimmy Hendrix, Kurt Cobain
殺せるもんなら二度殺せ
あいつら死んでる魚の目
友達いつでも真っ赤な目
めちゃくちゃいい女を抱いてる
最高だけど昔最低
俺達に明日なんて無い
俺達に明日なんて要らない
明日よりも今日だけが大事
俺達に明日なんて無い
1バース内で、こうも自己矛盾を引き起こすリリックは珍しいだろう。
明日はいらないし、殺せるもんなら殺してくれてもいいけど、どうせ死なないけど、今日だけが大事らしい。
夭逝したアーティスト達を並べ、破壊願望を歌い上げているように聞こえるが、何せKOHH は死にやしない。
主張なんてないのかもしれないが、全く意味のないリリックとして受け止めることも難しい。テキトウにラップしてそうなのに、聞く者の耳を引き留めて離さない魅力が、そこにはある。
さらに混乱は続いていく。
Living legend
(hook を抜粋)
I wanna be a livin' legend
生きているうちに
死ぬ前にはrich
I wanna be a livin' legend
死んでる人より
生きてるのがいい
I wanna be a livin' legend
生きてる伝説
死んだら意味ない
I wanna be a livin' legend
明日はいらないが、生きてる伝説になりたい。
伝説(legend)ということは、つまりそれが過去でなければならない。生きている過去とは、一体何なのか。
死んでもいいけど死んだら意味ないとは、どういう死生観なのか。
無論、「毎日だな」を初め、今だけをポジティブに楽しむ曲はたくさんある。だとしても、KOHH の暗い側面を聞いたが最後、その世界に引きずり込まれてしまう。
他の曲で明るく歌われれば歌われる程、異性と遊びまくれば遊びまくる程、仲間愛を叫べば叫ぶ程、その暗さがコントラストとなって、異様に光るのだ。
少し、歪んだ人生観の位置をずらそう。KOHH は複数の曲で、お金について語っている。
例えば、この曲はアートとマネーを融合させている。
I Want a Billion
(Verse 1 より抜粋)
I wanna be a billionaire
ミリオンでは全然足りねー
銀行口座のゼロを増やして
角ない大豪邸で暮らしてぇ
美術館みたいに絵を飾って
ルーブルからモナ・リザ買い取って
本物にボールペンで描くひげ
マルセルデュシャンの泉にしょんべん
芸術と言えばなんでもオッケー
派手にお金を稼いで、好きな芸術を派手に買い、派手に取り扱う。
ここで面白いのは、全ての逸脱した行為に対して、芸術をポジティブな免罪符としている点だ。
あえてこのような書き方をするが、仮に陳腐なアーティストが同じことを発したら、「いやいや、芸術に逃げとるやないかーい!真剣にクリエイティブせんかい!」とツッコミたくなる。
KOHH の世界観に引きずり込まれた後なら、「確かに……オッケーかも……」と思わず呟いてしまう。
何でもありな曲を作ってきたからこそ、我々はKOHH が未来で起こす何でもありを許容できてしまうのだ。
実際、千葉雄喜としてヒップホップ界に舞い戻ってきた時も、皆様は「まあ、(元)KOHH ならありか……」と呟いたことだろう。
お金を稼ぎたくて、芸術なら何でもありのKOHH は、Business and Art にて、更に複雑怪奇な人生観を披露する。
Business and Art
(hook より抜粋)
皆お金の事
でもお金は必要
Money come and money go
お金じゃないアート
(Verse 1 より抜粋)
ビジネスと芸術
反比例していく
やりたいのはアート
お金でアートが死んでいく
やってるのはアート
(Verse 2 より抜粋)
お金の為に生きるなら死ぬ
「お金を稼ぎたい」の先にある到達点の一つが、このリリックであることに、KOHH が他ラッパーと一線を画す理由が詰め込まれている。
お金の為に生きるなら死ぬ、と言い切ったところで、KOHH のアート性は少しも損なわれることがない。
ビジネスと芸術は反比例していくのなら、大金をお稼ぐKOHH なんて、反比例した存在かもしれない。
ここで、発想を転換する。お金を稼ぐことが、異常事態ではないとしたらどうか。稼ぎすぎることが当たり前で、日常の風景に溶け込んでいるのだとしたら?
ビジネスという言葉は、「企業(ないしは個人)が利益を得ることを目的として行う行為」とも言い換えられる。
つまり、現状よりも儲けたいという目的意識があって初めて、「こういう商品を売ろう」という次の行動に繋がる。
付け加えると、利益を出し続けなければならないからこそ、行動(次の利益を出すアクション)することが運命づけられている、とも言える。
そうした場合、KOHH がお金を稼ぐことはビジネスになるのだろうか。それが日常の一部で、好きな曲や好きなことをやっているついでの結果ならば、もはやビジネスではない。
毎日、大量のお金が入ってきて、大量のお金が出ていく。KOHH にはそれ以上の意味を持たない。お金を稼ぎ、欲しいものはたくさん消費しているが、ビジネス――お金の為に生きてはいない。
KOHH なら、貧乏なんて気にしない。
他のアーティストだったら、大きな決意表明になる。
しかし、ビジネスとは無縁でリッチなKOHH が歌えば、お金を稼いでいるのに破綻せず反比例することもなく、アートをし続ける、異形の怪物としてのKOHH が登場する。
本質的かどうか
KOHH は、うわべだけの格好よさを、強烈に否定する。
Fuck swag のリリックでは、そんなスタンスが顕著に出ている。
Fuck swag
(hook)
結局見た目より中身
無理して格好付けるのダサい
すぐバレる やっぱり
他人の目なんかよりも鏡を見ろ
結局見た目より中身
無理して格好付けるのダサい
Fuck Swag! Fuck Swag!
そんな飾りいらない
当時、日本ヒップホップ界隈で流行の最先端だったKOHHが、こんなリリックを歌い上げてみせたのは、衝撃的だろう。
何しろ、垢抜けてて、シュッとしてて、ファッションセンス抜群で、オシャレなタトゥーだらけの男が、「無理してるヤツださい」と歌うのだ。
「KOHH くんって、かっこいいよね~」「KOHH くんみたいになりてえな~」などと盛り上がっていた界隈に対して、真正面から殴り倒す行為である。
無論、「見た目より中身だよ」と主張する曲は、無数に存在する。いわんや、KOHH が他ラッパーと一線を画すのは、さらに引用するこのパンチラインだ。
(Verse 1 より抜粋)
誰かが言ってたよ 流行りに乗っかり
とか真似するの無しでも 奪うなら有り
KOHH は決して、流行や真似を否定していない。
自分のモノにして我が物顔で振る舞えばいい、と居直ってみせる。
具体例は出さないにしても、「何かKOHH っぽい」ラッパーはたくさんいた気がする。しかし、今でも活躍しているラッパーは、果たしてどれだけいるのだろうか。
KOHH は流行りそのものであったし、ヒップホップの特性上、誰かやどこかのジャンルをフォロー(真似)せざるを得ないはずだが、決して誰にも奪われることがなかった。
むしろ、「○○っぽい」「○○フォロワー」をアメーバの如く「KOHH」へと統合していき、「KOHH」というブランドを積み上げながら、引退するまで飄々とヒップホップ界隈をライジングしていった。
ここまででも圧倒的な表現力だが、アート性が絡まってくると、シンプルかつ複雑で、冷酷な構造が見え隠れする。
Dirt boys
(Verse 1 より抜粋)
頭は金持ち
見た目は貧乏
Andy Warhol みたいな思考
の人もいるよ
俺もそうだし
俺の友達もそう
2015年リリースの、『DIRT』の収録曲。『DIRT Ⅱ』の一つ前のアルバムにあたる。
アンディ・ウォーホルは、現代ポップアートにおける説明不要の巨星だ。マリリン・モンローの例の肖像などは、ご存知の方も多いだろう。
ここでウォーホルを引用している理由は、巨星の名言である「Think rich, look poor(考えは豊かに、見た目は貧しく)」を、「頭は金持ち見た目は貧乏」のリリックに転用しているからだ。
しかし、アート性から離れた行為をし続けている私には、それだけのためにウォーホルを引っ張ってきたとは到底思えなかった。
似たようなことを言っているアーティストは、たくさんいるからである。
私の脳裏には、ウォーホルの別の名言がよぎった。
If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me, and there I am. There’s nothing behind it.
(もしアンディー・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と、私の表面だけを見てほしい。そこに私があるし、裏側には何もない)
ウォーホルは、作品だけが自分の全てさ、と言う。
言い換えれば、ウォーホル(クリエイター)=作品のみ、という単純かつ乱暴な式が成立する。作品に携わっている間以外の自分には、本当に何もないのだと。
これは、「こうに違いない」「実は舞台裏では○○で~」といった過剰考察を否定する類のものだ。
他者の声に耳を傾けることなく、いま目の前にある作品を、ありのままに捉え、自分の感性だけでクリエイターを理解する。
アートを楽しめる優しい教えだ。もはや救いに近い。
感受性が無くて悩んでいる人、一つの作品しか知らないコンプレックスを抱いている人達に対して、「キミが見たまんまだけが私(クリエイター)だよ」と耳元で心地よく囁いてくれる。
これらの思想は、冒頭に引用したKOHH のインタビューでの発言とも合致する。クリエイターの意図と異なろうが、受け手ごとに正解があるのだ。皆違って、皆いい。
説明にアート性を感じていない以上、曲のみで全てを判断するのも考えと合う。
では、Business and Art ではどのようなリリックで、アンディ・ウォーホルの思想と共鳴しているのだろうか。
Business and Art
(Verse 1 より抜粋)
綺麗でも汚い
本当の事は知らない
ドブネズミの美しさは写真に写らない
人生は短い けど芸術なら長い
お金で見た目を作れるけど
買えない中身
全く共鳴してない。
キーポイントなのは、「アンディ・ウォーホルみたいな思考」である点だ。
ドブネズミの美しさの元ネタは、説明不要だろう。
KOHH はキャリア中期からロックの影響を色濃く受けており、ビートやリリックにも反映されている。
それだけではなく、KOHH の特筆すべき点は、該当箇所の歌詞の意味を、百八十度反転させていることだ。
ドブネズミみたいに
美しくなりたい
写真には写らない
美しさが あるから
ブルーハーツは、ポジティブな意味で歌い上げている。KOHH は逆だ。
まず、同じ意味なら「汚いけど綺麗」という順番にするべきだが、「綺麗でも汚い」なのだ。
その上で「本当のことは知らない」と続けば、「うわべだけの輝かしさに囚われていて、実は汚い中身なんて、誰も分かっちゃくれない」と絶望的な意味を持つリリックになる。
そうなってくると、「ドブネズミの美しさは写真に写らない」の意味が反転する。
どうせ、皆は見た目で判断するのだから、中身なんて誰も分からないんだ、と突き放したようなネガティブな意味合いへと変貌を遂げる。
蒸し返すようで申し訳ないが、もう一度Dirt boys から別のリリックを引用する。
Dirt boys
(Verse 1 より抜粋)
汚れまくり
だけど綺麗
首に刺青
芸術的
(hook)
汚れまくりDirt Boys
綺麗ごととDirt Boys
肩を叩く誇り高いDirt Boys
泥にまみれても綺麗で、誇り高かったはずのDirt boys。
しかし、皆は分かってくれなかったのだ。泥にまみれていたら、「汚い」とだけ判断して去ってしまう。
首の刺青も「怖そう」とか言われて、敬遠されてしまう。芸術的なハズなのに、刺青はただの泥だと思い込まれてしまう。
だからこそ、「本当のことは知らない」のだ。
話を戻そう。
Business and Art の先程引用したリリックで、さらにKOHH は続ける。
お金で見た目を作れるけど中身は買えないと。
思い出してほしい。
KOHH は、うわべだけの格好よさを強烈に否定する。そんな価値観の中で「ドブネズミの美しさは写真に写らない」ことが、KOHH にとってどれだけ絶望的で、孤独か。少し想像しただけでもゾッとしてしまう。
ウォーホルは、見たままでいいと言う。
ウォーホルみたいな思考のKOHH は、見たままでそれぞれの受け取り方が正解だと言いつつも、見たままだけで判断されることを、明確に拒否している。
さらに付け加えたい。
こうしてリリックに浸っていると、歌詞をサンプリングしているにも関わらず、見事にKOHH 独自の世界観を構築する、リリックへと溶け込んでいることが分かる。
流行りに乗っかり、とか真似するの無し。でも奪うなら有り、なのだ。
ならば、中身を理解すれば良い。無理して格好つけず、ありのままでKOHH を聞き、理解すればいいのだ。
それでも意味がないのだと、KOHH は信じられないようなリリックを披露する。
Business and Art
(Verse 2 より抜粋)
お金で買う芸術
乗り回せるベンツ
でも買えないセンス
誰も買えないセンス
ここまで聞く者すべてを突き放したリリックが、かつてあっただろうか。
芸術とは、お金で買えてしまう。
言い換えれば、内的な要因(個性やセンス)ではなく、外的な要因(お金や素晴らしい絵画)で解決できるということになる。
有名な絵画だってお金があれば購入し、自分のモノとして所有できる。たくさん買って素養を鍛え、眺めて考え込んだり、模写したり、それらをベースにして作品を創造すれば、芸術の中身が理解できるかもしれない。
外的な要因は目に見える。従って、解決手法も分かりやすい。
翻ってKOHH は、センスは誰も買えないと主張する。それは中身が買えないことよりも、恐ろしい事態だ。
KOHH のリリックやインタビューを読めば、芸術(=アート)を重要視していることは明らかだ。
芸術を理解するためには、目に見えないセンスが必要なのだとすると、外的要因ではどうしようもない。
生まれもったセンスが無ければ、KOHH のアートを理解することなど、一生できない。
それならば、ラッパーとしてのKOHH を理解することだったら、できるのではないか?
(2 verse より抜粋)
何も 無いのも 最高
まるで田中泯
クソな肩書
ラッパーじゃない
ラッパーなんかじゃない
俺は俺でいい
俺のまま生きる
残念なことに、ラッパーとしてのKOHH を我々は捉えることすらできない。
ご存知の方も多いと思うが、田中泯が何者か、有名な某サイトから引用してみよう。
田中 泯(たなか みん、1945年3月10日 - )は、日本のダンサー。
本人は「オドリは個人に所属できません。私は名付けようもないダンスそのものでありたいのです。」と語り自身の踊りを「舞踏」「舞踏家(ぶとうか)」表記されることを「間違い」「誤解」とし、正しい肩書きは「ダンサー」「舞踊家(ぶようか)」または俳優としている。
つまり、ラッパーとしてKOHH を捉えることは、もはや誤解なのだ。
人間は、器用にカテゴライズすることで、理解を促進する。
例えば、「東京都出身のギャングスタラッパーで、首もとにブリンブリンを大量にぶらさげ、常にブランド品を身に纏い、バリトンボイスでライブ会場を圧倒している」と説明したら、皆様は具体的なイメージが容易に浮かぶのではないか?
それでは、「青森県出身のオペラ歌手で、首もとにブリンブリンを大量にぶらさげ、常にビジネススーツを身に纏い、バリトンボイスでストリートライブを圧倒している」と説明したら、どうだろうか?
おそらく、前者の例と比較すると圧倒的にイメージしにくいはずだ。これだけカテゴライズできるヒントが散らばっていても、後者の例は理解に労力を要する。
カテゴライズすら許さないKOHH を理解するためには、センスが必要だが、誰も買えない以上、それは不可能に等しい、という残酷な結論に到達するのだ。
KOHH のアート性とは一体何だったのか?
KOHH のアート性は、「アメーバのような」が最も妥当な気がする。
曲ごとで、リリックの表情をこれ程までに変えるラッパーはそうそういない。
ある人は「チャラい」、ある人は「ああなりたい」、ある人は「ある意味ロック」、ある人は「実はネガティブだ」、またある人は――。
何の曲をどれだけ聞いたかによって、それぞれのKOHH 像が立ち上がる。私も全曲聞いたわけではなく、聞いた曲がアメーバのように繋がっていき、目の前に私なりのKOHH 像が出現したに過ぎない。
結局、同じKOHH 像を共有できる人間は誰一人いないのだろう。
前回の記事で、歌謡曲及び阿久悠を取り扱った。そこでは、私なりの魅力として「どこまでが本当でどこまでが架空なのかを楽しむ」と論じた。
一方のKOHH は、「全てがリアルなのに、全てがリアルじゃないように思える、だけどリアル」だ。曲ごとで主張や色をガラリと変えてみせるが、アメーバのようなKOHH だったら、疑いもなく全て本当だと受け止めてしまう。
私はSNSを一切やらないし、クリエイターのプライベートも詮索しない。
僭越ながら、私もアンディ・ウォーホルみたいな思考をしているので、作品だけを享受し、それらを鏡として見ている。だから、私がKOHH について垂れ流す視点など、お節介で検討違いも甚だしい。
それでも、KOHH という圧倒的なアート性に飲み込まれてしまった以上、紹介したい欲に抗えなくなってしまったのだ。
歌詞を延々と紹介する行為は、アートを殺す。
しかし、こんなインターネットの片隅で垂れ流された歌詞紹介すら、KOHH および千葉雄喜はアメーバのように取り込んでいき、誰にも理解できないアート性を発揮し続ける。
我々はそんなアート性に取り込まれていき、KOHH および千葉雄喜のアート作品の欠片となるのだ。
……ここまで長文の戯れ言にお付き合いいただいた皆様へ、最大限の感謝リスペクトを捧げます。
本記事を踏まえてKOHH を聞き、カオスに飲み込まれた上で、それぞれのKOHH 像の形成に寄与できたのだとしたら、それに勝る喜びはございません。
KOHH 抜きの千葉雄喜、KOHH 踏まえての千葉雄喜、そんな楽しみ方もまた、一興でございます。
次回は、文字数を省略する技術が書いてある、歌詞の紹介を加速度的に検討します。