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財布をもたない彼女が生命の海を泳ぐ 浅倉透と「贈与」

1 はじめに

この記事では、アイドルマスターシャイニーカラーズのアイドルユニット「ノクチル」に所属する浅倉透について、「贈与」という概念を用いて考えてみます。

贈与とはなんでしょうか?

私たちは日常生活で、贈り物を送ったり、プレゼントを交換したりしています。

プレゼンフォーユー
趣味 : 献血

贈与は、簡単に言うと、何かを与えることです。

しかし、哲学でも扱われるテーマとして「贈与」を考えるとき、贈与の論理、贈与という出来事には、単純に物をあげたり、お金で物を買ったりする「交換」の論理だけでは説明のつかない凄まじさが潜んでいます。

今回は、交換の論理がベースにある資本主義社会にも潜んでいる「贈与」という概念を用いて、透の一端に触れられればいいなと思います。

2 浅倉透に目を奪われた理由

贈与について詳しい説明をする前に、私が透のことを気になってしまう理由について書いてみます。

それは、無理やり一言で言うと、日常に退屈していて世界から逸脱したい気持ちを抱えているようにすら見える透が、「生きるということ」をどのように感じていくのか知りたいからです。
私が特に衝撃を受けたのが、透のGRADでした。

私がコンテンツに触れる理由の一つには、作品に触れることでそれを知らないころには戻れないくらいの衝撃を受けたいというのがあります。人生にくさびとして残るくらいの衝撃で、自己が変容するという体験をしたいという願望です。

そういった体験を時には事故のように受けながら、自分の根底を揺るがされながら逆にそこで自分が何をもって自分なのかを確認してきた気がします。

そんな私は、ミジンコに心臓があることに息を飲んで息をする透に衝撃を受けました。

ある、心臓 心臓ある

3 様々な形で定義される贈与

すぐに、透と贈与を結びつけて考えたいのですが、思想家の中でも贈与は様々な方向性で語られているので、まずは自分なりに概念を整理するところから始めます。

どのような贈与をこの記事で扱うかというと、大きく分けて3人が語った贈与になります。

1つ目は、モースがいう「贈与交換」。
2つ目は、バタイユがいう「消費的贈与」と「太陽による贈与」。
3つ目は、マリオンがいう「飽和する現象」としての「与え」。

さらに、贈与とも無関係ではない、バタイユが語った「動物性」。

これらの概念を用いて、最後に、私がとくに衝撃を受けた透のGRADでのミジンコのシーンについて考えてみます。

4 贈与交換

1つ目の「贈与交換」についてです。
贈与交換は、透だけでなく透を含めた幼なじみ4人について考える上で関わってきます。

人類学者マルセル・モースの『贈与論』(1924年)では、未開部族における贈与の風習を研究しています。モースは『贈与論』により、市場経済の貨幣による交換とは異なる贈与(交換)の視点をもたらしました。

誤解されることがあるのですが、モースの考える贈与は、贈与交換という〈交換〉様式であり、一方向的な見返りを求めない施しではないです。
モースは、贈与は、贈り物にはお返しの義務があるという「互酬性」の原理によって基づかれていると述べました。

今でも見られる風習としては、年賀状とかバレンタインデーの義理チョコとかで考えると分かりやすいかもしれません。物を送ったら、そこには返礼の義務が発生しているのです。ただし、資本主義によって、そういった風習もお金で解決したり、そもそももう面倒臭いのでやらないという動きもあります。

あまりにもテンプレな暑中見舞 ノクチル・2020年
あまりにも型破りな暑中見舞 ノクチル・2021年

こういった慣習は、物の贈与とお返しというただそれだけの行為ではなく、人間関係が反映されるため、煩わしさが伴うという面もあります。

モースは、人間関係の伴う贈与交換について論じました。それによって、人間を功利的な存在にし、「経済的動物」にしてしまう行きすぎた資本主義に対して警鐘を鳴らしました。

整理すると、モースによる贈与の定義は、互酬性に基づく贈与交換です。

5 ノクチルと贈与交換

ここでは、浅倉透がいるノクチルというユニットも視野に入れて考えてみます。

贈与交換は、シャニマスのアイドルユニットの中でも、ノクチルの4人の関係で高頻度で描かれていると思っています。

というのも、贈与交換は人間関係を反映した行為であるからです。ノクチル以前から「幼なじみ」という関係の4人では、物を贈ることはお互いを思い、関係性をつなぐ行為です。

例を挙げていきます。

例えば、樋口円香と福丸小糸の二人の間ではものをあげるシーンがよく見られます。(優しい二人が相手を思って物を贈り合っているという事実が私はとてもうれしいです。)

ぬいぐるみ

「Feb」でのぬいぐるみや「閑話」でのポテト、色んなコミュでの飴のやり取り、飲み物を買ってあげあう「飲む」など、2人の間では思いやりによる贈与が循環しています。

飴くれることへのお返し!
これふぁれきれふぁい
ありがとう

また、小糸と市川雛菜が出るサポートコミュ「しかえし優等生」でも、物の贈与ではないですが、カフェでの勉強会で教え合っているであろうスチルがあったりします。

いちごのフラッペ

他に、透と円香の家が隣同士のこともあり、手土産にメロンを持って行ったりと、ご近所関係から見れる贈与交換なんかもあります。

メロン

また、チョコレー党、起立!では、透が誰からバレンタインチョコをもらったのか管理するために名簿をつけるシーンがあります。性質としてはバレンタインデーの風習は贈与交換的ですが、ここでの透の振る舞いのように、贈与を贈与と感じていない(ように見える)とすると、透の認識としては贈与交換の性質は弱い気がします。
また、円香が透にチョコを最初渡していないというのは、今更形骸化した贈与交換をしても自分と透の関係が類型化されて陳腐なものになってしまうと考えている部分もあるのではないか、と私は思います。このコミュ名は「要返還対象者総覧」ですが、要返還という部分からもバレンタインデーの風習の互酬性がうかがえます。(透自身がどこまで互酬性を感じているのかは微妙ですが。)

チョコ(渡してない)

ただ、贈与交換には人間関係という煩わしさが伴い、返礼の義務があるため、それが重荷になってしまうことももちろんあります。

例えば、親子関係です。ここで、少し本題から逸れますが、小糸と小糸の母親について触れてみます。

子どもは生まれたとき交換するものを持たないため、最初、親子という関係は親から子への一方的な贈与で成り立っています。そして、親子という贈与の関係に「そこに親の贈与を受けているのだから、子どもは努力によって成果を出す」という交換の論理が強く出た場合、贈与は負い目となるでしょう。
(ただ、福丸小糸の母親のことを簡単に毒親と言ってしまうような、一部のネット民からみられる言葉の軽率さは、私は好きではないです。)

求められている通りでいないと

小糸のコミュの中で母親との関係について描かれることがありますが、親子関係も一種の贈与(交換)と言えます。

このセリフに地面の背景、すごい

小糸がこれからどんな過程で、優しさと強さを持ちながら歩んでいくか気になるところです。

小糸さんは、ノクチルの中では特に発達の論理になぞらえた描かれ方をしていると思います。評価されること、成長していることに対して、ここまで地道に自覚的に立ち向かえる強さは、ノクチルの他の3人にとって尊敬されることだと思います。

閑話休題です。

このように、贈与交換は人間関係を反映するものです。そのため、結びつきを強くすることもありますが、時として返礼の義務が重荷になることもあります。

ノクチルの4人の間では、幼なじみという関係によって、ごく自然に贈与交換が行われていると思います。

6 ノクチルと貨幣

贈与交換が見られるということは、逆説的に、貨幣による交換や市場交換についてもある程度意図的に描かれているのではないかと、私は思っています。

透は、貨幣による交換を行わなかったり、変則的な貨幣交換を行う人として強調して描写されることがある気がしています。

透を一躍有名にした財布コミュがあります。このコミュは、変な読み方をすれば、コンビニという一種の資本主義経済的なシステムの中で、商品交換をするための絶対的な価値である貨幣を持ち歩いていなかったことを、『財布ないわ』で済ますシーンとも読めると思います。さらに言えば、そもそも小糸と雛菜にじゃんじゃん奢るつもりだったことを考えると、次の章で説明する消費的贈与としての奢侈と捉えることもできます。

堂々たる立ち姿

このシーンから、貨幣交換における透のスタンスの一面が垣間見える気がします。

また、樋口の283プロのヒナのコミュでコンビニでコーヒーを買うシーンもあり、女子高生がコンビニに行くのは自然なことではありますが、ノクチルも当たり前に市場経済で生きていることが分かります。

機械で会計のコンビニでもトレイにお金出してそう

他にも、「10個、光」というコミュがあります。
透がシャニPとファミレスに行き、経費で払われることについて、自分が食事に対して成果としての対価を出せていないのではないか、とシャニPに言います。
お金に対する透の感覚が垣間見えるシーンだと思います。

高校生は経費とかピンとこないかも

そして、私がびっくりしたシーンが、ノクチルのイベントコミュ「天檻」でありました。
それは、円香の歌をパーティーの場でお金で買うシーンです。

買いたい

どう解釈したらいいのかまだ整理がつかないのですが、市場経済の中に単純には組み込まれない動きをする透が、幼なじみの円香の歌声に対して安い値段(あえて小さいころの金銭感覚で設定)で、市場経済が決めたのではなく自分なりの価値設定によって買ったという行為。これは、単なる貨幣交換ではなく、市場論理から外れた値段で買うという、交換がベースの舞台に乗っかった上で交換の論理に基づかない価値基準で行動している、すごいシーンだと思います。そして、これは透と円香の関係があるからこそ為せるものだと思います。

まだ他にも、ノクチルの2つ目のイベントコミュ「海に出るつもりじゃなかったし」のコイン、ラブラフラビッツの透の衣装ポエム「見るなー。100円」、天塵の配布カードのコミュ「乾かす」(お金を使ってアイドル衣装を乾かすシーン)などなど。

以上のように、ノクチルのコミュの中では、資本主義に関係するモチーフである貨幣が多く見られると思います。

これにより、逆に、ノクチルの中で行われる贈与交換が際立つ部分もあるかもしれません。

7 非生産的消費としての贈与

モースの述べた贈与は、贈与交換のことでした。交換の枠組みの中にある贈与です。

ですが、贈与が交換の論理からはみ出ることはないのでしょうか。

そこで、非生産的消費の観点で贈与を論じたのが、思想家のジョルジュ・バタイユです。

バタイユは、消費には、非生産的な消費に分けられるものがあると述べています。その例として、奢侈、葬儀、戦争、祭礼、豪華な記念碑、賭け事、遊戯、見世物、芸術、倒錯的性行為を挙げています(1p78)。さらに、神への捧げ物としてその身を犠牲にする供犠や、モースが『贈与論』で述べた「ポトラッチ」(自分の力の誇示と相手を辱しめるために莫大な富を贈るといった、北米の先住民であった儀礼)にも、非生産的消費を見い出しました(1p112)。

そして、バタイユは、贈与とは、非生産的消費の面を伴う行為であることを強調しました。

『贈与とは損失と考えなければならない。したがって部分的な破壊と考えなければならない。』(1p81)

バタイユがいう贈与とは、言ってしまえば、非生産的消費としての贈与です。

非生産的消費としての贈与は損失であるため、相手はその贈与に対応する返礼を見出だすことが難しいです。つまり、返礼のない贈与なのです。そこに、交換システムを部分的に破壊する可能性を秘めています。

8 ノクチルと「非生産的消費としての贈与」

では、ノクチルについて、非生産的消費的贈与の観点から見てみます。

非生産的消費は、消費のための消費だったり、生産や保存、発展というような有意義性のない行為です。

小糸と雛菜の後輩組はどうでしょう。

努力や頑張ることをやってのけている小糸は非生産的消費には一見馴染みにくく見えます。しかし、公園の遊具で「遊ぶために遊ぶ」ことにとびきりの笑顔になった小糸にも、もちろん非生産的消費的な行為に無関係ではないですし、それを楽しむ素質もあると思います。

また、幼なじみの4人で集まるとなんだかんだ一緒に楽しんでいます。

手をグーにして踊ってほしい
マンモクスン?

また、雛菜は、自分にとっての幸せを大切にするため、目的の論理だけに縛られることがないので、消費的贈与に抵抗感がないのかもしれません。さらに言えば、そもそも、雛菜は贈与や交換の論理という外的要因に関わらず、自己の幸せという強固な価値基準に依っているため、交換の論理という土台では語りにくい人だとも思います。

両足揃えて跳ねてほしい

そして、透は、非生産的消費としての贈与に親和性の高い人だと思います。

いくつかコミュを挙げてみます。

天塵での「海に行きたいから行く、それだけでいいや」。単純に当てはめることは憚られますが、これは、行きたいから行くという、アイドルになることについて取ってつけたような理由を出すことなく、行動自体が目的になっています。これは、アイドル活動が単純な成長や発達などといった交換の論理に取り込まれることから回避したとも見れると思っています。

価値
行きたいから、行きたい

そして、6の章で触れた「天檻」での円香の歌を買うシーンについてです。円香の歌を、幼少期の値段設定によって、本来市場で支払われるよりも安い値段で買うことに注目してみます。非生産的消費には過剰性、非合理性が伴います。このシーンのように、市場の論理とは異なる幼なじみという信頼関係がある場合、過剰に不足するという贈与も成立しうると私は考えます。

67円

ゆるい例も挙げます。
ローソンでバナコインを購入したときについてきたプロデュースアイテムが透豪遊バッグでした。これは、消費のための消費と捉えることができます。

中身見せてほしい

そして、そんな透の隣にい続けてきた円香についてです。
シャニPに対してですが、『クレイジーな人ですね、勝算のない賭けに興じるなんて』という台詞があります。ここで「賭け」という言葉が出るのも、突拍子のないように見える行動を取る透がそばにいたことと無関係ではないように思っています。

クレイジー
コミュ「賭ける」

また、「天塵」の配布カードの「游魚」について。カード名自体に「遊ぶ」の別漢字が入っていたり、3番目のコミュ名は「賭ける」となっています。モチーフとして、非生産的消費である遊びや賭けを使うことが多いなと思います。

他にも、透の部屋の中にビニールプールを広げて水遊びをする「きせつはアイスクリン」など、非生産的消費が描かれるシーンは数多くあります。

すごいことする

また、かっとばし党の逆襲という透のサポートコミュでも、ダンスレッスンを頑張ることでバッティングセンターで打てるようになるという、目的の倒錯が見られるものがあります。ダンスを頑張るという目的は透自身も自覚はしていますが、ダンスを仕上げることがバッティングセンターで打てるようになるというのは本来因果関係は何もありません。この透の論理の逸脱具合から、有意義性とは異なる価値観を透がもっているように見えます。
そもそも、ボールを打つ、かっとばすという本能的行為は、非生産的消費としての遊戯にも当てはまる行為だと思います。

浅倉透×樋口円香×バッティングセンター=破壊力

また、チョコレー党、起立!というサポートコミュについてです。ここでは、透がショッピングカートに乗るシーンがあります。これも、ただ乗りたかったから乗ったというものでした。反省文を書かされる透ですが、社会規範という枠組みを破ってしまった反省は実感としては正直薄く(シャニPという外的要因によって受動的に行っている面があると思います)、それ以上に透はショッピングカートに乗れたことに喜んでいそうです。

3人は透のほうを向いてるけど透は何を見ているんだろう
コミュを見たいと思っていたので見るとすごかったです。

こういった様々なシーンから、ノクチルや透に交換の論理にとらわれない部分があることが見えると思っています。

9 太陽による贈与

バタイユが注目した贈与は他にもあります。

それは、太陽による贈与です。

バタイユは、著作『呪われた部分』の第1巻『消尽』において、光を注いで大地にエネルギーをもたらす太陽の行為を無償の贈与、つまり何の見返りも求めない贈与と規定しました(1p85)。

「生命のもっとも普遍的な条件について手短に語っておこう。・・・・・・太陽のエネルギーは、生命が繁茂して成長することの根源にあたる。私たちの富の起源と本質は、エネルギーすなわち富を返礼なしに施す太陽の光線のなかで示されている。太陽は決してお返しを受け取ることなく与えるのだ」(1p85)

太陽は毎日光を放射し、大地にエネルギーを贈与するので、生物はそのエネルギーを受け取り、蓄積、消費します。

しかし、太陽エネルギーの利用をバタイユは過剰エネルギーの蓄積として見ています。というのも、利用によって生物は成長、繁殖をしますが、居住可能な空間に限界を迎えたとき、自然に調整が働き、食べ物がなくなったり、共食いをしたり、広い意味での食物連鎖が機能するからです。太陽の過剰エネルギーの利用に限界がきたとき、破壊的な消費が生じるのです(2p89)。

整理しますと、太陽の贈与の特徴としては、相手からの見返り関係なく、生命にエネルギーを与え、時には、そのエネルギーの過剰さから破壊が生じるといったことが挙げられます。

次に、この太陽的な贈与をもとに浅倉透について考えます。

10 浅倉透と太陽的贈与

乱暴な結びつけかもしれませんが、過剰エネルギーとしての太陽=浅倉透と置き換えて考えてみます。
透は太陽的贈与の特徴をもっている人だと、私は考えています。

まず、周りへの影響の及ぼし方です。

透の発言、行動がきっかけとなって、幼なじみが海へ行くことになり、さらには後を追う形でアイドルになっています。

浅倉を追いかける
透先輩がなって
透ちゃんだけ

また、公式の自己紹介文で「その透明感あふれる佇まいには誰をも惹きつけるオーラがある」と言われるとおり、そのオーラによってGRADやLPでは自身の感情関係なしにバズっているシーンがあります。

そのとき、透に対して見出だされたのが捕食者としての一面です。アイドル業界の中で、周りを魅了しながら、さらにはエネルギーを供給している場である業界自体を飲み込み、爆発させる危険性を孕んでいることが、LPでは描かれているように思いました。透には、過剰なエネルギーを与える者としての一面もあるという描写なのではないでしょうか。

しかし、太陽のように、ただ与え続けて自身は何も受け取らないということはあるのでしょうか。

透は生きている人間なので、贈与を受け取る側でもあります。

そこで、重要な視点になると私が考えているのは、ミジンコ(透のGRAD)による贈与です。太陽のエネルギーを受け取った生き物、動物から「与え」を受けることがあるということです。これについては、次の章以降で触れていきます。

Solに割りふられる透
ハウ・ワー・UFO

11 動物性に根差した自己意識

透のコミュには多くの動物の名前が出てきます。その意味を考えてみるために、「動物性」について説明します。
「動物性」について考えることは、贈与が人間、さらには動物によっても行われるということに気づくきっかけになります。また、理性的な存在と思われる人間にも非合理的な面があることを再確認できます。

バタイユは、非生産的消費を行う者の中には、「動物性」に根差した自己意識があると述べています。

例として、賭け事を挙げてみます。
賭けというのは、勝つために合理的な計算をします。しかし、どんなに論理的に考えたとしても、計算を越えた何かが賭けには介在し、この何かと関係をもたざるをえません。しかも、賭けの失敗によって過剰な浪費や富の破壊が行われることもあります。つまり、賭けには、理性的、合理的な部分の他に、それを越えた非合理で狂気的な部分があります。この対象化できない非合理なものの意識を、バタイユは、動物性に根差した自己意識と言いました(1p97-98)。

「バタイユは、自己意識の『自己』が動物性であることを明らかにしている。彼は、『人間性』と『動物性』の二元論を提示している。人間は道具を作り労働し自然を支配する以前に、動物の状態にあった。この動物性は人間性の誕生とともに、抑圧されてしまった。とはいえ、完全に失われてしまったのではなく、人間のなかで他なるものとして存在し続けている。これがバタイユの語る『自己』なのである。つまり、自分のなかの異質な部分であるが、紛れもない自分の一部なのである。」(1p99)

非合理な消費としての贈与を行うとき、自己の意識には論理的な人間性と非合理的な動物性が混在しているのです。

このことを踏まえて、浅倉透のコミュでの行動を見てみます。

GRAD、「国道沿いに、憶光年」、「まわるものについて」など、「走る」シーンがたくさんあります。「走る」ことを、理性より衝動が先にきて、その結果起こる行為と捉えると、透のもつ動物性の表れとみることができると思います。

また、透がかかわるコミュには、シャケ、インコ、クジラ、セミ、キリンなど、動物の名前が出てくるコミュが多いです。しかも、透は生き物と対峙したとき、個人対生き物の対立構造というより、自己を生き物と限りなくフラットな立場で考えるというか、なんなら融解した状態になることがあると、私は思います。うまく言えませんが。
これは、動物性を色濃くもっている透の自己意識が出ているのではないでしょうか。

12 浅倉透と動物性

「殴打、その他の夢について」というコミュから、動物性について考えます。

殴り合うことは、社会性をもった人間にとって非論理的で非生産的だし、その狂気性というか本能的な部分は動物性に近いと思います。(コミュで透が話している映画の元ネタは「ファイト・クラブ」ですが、この映画では反資本主義の思想が色濃く出ています。)殴り合うことは、自身の体を直接使うので痛みを伴います。もちろん怪我をする、すなわち命に危険が及ぶわけですが、その危うさも踏まえた上で、生の実感を得られる行為ではあるでしょう。その危うさ、動物的な部分は、元々動物であった人間には不可分に存在していますし、透にもあります。

ファイト・クラブ

コミュの中で、球技大会でカメラ係をする透ですが、顔のアップしか撮っていませんでした。スポーツというのは、そもそも闘争や遊戯の要素を含みます。つまり、非生産的消費に近しく、また、人間がもつ動物性を垣間見れる行為でもあります。「バシッ、ガツン」と言いながら写真を撮る透は、同級生たちのことを、この観点から見つめたのではないでしょうか。

写真を撮る行為に、殴り合う行為を重ねて、被写体の動物性に輝きを見出してシャッターを下ろしているように見えました。
怒っている担任の顔を「いい顔」と言うのも、ふざけているのではなく怒りという生々しい感情の発露に対して純粋に良いと思っているからだと、私は読み取りました。

他者に対する関心の向け方に、透らしさが見えるコミュだと思います。

透をファインダー越しに見たら、一方的に殴られた気がしそう
いい顔してる

13 「与え」、「飽和した現象」、「与えの証人」

最後の贈与として、哲学者のジャン=リュック・マリオンの述べる贈与について説明します。

グラッドでのミジンコの心臓を見たシーンについて語る際のキーワードになる、「与え」、「飽和する現象」、「与えの証人」という概念を説明しておきます。

 マリオンは、現象学の観点から、贈与について考えました。現象学とは、現象をあるがままに探求する方法です(1p193)。

「『現象』を「与えられたもの」と呼ぶ。『あらゆる現象は与えられたものに属しているのだ』。というのは、現象、つまり、現れるものは『己を示す』ものであり、これは『己を与える』こととほとんど同じと見なされるからである。」(1p202)

マリオンは、現象は根本においてすでに「贈与」と関わりをもっていることを述べ、現象学的に探求した結果、この根本的な贈与を「与え」と定義しました。「与え」とは、受動的な経験であり、〈私〉が支配できない経験なのです(2p46)。

「与え」の現象は偶然の出来事であり、与えられるがままであり、〈私〉は現象を受け取るだけだと述べます。マリオンはこれを「飽和した現象」と呼びます。対象化、概念化、必然化できない現象なのです(1p208)。

そして、「飽和した現象」を受けとめる〈私〉について、理性的で能動的な主体ではなく、「与え」を受け取る受動的な存在であると述べます。マリオンは、受動的な存在である〈私〉を「与えの証人」や「捧げる者」と呼びます。〈私〉という現象は、過剰で解釈できない経験の証人であるということです。

さらに、〈私〉は、何かを受け取ることによって「己」になる、つまり、受け取ることによって自己同一性を確立すると述べます(4p213)。

どんな形したのが、私って思われても
神秘体験、UFO

14 透とミジンコ

最後の考察です。
GRADで、ミジンコを見たときに透のなかで何があったのか、私なりに考えてみます。

考える上で、太陽的贈与、動物性に根差した自己意識、飽和する現象、与えの証人など、これまでに説明した概念を導入します。

透のGRADは、途方もない現象である「生きること」について現時点で透がどんな答えを出したのか、が描かれたコミュだと思います。

あらすじをまとめるのが苦手なので、私が気になったせりふから考えてみます。
(ちなみに、YouTubeのアイマス公式チャンネルに、「【シャニマス】浅倉 透 G.R.A.D.編オープニングコミュ【アイドルマスター】」という動画があったので、貼っておきます。)



同級生の委員長は、透にこう言います。
「はじめにあるのは太陽の光です。」
「食べて食べられて、どんどん太陽の命がつながって湿地を営んでるの...もちろん世界中がそう。」

「ここ――息してるだけで、命になる ミジンコとかも でかい鳥とかも。」
干潟に来て、透はシャニPに心境を吐露します。
それに対して、シャニPはこう答えます。
「頑張りたいんだな、透――頑張れてるのかどうかってこと 透が決めていいんだ。」
「大丈夫だ、合ってる――ちゃんと……立派に、命に見えるよ。」

仕事が落ち着いてきたころ、透が顕微鏡でミジンコを見ました。
「どんな形をしたのが、私って思われてもいい、どきどきしたいミジンコみたいに。そうやって、命のひとつになって......いつか誰かが食べてくれるそういう泥の中にいたい。」


委員長の話を踏まえると、ミジンコは太陽のエネルギーによって形成された湿地で生きる生き物です。
当然ですが、ミジンコと人間がコミュニケーションによって相互理解をすることは不可能です。ミジンコと言語のコミュニケーションは不可能なため、価値共有は不可能であり、別の価値世界を生きています。
ですが、透は顕微鏡を通してミジンコの鼓動を目の当たりにしました。
顕微鏡のレンズによって、ミジンコが目の前に現れて、距離とか人間対動物とかが消失し、ロゴスではなくエロス的な融解を伴って、飽和した現象としてミジンコの鼓動を受け取ったのではないでしょうか。
この与えによって、透は太陽的贈与者として生きるだけでなく、透=〈私〉は「理性的主体」ではなく「贈与される者」「与えの証人」となり、本来人間の外部と思われる動物からも贈与を受け取れる存在になったと思います。

「命のひとつになって...いつか誰かが食べてくれるそういう泥の中にいたい」
そして、上の発言です。
これは、自分が最終的に死んで食物連鎖に入りたいというものが、人間的な見返りからくる願望ではなく、生命に対して見返りのない贈与になればいいという考えなのだと思います。
食物連鎖に入りたいというのが、自己犠牲という人間的なエコノミーに回収させられてしまいながらも、動物というコミュニケーション不可能(価値の共有が不可能)な圧倒的な他者とのエコノミー関係も築くという、二つのレベルをもった考えだと思います。
つまり、人間というレベルで回収される交換の論理だけでなく、自身の動物性をふまえたことによる贈与の論理ももっている、凄まじい死生観だと思います。
動物への見返りのない自己贈与は今の社会だと交換の論理から逸脱した贈与です。
理性的な主体、動物に対して優位性を持っている人間という立場からの発言ではなく、自身を他の生命と限りなくフラットに見ています。

動物からの贈与、動物への贈与という視座をもつことで、透は人間中心的な論理、交換の論理に基づく社会を、軽やかに、ときには壊し、飲み込みながら泳げるのではないでしょうか。

太陽的贈与の側面も持ちつつ、与えの証人であれば、透は、アイドル業界をオーラで飲み込みつつ、自身は芸術や他の生命という飽和する現象を受け取ることのできる、与えによってどきどきできる存在になれると私は思います。

おまけ 透のキャッチコピー

「無限のトキメキ、定額制でお届けします」。
これは雛菜の考えた透のキャッチコピーです。
無限のトキメキ≒尽きることないエネルギー。
定額制は資本主義を透なり(雛菜なり)にチョケて言ってるとか。
ドキドキプロバイダ、プロバイダは電気を与える者。
贈与する者がどきどきして生きながら、無限のオーラを市場の中で届けると考えると、雛菜のキャッチコピーは一見ふざけているようで実は透の一面を表現しているように感じます。

トキメキ電波
ドキドキプロバイダ

15 途方もない記事 「視界4」による感想

ミジンコのシーンを見たときの個人としての衝撃を、考察によって言語化しようとすることは野暮かもしれないです。全然内容がまとまりませんでしたが、あのときの衝撃がまだ胸に残っていて何か残したいと思い、勢いで本記事を書きました。

現代社会において、交換と贈与はもつれ、混ざりながら存在します。贈与が交換より優れているという話ではないです。

ただ、普段意識しない「贈与」という概念を導入することで、現代社会を浅倉透はどう生きているのかを知る手掛かりになればと思います。

今回の記事では透とシャニPの関係について書けませんでしたが、シャニPの立ち位置についても気になるところです。
アイドルのときはシャニPが陸で待ってくれて、ときに透が刹那的、非合理も含んだ形で生きたいときは一緒に海に入る可能性はあるのかな。

ちなみに、シャニマスの全体の思想についても、贈与の概念を導入して考えると、発見があると思っています。
霧子さんとか、消費との向き合い方とか、ルカとか社長に関係するような亡き者や過去からの時間差の贈与とか。



以下、おまけのおまけです。

私がシャニマスを始めたきっかけの1人であるダ・ヴィンチ・恐山さんが、以前にYouTubeでシャニマスについて語る配信(「談話リングドリームチェイサー2020」)をしていました。(この配信、2020年なのか…。)
その中で、恐山さんが、透の空洞性について話していました。
透にある種空洞性を感じるのは、透が「理性的に考える主体」の面が薄い(ようにみえる)からではないか、と私は思いました。前章で言ったことを借りると、与えがあってそして自己がある、みたいな感じです。
立場上簡単ではないかもしれないですが、またシャニマスについて語る配信をしてほしいです。


2023.1.27のファミ通の記事で、シャニマスのシナリオチーム所属の方へのインタビューがありました。最後のほうに、芸術についてとある考え方を仰っていて、それが自分にとってとても好ましいものでした。こういった方がシャニマスのシナリオを作って下さるから、心に残り続けるシーンを作れるんだなと思いました。記事を読んでいない方は是非読んでみて下さい。


16 おわりに 交換と贈与が混じり合う海で

現代は、交換の論理がベースとなった社会です。しかし、交換の論理とは違ってなかなか目には見えないですが、そんな中でも、贈与は海に溢れている夜光虫のようにゆらめいていると思います。

浅倉透が、今後、息苦しさを感じることがあったとしても、目を開ければ実は贈与でいっぱいの海をどきどきしながら泳いでくれたら、私はうれしいです。


参考文献
1 岩野卓司『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』明治大学出版会、2014年
2 岩野卓司『贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想』青土社、2019年


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