能見さんを忘れない 「BLACK SHEEP TOWN」の異人と排除
1 ノベルゲーム「BLACK SHEEP TOWN」について
みなさんは「BLACK SHEEP TOWN」というノベルゲームをご存知でしょうか。
去年、私は発売日当日に購入し、連日パソコンにかじりついてプレイして、とあるシーンで放心状態になったくらい感情を揺さぶられました。
しかし、私が受けたショックをよそに、世間ではあまり知られていないようです。
一人でも多くの人がプレイしてくれることを願って、本記事を書きます。
「BLACK SHEEP TOWN」(以下、「BST」と略します。)のホームページでの物語紹介はこうです。
ゲーム内容については以下のレビューが詳しいです。↓
体験版 ↓
2 醜くても、愚かでも、誰だって人間は。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は。
BSTは、ギャングもの、超能力もの、群像劇と、Y地区の混沌ぶりを表すがごとく、多様な顔をもつ物語です。
ローズ・クラブという非人道的秘密クラブが出てきたり、そこを壊滅するために潜入したり、不死者が出てきたり、引きこもりの女の子が超能力のおかげで友だちができたり、元探偵のおっさんと顔が犬のエリート警察官のバディがあったり、過去に絶対なんかあっただろって感じの無愛想なはぐれ者の医者が出てきたり、常人とは価値観が大きく異なる一見ヤバめな超能力姉妹が出てきたり、権力をもっている胡散臭い老人三人組が麻雀しながらくだ巻いているシーンがあったり、楽天的でこの街を変えたいと希望を語る、右腕に超能力を秘める金髪青年が出てきたり、ギャングの息子だがおっとりした性格で、側近の半目隠れ少女を愛しているぽっちゃりした男の子が出てきたり、『お前は大分年下だが、大切な親友だと思っている』と急に言う無精髭の科学者兼社長が出てきたりと、列挙しきれないですが、かつて中二だった私が今でも好きになってしまうシーンだらけです。
ですがそれだけではありません。以上のシーンでは登場人物のキャッチーな部分が表れていますが、それぞれがもつ思考、行動は表に見える性質以上に多面的で、複雑です。
というのも、この街で生きる者たちの多くは「ふつうではない」です。
異常や欠損や逸脱や過剰を抱えた者たちが生きています。
Y地区では、肉体的にも精神的にも無視できない切実さで生と死が同居しています。それぞれがそれぞれの生きる意味、あるいは生きる空しさをない交ぜにしながら、堂々と胸をはる者もいたり、厭世的な者もいたり、とにかく生きています。それが素晴らしいか素晴らしくないかは私からは分かった気になって言うことはできません。とにかく、この街はこういう者たちの街です。
殺伐とした印象を受けるようなことばかり書いてしまいましたが、逆に暴力や差別に憤りを感じる人にほど、私はこのゲームをプレイしてほしいです。
3 異人・排除
本記事では、とある観点を中心に述べていきます。
それは、「異人」と「排除」についてです。
様々な肩書き、境遇、性格の人々がY地区で生きています。
特に、タイプA、タイプBは、「ノーマル」と異なる部分があります。
Y地区は、除け者にされてきたあらゆるブラックシープたちが包摂される、一種のユートピアです。しかし同時に、異人を受容できないとき、Y地区はいとも簡単にディストピアに変わります。ブラックシープはスケープゴートとなります。自身と異なる他者の排除が悲惨な形で起こります。
しかし、心理的やわらかさをもって、他者への優しいまなざしをもった人たちがいることも忘れてはいけません。
私が忘れたくない人。国立巻河原病院(タイプB収容所)看護師の能見美紗さん、その人です。
能見さんについては「10」で詳しく述べます。
4 『排除の現象学』
本記事を書くにあたって影響を受けたのが、『排除の現象学』という本でした。
この本では、共同体のもつ根源的な暴力や、差異が差異のまま受容されることの難しさ、自分とは異なる者に対する寛容さがなくなったとき他者が異人、時には異物=ゴミとして排除され、個人・集団が「自分・自分たちは異人ではない」という差異の均質化にむかってしまうことなどが書かれています。
特にも、第1章、第2章、第4章は、BSTの物語の中で起きている問題に深く関係すると思いながら読みました。
この本にも書かれた異人、排除については、「6」以降にキャラクターごとの感想を書く際に合わせて触れていきます。
5 注意!
本記事はBSTの核心部分について触れます。未プレイの方はご注意ください。(もし興味をもった方がいたらできればプレイしてみてほしいです。)
また、障害や医療について専門的知識がないため、間違ってたり、理解不足の記述があるかもしれません。また、解釈が自分本位な部分もあるかもしれませんが、何かを毀損する意図はありません。
この物語の魅力を語りつくすことが私の文章では難しいので、論点を「排除」に関することに絞っているために片手落ちな部分もあるかと思います。ご了承ください。
また、気をつけているのですが、何かについて語ることで別の何かを蔑ろにしてしまっている文章もあるかもしれません。申し訳ございません。
長い前置きになりました。
以下、キャラクターごとに感じたことを述べていきます。
(紹介順に大きな理由はないです。)
6 熨田さくら 均質的共同体
「比較のなかでしか喜びを見出せない人間の魂は『比較』の泥沼で死ぬ。」
「ズレって言ったのは、あくまでも環境が違うから感覚が違うっていう相対的な意味でしかないんです。外の街の人とは適応しなきゃいけないものが違うんだから、違いがあって当然なんです。」
(「きみは寂しい人なんだな」という道夫の言葉に対して)「人間は本質的にそういうものですよ?」
自問自答の癖というか、幸福を欲求する思考とネガティブな思考がぐちゃぐちゃと混ざって矛盾しているけど、その矛盾自体も自覚しながら、「黄金の価値観を持ちたい」と言っているところが好きです。人間臭いなと思います。
さくらはタイプAで飛行能力を持っていますが、特異変異として、体液がとめどなく流れてしまいます。自身を「空飛ぶナメクジ女」を自嘲しています。
学校に行かなくなり、社会復帰のためアルバイトに挑戦しますが、タイプAであることがばれていじめられてしまいました。
学校や同僚間での派閥があったアルバイト先など、どちらも差異の均質化が進んだ空間です。そんな場所(さくらの学校はY地区ではなく、いわゆるふつうの学校です。)で、あきらかな差異を背負ったさくらは、その閉鎖的な共同体のなかでは凹凸のない平和的秩序を乱す異人として発見されます。異人とされることで、特異変異は学校、社会にとって悪とみなされ、秩序の周辺部にいることすら許されず、共同体の外部に追い出されます。
そして、さくらは家に引きこもる状況になりました。
ですが、そんな中、さくらは自分を拒まないY地区の空を飛んでいるときに、シウ(謝亮の妹。)と出会いました。
このときのさくらにとって、Y地区は周縁部でした。飛行能力によって、もともといた空間(Y地区の隣町)の外部にあるクリスタワー(Y地区の中心にあるギャング組織YSのタワー。謝亮の父、クリスによって建設されました。シウが住んでいました。)にも行くことができ、シウという友だちができて、だんだんと亮や道夫(亮の幼なじみ。)にも認められる存在になりました。
このことは、Y地区が外部からの異人を拒まないアジール的空間の面があるという幸福な形での表れなのかもしれません。出身、家柄、財産などといった要因は今回のさくらの場合は問題になりません。
さくらが悩んでいたタイプAという差異は、Y地区では差異は差異のまま受け入れられました。
シウ、亮、道夫、Y地区の他の住人たちによるありのままの受け入れによって、さくら自身が「汚い」と内面化してしまっていた特異体質は嫌忌されることがなくなり、やわらかく無化されたのではないでしょうか。
7 太刀川良馬 命それ自体の価値
とても好きな人です。
過去への不器用な向き合い方とか、あの襲撃のあとの激情とか、本人の能力の「共感」の通り、他者への優しさに満ちた人だと思います。(タイプAの能力内容は本人の思うことを反映するという説があります。)
ミアオとの出会いのシーンでの熱をもったモノローグと、「ミアオ、私は生が惜しいよ。」の切実なせりふがとても好きです。
太刀川は、ミアオが突然姿を消してから、ふとしたきっかけでローズ・クラブに行くことになります。そこでYSのリーダーになる前のクリス(謝亮の父。YSのカリスマ的リーダー。)と出会います。
クリスと太刀川は、命に対する考え方が異なります。
クリスは、命そのものに価値はなく、命の価値は作り出すものだ、という考え。
太刀川は、命はそれ自体が価値のある美しいものだ、という考え。
二人がローズ・クラブ襲撃後、袂を分かち、クリスはそのままギャングのトップに、太刀川がタイプB収容所の医師になることは、それぞれの価値観、命の捉え方を考えると不思議ではないと思います。
太刀川がタイプB収容所に行くと打ち明けたとき、クリスは「あそこの患者は頭のイカレたタイプBばっかりなんだぜ?何が楽しくって、そんなことを」と言いました。
それに対して、太刀川は「私は今までタイプBの目を見たことがありません。怖かったからです。でも、今は違う。彼らの心を見てみたい。」と言いました。
クリスは、命それ自体には価値がないというスタンスなので、発病したタイプBを切り捨てざるを得ない価値観です。これは、クリスの妻が発病したときに重くのしかかった問題でもあると私は思います。
クリスの価値観は、エネルギーに満ちた、生き生きとしたものであるとは思います。クリスのこれまでの人生を鑑みると、そうした考えに至るのは理解できます。ただ、そこにはどうしても発病したタイプBに対して寄り添える部分が欠けてしまうのは否めないと私は思ってしまいました。
また、クリスはローズ・クラブ襲撃前に恩師の神父を、襲撃でアダムス(ローズ・クラブの経営者)を、相手の価値観を理解できないまま殺しています。これは、YSの揺るがない人物として厳格な態度です。
原罪について考え尽くしたと言う神父にも、公平に街の総幸福量を増加したと汚れ仕事を引き受けたのだと言うアダムスにも、他の人がどう思っても揺るがない強い価値観がありました。
これらの価値観による行いは、クリスにとっても当時のY地区にとっても認めがたいものでした。それはそうでしょう。もちろん、クリスにとってそうしないといけない状況だったことは否定できません。
しかし、だとしても、理解できない他者の言葉を理解できないまま殺すことは、その他者との永遠の断絶だと思います。
ギャングは他者理解なんて生温いことを時間をかけてしていたら自分が殺される世界です。それは分かります。
血に塗れた世界で己の命を真っ赤に燃え上がらせたクリスのことを私は嫌いにはなれませんが、クリスのその考え方が私と交わらないのが少し寂しく思ってしまいます。
一方、太刀川です。
太刀川は医師を目指す前から、命はそれ自体が価値のある美しいものだと考えており、ミアオの死を自身の能力を使って目の当たりにしたあと、言語化できない感覚になって、タイプB収容所の医師になることを決めました。
人間にとっての最大の未知である死を「共感」し、未知なる感情、発症したタイプBという未知なる他者を理解したいと思うこと。
「人の心を分かち合う力を与えられて、幸運だった」という太刀川の言葉は、他者を受容することへの肯定なのだと私は思います。
太刀川のこの考えはきっと、発症したタイプBの命もそれはそのまま美しいと肯定できる、差異ある他者に寄り添った考えなのだと私は感じました。
8 謝亮 個人的・社会的
亮自身はあまり自覚していないようですが、根っこに、個人的な思い出を大切にする感覚や近い人への慈しみみたいなものがある人だと思います。
ただ、個人的な思い出、子ども的な部分、慈愛などと、組織の掟、組織のトップ、理性などが、相反するものでありながら同時に存在していて、自分のパーソナルに絡まっているように見えました。
YSのトップになった亮も嘘ではないけど、発症した母に優しく語りかけたり、泣くシウに「何かをしなくちゃいけないと心から思ってくれたなら、したのと同じことなんだよ」と頭をなでたり、涙を流してくれた灰上姉妹に感謝の言葉を述べたりする亮が私は好きです。
好きな話は、発症した母を家で介護するところです。
母のタイプBの精神症状が重症化し、ある日、亮は道夫に母を紹介しました。道夫は自身の母もタイプBの重症者だったこともあり、亮へ「これだけ一生懸命世話をして、何にも思ってないなんてこと、あるわけないさ」と声をかけます。亮が親友である道夫を母に紹介するところも好きだし、道夫が亮のことを労わるところも好きです。
似てない二人ですが、母がタイプBの重症者という共通点があります。母がタイプBのため謝家は親類から差別的扱いを受けていました。ですが、道夫は違います。道夫が亮の悲しみを察して寄り添ってくれて、私は嬉しかったです。
亮の母を排除した謝家の親類たちは、血でつながった関係の中に突然入ってきたタイプBの発症者という異人を嫌悪しました。彼らにとって、タイプBの発症者は血のつながりによる共同体に対して、異常、病い、醜さをもたらす害悪なるものと規定されました。
ですが、亮は違います。もう言葉が届いているか分からない母に対して、
「心のどこかに染み込んでくれるのではないか」
と思って話しかけます。
言語コミュニケーションが不可能になった相手には本当に何も届かないのでしょうか。それは相手からの返答がない限り分からないです。
しかし、母から受け取ったものがあったと感じた亮です。
「根っから悪い奴なんかそこまでいないし、間違いを犯した奴が特別愚かだったわけでも、イカレてるわけでもない。ただちょっと、うまくいかないだけなんだ。」
他者への態度が本来排除的でない亮が、組織のトップという立場ゆえ、愛と理性の狭間で苦しみました。
思うように生きられないことの苦しみを味わった亮が今後愛のままに自由に生きられることを、私は願ってしまいます。
9 灰上姉妹 漂泊・無差別
最初は彼女たちの行動論理、価値観について、理解ができませんでした。(そういった意味では、私も、カテゴリによって差別的にレッテルを貼ってしまう、排除側に回ってしまうことがあるんだということを忘れてはいけないなと思います。)
ですが、最初から最後まで一貫して、彼女は彼女のままに孤独な人に寄り添ってくれたことが、とてもうれしかったです。
集団のもつ根源的暴力に対して非常に敏感な人だなと思いました。
愛に気づかず、その愛を直接受け取れなかった悲しい過去がありましたが、サーシェンカ(変身能力をもつ特殊タイプB。別人格に殺人鬼コシチェイなどがいる。Y地区でさまよっていたところ、灰上姉妹に助けられる。)からのプレゼントを「好きになれた」と受け取れるようになったこと、サーシェンカに「とても似合うよ」と言われたことは、一つの救いだと思います。
孤独な者が強引に包摂されるのではなく、それぞれの孤独をもったまま別の孤独な者と一瞬でも交わることができる。そんなつながり方だってあるのかと思いました。みんながみんな必ずしもY地区に包摂されなくてもいいのかと感じました。
灰上はヘドロ地区に住んでいました。
ヘドロ団地はY地区の外縁にある団地です。Y地区の中心部に住めない者たちが集まっています。ここは、Y地区のなかでも迂闊に立ち入ることができない危険な場所として認識されています。というのも、浮浪者、タイプB重症者、人殺し、人間とも思えない特殊変異を持ったタイプAなど、様々な異人たちがいるのです。
彼らはそれぞれの理由によって、中心部にいることができなくなり、周縁部にいます。Y地区の中心の街が健全になればなるほど、Y地区ですら目立つ大きな差異をもった異人たちは周縁へと移動します。時には、自らの意思とは異なり、Y地区の中心部が受容できない際立った異質なものとして排除され、中心から周縁へ追いやられます。ヘドロ団地は、追いやられた異人たちが住む場所と言えるかもしれません。
灰上は、「初めてここへやって来た時から誰も一度も差別」せず、死を待つ者にも「普段とは変わらないように接し」ました。
差別しないこと。このことは、灰上が兄の愛を受け取れなかった後悔からくるものなのかもしれません。
灰上は、帰る場所を失ったと考えていました。
そして、サーシェンカも、故郷には帰ることができず、さまよっていました。
そんな彼らはY地区で出会い、灰上はサーシェンカ(とサーシェンカの別人格たち)の味方になってあげると言いました。
灰上もサーシェンカも、土地と結びつきをもった縁を無くした、漂泊する者です。
灰上はサーシェンカを守るためヘドロ団地に住むことをやめ、サーシェンカは生まれた地での生活ができなくなってY地区にやってきて、このY地区でも殺人容疑で追われています。
灰上もサーシェンカも、漂泊する異人です。
土地との縁を失い、同一性のある空間にいることができない彼らは、逆にそのため、共同体による均質化を逃れられる部分もあるかもしれません。
彼らは、BSTの中でも、拘束を避けた自由な存在として描かれているように思います。漂泊する者は、定住する者に比べて、自由なのかもしれません。もちろん、その影には漂泊せざるを得ないようなつらい過去があったのかもしれないのですが。
物語の終盤に灰上の幼少期のあんな話をみたら、灰上と亮のことを私は嫌いになんてなれません。
その話はこうです。
灰上の兄は先天的な重度の特異変異をもったタイプAとタイプBのハイブリットであり、普通の社会では生活できず、サイキック能力を使って特殊な任務を行っていました。
灰上は兄が上の画像のような見た目だということを知りませんでした。ですが、遠くで暮らす兄から毎回届くプレゼントを喜んで受け取っていました。
しかし、兄は妹たちに贈るプレゼントを買ったあとに発症してしまい、正気を失ってしまいます。正気を失ったものの、妹にプレゼントを渡したい一心なのか、道中妹の好きな薔薇の花を手折り、妹の暮らすY地区まで何日もかけてぼろぼろの姿でやってきました。
ですが、妹たちはそれが兄とは気づけず、化け物と勘違いして致命傷を負わせてしまいます。
泣きじゃくる灰上たちのために、亮は死を待つ灰上の兄のこめかみに銃弾を撃ち込みました。亮にとってそれが初めての殺人でした。
兄からの薔薇の花を拒絶してしまった後悔、その後悔から私たちだけは孤独な者の味方になりたいと思うこと、そしてその相手からローズのペンダントを受け取れるようになったこと。
サーシェンカは自身をグレートホールから来たと言います。そうだとすると、人ならざるものであり、人からの理解が得られがたい異質なものでしょう。
ですが、人と呼べるかも分からないようなそんな孤独な存在に、彼女は差別せず寄り添いました。
孤独と孤独が互いに何かをあげて、何かを受け取ることでほんのちょっとでも救われる、そんなことがあったっていいんだと私は思いました。
10 能見美紗 『能見さんは本当に頑張って仕事をしてくれたいい人』
「病院襲撃」は、本当に、本当に悲しくなりました。みんなにも知ってほしいけど、『能見さんは本当に頑張って仕事をしてくれたいい人』だったんです。能見さんのことを私は忘れたくないです。
能見さんは、タイプB専門病院の看護師です。世間ではタイプB収容所と呼ばれている病院で働いており、担当病棟は、「症状が慢性化し、状態が安定しているものの軽度とは言えない女性たちが暮らす閉鎖病棟」です。
家族を含め、世間の人の多くが、精神病を発症したタイプBに対して「普通ではない」と言い、偏見をもっています。能見さんは日々の仕事に悩みながらも、患者に対する理解を深めようと頑張っています。
そんな彼女が務めるタイプB収容所はY地区の外れに位置しています。タイプB収容所に入っている患者は、一般社会で生活が困難になったタイプBたちです。
タイプB収容所は、社会の周縁ですらなく外部に位置し、そこにいる患者もY地区という共同体の外部に位置します。
ノーマルの枠から外れたタイプA、タイプBが多く暮らしているY地区は吸収型の面はあります。
しかし、発症したタイプBが病院へ収容されたり、Y地区の中心部にいられない者が外れのヘドロ団地に追いやられたりと、Y地区という共同体には嘔吐型の面もあります。
そんなY地区の外れにあるタイプB収容所はどうでしょうか。
タイプB収容所という施設は発症したタイプBを収容・隔離する目的があり、嘔吐型の面もあります。
しかし、タイプB収容所と世間には呼ばれていますが、ここは患者をケアする病院です。ここで生涯暮らすかもしれない患者の生活を支える看護師たちの志向するものとしては福祉の精神であり、吸収型の面もあるでしょう。
異物吸収型と異物嘔吐型の分類を、社会だけでなく個人に対してもあてはめた場合、タイプB収容所の看護師である能見さんは前者だと思います。
(もちろん全てがこのような二分法で簡単に分類できるものではなく、対象への理解の補助線くらいに考えたほうが、乱暴なカテゴライズを避けられるとは思います。)
異人にとってのユートピアである一方ディストピアにもなりゆるY地区において、異質なものが嘔吐された結果、Y地区の外れのタイプB収容所に発症者が入院しています。そこで、能見さんは日々悩みながらも看護師として患者に寄り添って働いています。
タイプB収容所には様々な発症者が入院していますが、世間の人の多くが、精神病を発症したタイプBに対して「普通ではない」と一括りにしています。
上の一文は、1961年の精神衛生法の一部改正以降、地域社会で包摂されていた乞食や浮浪者、知的障害者などが予防抗禁のために収容施設に送られるようになった時代において、一人ひとり違う異人たちが差異ない塊として把握されるようになってしまったことについて述べた文です。
差異なき塊としての異人は、もはや一様に危険な存在であり、排除される異物と認識されます。
ここで、タイプB収容所はY地区においてどのような施設なのか考えてみます。
街で暮らす人は、タイプB収容所に入った患者とは決して出会うことはないです。なぜなら、患者が入院しているのは閉鎖病棟だからです。タイプB収容所は、Y地区の街の外れにありながら、絶対に街の人と患者が出会うことのない断絶した外部なのです。街の人と患者のあいだに有機的関係は起こり得ません。
ですが、タイプB収容所のなかではどうでしょうか。
閉鎖病棟のなかの患者は、塀を越えて街へ行くことはできません。塀という境界を跨いでY地区という共同体に戻ることはできません。しかし、この病院内では、患者をケアする看護師がいます。看護師は毎日患者と深くかかわります。思い入れが強くなり、母親のように接して注意を受けるほど肩入れしてしまうような看護師もいます。患者によっては、愛称としてあだ名で呼ばれている患者もいます。患者も、症状が重くないときは看護師に自分の言葉で伝えられる場合があります。
ケアする方と患者のあいだには有機的な関係が確かに見られるのです。
看護師は仕事としてのケアかもしれません。重症患者が看護師に伝えた言葉は意味をもたない発声だったこともあるかもしれません。ですが、看護師が愛称で呼んだり、症状の緩和のためにケアをしたり、患者が看護師のことを頼ったり、看護師がなんとか行っている患者のための月一回の誕生日会を楽しみにしたりしている、そのなかに愛がないとは私は思いません。
それぞれがそれぞれの名前をもっていて違う誕生日を祝われる、差異をもった患者たちは、看護師たちにとって「差異なき塊」ではなく一人ひとりが違う人間なのです。
以上のように、能見さんを含めたタイプB収容所の看護師たちは、Y地区の外れへと追いやられてしまって一般社会との交わりを失った発症者に対しても、受容的な態度で関わっており、そこには有機的な関係があったと私は思います。
ですが、看護師と患者、能見さんと内田広美さんとのあいだに確かに存在した交わりも、病院襲撃によってめちゃくちゃにされました。
能見さんが八龍会の解放軍によってタイプB収容所にいる敵として判断され、受容の空間だったB病棟三階が混沌と暴力によって血に塗れた供儀の場になってしまいました。
上の文は、かつて実際にあった横浜浮浪者襲撃事件をふまえて述べられた文章です。
美化などの標語の背後に異物排除の思想があり、そういった標語によって排除にともなう感情的負荷がやわらげられてしまっています。そこでは、街という共同体が主体となっています。
解放軍による病院襲撃にも、同じような排除構造があったと私は考えます。
ネオ・ローズによる精神病「治癒」、自由を奪われたタイプBの「解放」というスローガンのもと、大義名分を掲げて襲撃しています。そこでは、八龍会解放軍という共同体が主体となっています。
解放軍という共同体がタイプB発症者を異常であると内面化しているがために、タイプB発症者は異人ですらなく異物であり、「そんなモノたちは治癒するか解放してわれわれと同じ正常なタイプBにするしかない。場合によっては殺してでも。」という排除の思想が、病院襲撃時のカミラ(解放軍のサブリーダー)たちには横たわっていたのではないでしょうか。
ここで、病院襲撃の出来事を語るために、解放軍リーダーの道夫と補佐のカミラについて説明します。
道夫の母は、発症したタイプBでした。そんな母だったけどそれでもおかしくなった母のことを愛していると言っています。
そんな境遇もあってか、道夫個人の思想としては、単にタイプBだけを仲間と認めるのではなく発症したタイプBも受容したいし、Y地区という街もそうしていきたいという考えです。前の話でいうところの吸収型のような思想と言えるかもしれません。
ですが、八龍会が育ての親だった道夫は、自身の意思には反する形で病院襲撃のリーダーとなってしまいました。
カミラはどうでしょうか。
カミラは、「タイプB至上主義というか‥‥‥タイプB以外は敵と見なしているような」人です。病院襲撃のサブリーダーとなり、能見さんのいるB病棟3階への襲撃を指揮しました。
そして、病院が襲撃された日です。
襲撃されたとき、能見さんのいるB病棟3階では患者の誕生日会が行われていました。襲撃に気を取られ、患者が食べ物を喉に詰まらせ、看護師さんたちが銃を突きつけられながらも命がけで対応しました。なんとか詰まった食べ物を取り出すことができましたが、その様子を見て、カミラは患者に暴力的な対応をしていると勘違いしていました。
また、その直後、患者の内田さんが便を漏らしてしまいました。能見さんはここでも命がけで処置をしたのですが、カミラは便まみれの患者に対して不快感をあらわにしていました。
ここでは、無知・無理解による偏見、内なる他者への不快感をもつカミラと、患者と少なくない時間を過ごしてきた看護師の能見さんが対照的に描かれていると思います。
カミラのような解放軍のタイプBにとって、収容所のタイプBは、同じタイプB=自己ではなく、自分たちに見た目は似ている異常者、自己の安定を揺るがす異人=内なる他者です。
重い症状が出ているタイプBのことを受容できず、汚くて不快で迷惑なかれらを自分たちの仲間としては受け入れがたいという態度です。
集団のアイデンティティを守るために、まずもって「発症したタイプBは不幸であり、有害であり、異常である」というカテゴリカルな排除の論理があるのです。
カミラと解放軍という共同体がもつ心理的な硬さが、病院襲撃でははっきりと表れています。
解放軍は、その均一化されたコミュニティにおいて発症したタイプBという異人たちを差別の対象とし、接触自体を禁忌しました。発症したタイプBをそのまま包摂することができず、排除することでしか集団的アイデンティティーを確立できませんでした。
解放軍による異人の解放もしくは殺害という血にまみれた供儀によって、タイプB収容所という受容時空は破壊され、看護師たちと発症したタイプBたちの有機的な関係世界はなくなり、解放軍という共同体の「平和」が維持されました。
解放軍にとって、収容所のタイプBは内なる他者です。軍の平和を乱す者として定義されたかれらは、襲撃事件のさなか供儀の祭壇にあげられ、いや、襲撃の際ではないです、襲撃の前から排除が存在し、その排除の実現のため、スケープゴートとして生贄にされたのです。その際、スケープゴートを庇う者である看護師も同じく敵とみなされ、排除されました。
なぜなら、供儀を邪魔する者もまた、平和な集団を脅かす存在であり、さらに、タイプBと異なるノーマルという異質なるものだからです。そのノーマルが内なる他者である発症したタイプBを受容していることは、解放軍にとっては自身の共同体を揺らがす危機だったのでしょう。
解放軍という淋しいトリックスター。
解放という名によって行われた暴力的な境界破壊。アイデンティティクライシスによって群衆化した解放軍の暴力によって、物理的にも、精神的にも、強引に境界を破壊させられた患者たち。
病院襲撃のあと、患者たちは解放軍に八龍会への入会を促されます。
ですが、こんな暴力的な解放によって元患者たち全員が新たな共同体に入ることができるのでしょうか。
共同体と差異が少ない元患者なら、なんとか元いたコミュニティに戻れるかもしれないです。
ですが、認知症を併発していた元患者、帰る場所がない元患者、小さいころから病院にいた患者は、その差異ゆえ、共同体に入ることが難しく、精神病がネオ・ローズ(副作用なくタイプB発症者の症状をなくす薬。数週間で効果は切れる。)によって治っても、排除構造によってまた異人として見出されてしまうと私は思います。
これは能見さんも心配していたことでした。
病院襲撃のあと、新しいタイプB専門病院の建設先は嫌がられてなかなか決まらないようです。
なんとか居場所があった発症したタイプBたちは、ネオ・ローズという特効薬を使えない場合、今後どこへいくのでしょうか。
能見さんは自身の心理的なやわらかさによって患者Uと関係を紡ぎました。患者Uは広美ちゃんという一人の個人として発見されました。
病院襲撃の日、発見された内田さんが能見さんをおもって流した涙は、二人のあいだにあったつながりの悲しい形での証左だと思います。
これから内田さんが過酷なY地区で能見さんのことを覚えていられるか分かりませんが、この物語の目撃者である私は能見さんのことを覚えていたいです。
11 普通と異常
私は冒頭に、Y地区にはふつうではない人たちが暮らしていると言いました。ですがそれは、「私自身はふつうだ」という線引きを行っている差別的な態度だったかもしれません。
何が普通で何が異常かというのは言い切ってしまえるものはないはずです。普通と異常の境界線は揺れ動くものです。
なのに、不安定なアイデンティティに耐えられず、安易にすぐ普通と異常の線引きをしようとしてしまいます。
自身や自身の共同体という主体には、理解できない他者を〈かれら〉として排除するという動きがあるということに、私自身、もっと自覚的にならないといけないかもしれません。
12 彼らに踏まれた街と彼らが踏まれた街
Y地区で起こった出来事は当事者にとっては遠い過去となって愛おしいものに変わるかもしれません。
かれらに踏まれ、かれらが踏まれたY地区という街。Y地区はかれらにとってつねにお祭り騒ぎのような場所だったのでしょう。
能見さんは本来このお祭り騒ぎの自主的な参加者ではなかったはずでしたが、強制的に舞台にあげられてしまいました。それだけがとても悲しいです。
共同体が宿す根源的な暴力の構造上、Y地区という街のいたるところが排除の犯行現場であり、そこを歩く人は加害者に他なりません。ただ、その犯行が起こってしまう前に、手を差しのべ、味方をしてくれたり、毛布と衣服を与え、あたたかいごはんを一緒に食べてくれたりする通行人だって、この街にはいました。
願わくばY地区の未来では望まない悲劇が起こらないように。
この記事を、Y地区で生きた全ての人々に捧げます。
新作『ヒラヒラヒヒル』体験版やってみてください!!!!!!
この記事を書いている最中に、BSTのライターである瀬戸口廉也さんの新作『ヒラヒラヒヒル』の体験版がプレイ可能となりました。
さっそく体験版をプレイしましたが、体験版の部分ですらすさまじかったです。
ホームページに書かれた『みんな、普通の人間なんだ』というキャッチフレーズは、登場人物が普通と異常の違いに悩んだ末の祈りとしてのフレーズになるのかな、と私は推測しています。
BSTでも描かれた普通と異常についてですが、そもそも普通と異常の境界線は揺れ動くものだと思います。なので、何が普通で、何が異常かという境界線の位置に囚われるのではなく、それぞれに差異があり、私・私たちとは違いのある他者がいて、その他者と分かり合えないこともあれば、あらゆる奇跡によって一瞬でも通じ合える可能性があったりするということが大切なのではないかと、私は思います。
ヒラヒラヒヒルでも、さまざまな人が出てくるかと思いますが、どのような物語になるのかと今からどきどきしています。
ヒラヒラヒヒルの体験版はすぐにプレイできるのでぜひやってみて下さい。お願いします。
体験版↓
・参考文献
赤坂憲雄『排除の現象学』岩波書店、岩波現代文庫、2023年