優しかったママを忘れてない:毒親エピソード⑤
タイトルに毒親と入れてはいるけれど、第二子誕生後、多かれ少なかれ長子が経験することだと思う。
優しい声
昔は良かった……妹が産まれる前の、ぴいちゃんと私を呼ぶ優しい母の声を思い出し、私は声を殺して押し入れで泣いていた。母はもう、私をぴいちゃんとは呼ばない。Piko、と呼ぶ母はいつも怒った顔をして私から目を逸らしてした。2度と、ぴいちゃんとは呼んでもらえないことを直感的に理解していたのだ。
母親が高い声で子供に歌うように話しかけるのを、ペアレンティーズというそうだ。私も娘にいつもやっているアレだ。「娘ちゃああん!今日もかわいいいいでちゅねええええ♡」っていうちょっと恥ずかしいあのトーン。子供に安心感を与え、言語習得に役立つ効果があると最近科学的に証明されたらしい。
3歳差で妹が生まれてから、母は私にペアレンティーズを使うことをやめた。ある日、どうしてもまた母のその優しい声が聞きたくて、母にお願いをした。しかも、よりによって何かで怒られた直後に。「ママ、前みたいにPikoに優しくお話しして」自転車に乗る母の背中に、こう言ったのだ。
「いま無理」
「お願い」
「もう怒ってないよ」
「違う、前はそうじゃなかった。」
「もう怒ってないよ」
「違う…」
「もう怒ってないよ」
「…うん」
私は自転車の後ろで声を出さずに泣いた。優しいママに戻ったのだ。また優しくしてもらえるのだ。もうなんにも、心配いらない。
そして自転車から降りて、自分が勘違いしていたことを知った。ママはとても怖い顔をしていたから。私の目を見なかったから。
優しいママはもういない
それでわかったのだ。もう2度と昔のようには戻れない。だから私は、優しくしてくれた母と、幸せいっぱいだった頃の自分を思い出し、押し入れの中で1人涙を流すようになった。
押し入れの中に入れば、幸せだった頃の自分に戻れるから。だから母の前では平気な顔をしていたし、泣くこともなかった。妹は可愛かった。不思議と、妹に母を取られたとか、妹のせいで母が変わってしまったとかは思っていなかった。両者が結びついていなかったのだ。
久しぶりに触れた優しさ
5歳の頃、固く結んだ紐が解けなくて、歯で噛み付いてもダメで、母に解いてほしいと頼んだ。
Piko:「ごめん、噛んだからツバついてるよ。」
母:「こんな可愛い子のツバなら。」
私は嬉しさのあまり涙を堪えるのに必死だった。この時にはすっかり人前で泣かない癖が染み付いていた。妹が生まれて以降、可愛いなんて言われたのは後にも先にもこの時だけだったと思う。
可愛がってもらっていた2歳以前のことが蘇り、胸が苦しくなったことを覚えている。そんな気持ちを表すこともできず、私は母の言葉を反芻していた。そして寝る前に思い出す優しい母のイメージに、この時のエピソードを加え、声を出さずに泣いていた。
第二子誕生後の上の子
母はこの時、いわゆる「上の子可愛くない症候群」だったのだと思う。確かに妹は、私の目から見ても可愛かったので、育てづらいタイプだった私と比べて態度に差が出てしまうのは仕方がなかったのかもしれなかった。
私は最も古い記憶は1歳代であるため、当時の記憶を鮮明に覚えているが、2,3歳差で下の子が生まれた世の中の長子はみんな、忘れているだけで誰もが経験していることなのかもしれない。
私の1番は、ずっと娘であってほしい
現在第二子妊活中だが、私も娘に同じ思いを味わせてしまうのだろうか。私を絶対的に信頼してくれている、小さな小さな可愛い娘にあんな思いをさせてしまうのかと思うと、第二子なんてもうけないほうがいいんじゃないだろうか。
幼少期、思い出す母の姿の断片は、私から目を逸らし怒っているものばかりなのに、消えない優しかった頃の母のイメージが、怒っている具体的エピソードを思い出すのを阻む。
私にとって母は、大好きな優しいママのままだったのだ。ずっと。ママが大好きだった。