25年経って、ようやくあなたに言えること
「あなたのこと、愛していないと思う。でも、失いたくないの」
彼からのプロポーズに対する私からの最初の返事。YesでもNoでもない曖昧でずるい返事。当時、別れてからもずっと心を寄せる人がいた。愛する人から受ける友達宣言ほど辛いのはよく知っている。だからこそ、素直に答えなければと選んだ言葉だった。確固とした返事をすぐに出せなかった私に、直感だけがそう言わせた。
彼は私の両手を握ったまま、少し寂しそうな優しい笑顔で「わかった」とだけ答え、ゆっくりと私を抱きしめた。腕の中があまりにも温かくて、私の中の氷山から溶け出した何かが、目から雫となって溢れ出した。
スペイン留学期間終了のわずか3週間前だった。
◇
15000キロもの距離のある関係。あれから2年後、私は再びスペインに戻った。距離を縮め、今度は留学ではなく結婚するために。
まだ『インターネット』が存在しない頃で、国際電話が生の声を聞くための唯一の手段だった。国際ダイヤルを回し、ようやく通話が始まる。「あっ、もしもし?元気?」と言うだけで5000円くらい軽く飛んでいく時代だったから、お互いの交信はもっぱらエアーメール。緊急連絡はファックスだった。
1年間留学したからといって、スペイン語をマスターできるわけではない。和西辞典を駆使してスペイン語で手紙を書く。おそらく、内容も文章も無茶苦茶な手紙。読めたものではなかったに違いない。けれども、返事は必ず返ってきた。早くても2-3週間、遅い時には月を跨ぐこともあったし、紛失されたり、古い手紙が突然届いて話が嚙み合わず、言った、言ってないの押し問答になることもあった。それでも、返事は必ず返ってきた。
実は、今でも彼の引出しの奥深くに、私が送ったエアーメールの束が残してある。かつての自分が書いた宛名の文字に赤面してしまう。内容までは恥ずかしすぎて読めない。
結婚するにあたって両親へ挨拶に来てくれた時にも、巻き軸のように長いファックスを先に送ってくれた。翻訳して両親に通訳するようにと。全く足りない語学力で必死で翻訳をしたが、結局は、強度の緊張を言い訳に「結婚を認めてください。一緒に幸せになります」という余りにも短い要約となり、横にいた彼は衝撃のあまり、豆鉄砲を食った鳩のようだった。きっと、まだ続きがあるのだろうと思ったのだろう。彼も両親もしばらく、じっと固まったままだった。
◇
スペインで、全く普通でない日々が、ごく普通に繰り返される毎日となった。9年間にわたって排卵不全治療をうけていた私。結婚前に、治療なしでは子どもは難しいという事を夫に伝えていた。それが、治療する間でもなくまさかの妊娠。「騙したな、ウソツキめ!」と涙を溜めながら喜んでくれた日を忘れない。
毎日が知らない事の連続で、いろんな意味でギリギリだった。主婦として母として海外で生きる参考書はなかった。出産や育児も、日本の育児書はほとんど役に立たなかった。
長男のお尻の蒙古班を見に、病院の先生や看護婦さんがやってきた。ほっぺが真っ赤だった息子は、退院するまでの間、リンゴ君と呼ばれていた。私の父に良く似ていたのを、えらく喜んでくれた。
長女を出産した日には、立ち会ってくれた夫が、分娩室の中の暑さと、会陰切開の衝撃と、出産の感動で気を失いそうになり、もう少しで分娩室から親子3人揃ってストレッチャーで担ぎ出されるところだった。新生児の娘を「猿みたいだ」と言ったことは、娘には秘密にしておいてあげる。
この頃、決して裕福な暮らしではなかった。次男の妊娠を知った時、素直に喜べなかった。子どもたちを幸せにしてやれるのか不安だった。食後のデザートは4人で1つの林檎だった。離乳食も既製品は買えないから全部手作り。毎日が「あっ」だけで終わった。
タイミングからすれば、長男と長女に続いて次男もそれぞれ2歳の年齢差。日本以上に母親に対する社会的フォローのないスペインでは社会復帰はさらに難しくなる。夫は言った。
「何を迷うの?子どもはずっと3人がいいと思っていたんだ。5人家族って良くないか?絶対に5人がいい。その子は生まれてくるべきなんだよ。何も心配しなくていい。産んで!」
私たちは5人になった。言葉のとおり、家事も育児も可能なかぎり手伝ってくれた。夫が仕事のことで何日も眠れない日があったのを知ったのは随分と後だった。一緒にベットに入り、朝、目が覚めるとやっぱり夫はベットにいたから。「お気楽な妻だと思ってた?」と聞いてみた。
「心配そうな顔を見るよりも、ぐっすりと幸せそうに寝ている顔を見ていたい。それで十分」
夫は両親に届かなかった約束をちゃんと守ってくれていた。私が通訳しなかった夫の誓い。申し訳ない気持ちと一緒に、私は幸せにならないといけないと思った。
◇
夫は向こう見ずな性格で、初めて来日した時も、日本語はおろか英語も出来ず、無事に到着するのかという不安を見事に的中させた。入国カードにサインをしなかったという理由で空港の入国管理局で2時間も拘束されてしまった。
生き物を飼うことには絶対反対だったわりに、借金のカタに犬を譲り受けるのを決めるのに必要な日数はたったの二日だった。そして、夫はなぜか、今でも赤ちゃん言葉で犬に話しかける。犬のセントは今年で10歳になる。
子どもたちが小さかった頃、突然、キャンピングカーを買いたいと言い出した。おかげで、日本からやってきた両親も一緒にキャンプに行った経験は、私たちだけでなく両親たちにとっても、大切な大切な思い出となった。
私とは対象的に、運転が全く苦にならない夫は、イベリア半島を横切って1000キロもの道のりを一日で走行してしまったこともある。そうそう、家族全員でバレンシア市内のF1グランプリのコースを自転車で走るイベントにも参加した。スキーに行って、遭難しかけたこともあった。思い出話は尽きない。
◇
どれもこれも、夫がいたからこそ出来た経験だ。考え方が似た者同士ならそうはいかなかったのだろう。二人揃ってよくよく考えた末、実行しなかったことも多かったはずだ。地味で面白味のない毎日だったと思う。
考え方が違うということは対立することも多い。期待していた返事とは全く違う返事が返ってきたのは一度や二度ではない。きっと、夫もそう思っている。
私が、仕事上や人間関係のトラブルで一人で炎上している夫と一緒になって炎上することは、まずない。ただ、私なりの視点を、炎上していない側からそっと吹き込む。
逆に、落ち込みはじめると底なしの私の場合も同じで、私の落ち込みの原因は、彼にとっては全く原因にはならない。よって、一緒に落ち込むことはまずない。どうして落ち込んでいるのか説明しているうちに、真逆な夫の考え方に、落ち込んでいるのすら馬鹿らしくなって、心の棘がいつの間にか丸く柔らかくなっていく。
お互いがそれぞれの消火器や柔軟剤のようになって熱を冷まし、棘を無くす。こうして、また、少しずつ、いつもの生活に軌道を戻していくことができる。
子育てについても同じだ。10点満点の9点を褒める私と、取れなかった1点を追求させる夫。それぞれの考え方があって、お互いが理解を深めていく。どれだけ意見や過程が違っていても最終的に納得できるのは、相手の子どもに対する愛情がしっかりと感じられるからに他ならない。
長女が産まれた頃、スペイン各地のレストランを周ってグルメ記事を書くという願ってもないオファーをいただいた。一番の理解者としてフォローを期待していた夫の言葉は「何が一番大切なのかを考えろ」だった。
育児に対する他からのフォローが夫から以外は全くなかったあの時、自我を通し、幼い二人を残して各地での仕事を選択していたなら、今の家族の笑顔はなかったかもしれないし、次男を授かっていなかった可能性もある。考えただけでも恐ろしい。夢を追うのは素晴らしい。でも、守らないといけない物があることを忘れてはいけない。
「性格の不一致」が離婚の原因の上位に挙がる。幸い、私たち夫婦にとって、性格の不一致があるからこそ、一致しない部分が自分たちそれぞれに不足している部分になっている。
スペインでは、運命の糸で結ばれた相手を、半分に切ったオレンジ『メディア・ナランハ』と言う。私の片割れのオレンジはきっと、味わいも形も大きさも色だって違う。それでも、双方を合わせると、どんなオレンジにも負けないくらいに絶品のオレンジになる。そうありたい。
◇
2020年1月13日。25回目の結婚記念日。
一緒に市の消費者センターまで、携帯電話会社に対するクレームを入れに行った。バーゲンで安くなった3枚1セットの夫用パンツを買った。車の調子が悪くて整備工場に修理に出した。夫の大好きな海老を焼き、私のお気に入りの白ワインをあけた。小さなレモンムースのケーキに子どもたちが『25』の蝋燭を立ててくれた。
結婚式も挙げていない二人。ごく普通に流れていく日々にこそ幸せを感じる。今日もまた、何事もなく一緒に一日を終える。
最近、夫はイビキがひどい。下手に起こして完全に目を覚めさせてしまうと朝まで眠れなくなってしまう。イビキがおさまるように、夫を指で突っついてみる。背中をカリカリと掻いてみる。伸びをしたふりをして蹴飛ばしてみる。手を繋いで指を絡めてみる。背中側からデップリとしたお腹をかかえてみる。ようやく寝返り、リズムを崩したせいでイビキが少し小さくなった夫は、私を抱えてまた寝息を立てはじめる。
明日の朝、夫が淹れてくれるコーヒーの香りと共に、また新しい普通の日が始まる。
ありがとう。
私を選んでくれてありがとう。
時間がかかったけれど、やっと言えるようになりました。
あなたことを愛しています。
愛すること、愛されることの大切さ
愛は育むものだと教えてくれたのはあなたです。
次の25年も一緒に幸せになりましょう。