とある南欧の町のコロナウイルス・クロニクル

 私の住む南欧の町では、コロナウイルス対策で、3ヵ月近く、ほぼ全面的に外出が禁じられた。薬や食料品の購入、犬の散歩は許可されたが、人間の散歩は許されなかった。家から2キロ離れたところまで、犬も連れずに散歩に出ていた女性が市警に罰金をくらった話を、新聞で読んだ。こうなると犬も忙しい。犬を飼わない近所の人から頼まれて、一日に何度も外に連れ出された犬たちも疲れただろう。

 誰もがイライラしていた。ただでさえ、南欧の人たちは、家に閉じ込められることに慣れていないのだ。一日の多くの時間を通りで過ごすのが習慣なのだから、私が想像する以上に、彼らのストレスは大きかったと思う。

 マンションの窓辺でスマホのカメラを構えて、通る人達を見張る動画が流行った。禁止されているジョギングをする若い女性が、通りかかったパトカーから飛び出した警官たちに押さえつけられて連行される動画や、散歩する人をバルコニーから怒鳴りつける動画がネットに溢れた。自宅で静かに過ごそうにも、時折、近所から大声の喧嘩の声が聞こえてくる。普段、一日中一緒にいるわけではない家族が、24時間閉じ込められると、ぶつかることもあるだろう。いわゆる、コロナ離婚も多かったに違いない。ただ、離婚の手続きをしようにも、役所は閉まっていたし、逆に、数か月も家に夫婦が閉じ込められた結果、出生率が上がったのではないかとも思う。

 飲食店も営業が許されず、誰もが自炊続きで、みんな料理が上手くなったはずだ。それはそれで悪くない。ただ、外にも出ず、料理で欲求不満を解消するのだから、国民全体の体重の増加は、きっと後に統計で確認すれば、明らかな変化が見えるはずだ。そんな中、友人たちと話す(もちろん会うことはなく電話だ)と、誰もが懐かしがったのが、バル(居酒屋)のテラスで飲むワインだった。

 考えてみれば、全国のバルと教会が閉まることなど、戦争中にもなかったことなのだ(教会を懐かしむ声は聞かなかったが)。
 妙なものだと思う。バルで出される安物のハウスワインを5杯飲む値段で、上質のワインをデパートで1本(6杯から7杯分)買える。バルで飲むのは、どう考えても経済効率が悪い。

 それでも友人たちは、テラスの席に座る時が来ることを渇望した。タパス(無料のお通し)が出ることも、それなりの理由であったに違いないが、無料のお通しなど、たいしたものは期待できない。

 先週、遂に、バルのテラスが許可された。法律で半分のキャパしか許されないところに、3ヵ月近い欲求不満を抱えた全市民が押し寄せ、テラスの席に座るための、長蛇の列が、各店にできた。これでは、飲んでいる間も、列に並んで待つ人たちの視線が、早く席を立てとばかりに突き刺さるに違いない。そうまでして、テラスで飲みたいのだろうか。近所のバルの横を通っても、長い列を見た私は、テラスの行列を横目で見ながら通り過ぎた。

 今週からは、もう少し規制が緩和されて、テラスのキャパを広げて良いことになった。これなら、のんびりテラスに座れる。昨日の午後、私も友人に誘われて、近所のバルに行くことになった。

 初夏の陽射しは強い。テラスで日蔭の席を探して、馴染みのウエイターのホセに、白ワインを2杯注文する。ホセも3ヵ月ぶりに仕事に戻れたのだ。以前より、きびきび動きながら、「久しぶりだな!」と、満面の笑顔で注文を取った。彼は運がいい。店内の営業も制限されているので、半分以上のウエイターは、まだ失業中なのだ。この店はタパスが選べるので、白身の魚のフライを注文する。

 ワインがテーブルに着くまで、久しぶりに会った友人と雑談を続けた。早くワインを持ってこいなんて思っても、ここでは何もかもがゆっくりだから、待つしかない。私のくだらない冗談に、友人の目元が緩む。ああ、この人は、こんな表情で笑うのだったなと思い出す。

 ようやくホセが、冷えた白ワインのグラスと揚げたての白身の魚を、自慢気に持ってきた。グラスの表面に白く付いた水滴に、午後の陽射しが反射する。一口飲む。ワインが喉を冷やしながら、滑り落ちる。カリッと揚がった魚は、噛むと熱く、中はフワフワだ。無料のタパスってやつも悪くないって思い始めた。

 それにしても、この国の人たちは声が大きい。静かな住宅街の一角にある、この店の周りだけ、賑やかに声が響いている。その声に釣られてか、通りかかった人たちが、順に席を埋めて行く。

 近所のお婆さんが、孫娘のソフィアと隣のテーブルに座った。10歳のソフィアが、大人びた表情で、こちらにニッコリ微笑む。彼女は、いつの間にか、大きくなっていた。この年齢の3ヶ月は長いのだなと思いながら、笑顔を返す。 

 心地よい喧騒に包まれながら、「ワインなど、家で飲んだ方がいい」と思っていたことを、私はもう恥じていた。誰もが恋い焦がれていたのは、この空間で繋がり合うことだったのだ。その豊かさに、こうなってみるまで、私は気付かなかった。

 そう言えば、全国民が家に閉じ込められている間、毎日欠かせない行事になっていたのは、午後8時に窓辺に立ち、医療従事者への感謝の拍手をすることだった。

 思えば、あれも、繋がり合う、その空間を共有する大事な時間だったのだ。欲求不満から、全土で暴動が起きずに済んだのは、お互いに顔を見ながら拍手する、あの時間があったからだろう。

 誰もが外に出られるようになると、午後8時の拍手もいつの間にか消えてしまった。医療従事者の、日々の大変な戦いがなくなったわけでもないのに。それもまた、この国らしい。

 私は、このささやかで大きな豊かさを、もっとゆっくり味わえるよう、もう一杯白ワインを注文した。次のタパスは、何にしようか?