その土地を生きる
先日、焼鳥屋さんを訪れたところ、コロナ禍以来久しぶり、しかも見た目もだいぶ変わったわたしのことを店長が覚えていたようで、よく日本酒頼まれてましたよね~、などと声をかけられました。コロナ禍以前も大した客ではなかったのにこれは商売人やなぁと思いつつ、特に悪い気はしませんでした。
転職を機に今の土地に越してきて、そこそこの時間が経ちました。実家を独立して最初に住んだ土地にもそれなりに思い入れがありましたが、年齢のせいか経過年月のせいか、今の土地に対するそれは少し違う感じがします。
金曜の夜なのに自分以外に客のいなかったイタ飯屋は今でも続いているし、行きつけのうどん屋は閉めてしまったけど跡地によい居酒屋が出来て、そこも時々通うお店になりました。少し足を延ばすと大きな都市公園があって、その先にはまったりするのにちょうどいい喫茶店があります。ちょっと高いけど夜遅くまでやっていて、フレンチプレスで洒落たコーヒーを出すのがいいんですよね。別の方向には、巨大なマンション群に囲まれた原っぱがあり、天気のいい日はおじさん達がベンチで将棋を指しています。角のマックの裏はいつも吐瀉物のにおいがして、夏にはゴキブリ、春秋にはカメムシと遭遇して、というのも含めてわたしの日常の景色です。好きかと言われればそうでもないのですが、その土地に生きている現実感réalitéというかなんというか、どこそこに何々があるみたいな確認というか、わたしが存在している感覚というのは少なからず場所に依拠しているのだなぁとしみじみ思います。
住み慣れた土地、元いた土地に帰る、というのは精神科の退院支援におけるスローガンですけれど、それは支援する側が勝手に言っているわけでは必ずしもなくて、「慣れ親しんだ土地に帰りたい」という当事者の方の実際のニーズとして聞くことができます。住替えの話でも、あまり遠くに移りたくないよ、という話もこれまた聞くことができます。
支援の文脈を離れても、何でそんなに不便なところに?と首を傾げたくなるような土地に長く住み続けている人たちがいて、その意図するところが都市の人にはあまりにも共感されない(政策としてどうすべきか、という手前の話ですよ)のだということが能登の件で明らかになりましたね。
そういう要望について、今まであまり深く考えてこなかったのですが、最近になってようやく「なんか、わかるかも」と感じるようになりました。その人の知識や経験、感覚が、それらを獲得してきた場と分かちがたく結びついていて、少なくとも幾分かはその人の意味世界を構成する要素になっているのですよね、きっと。そしておそらく、知らない土地に住むというのは、チューニングするのにそれなりにコストのかかることなのでしょう。
とはいえ、そういう極めて主観的な感覚を社会政策にどこまで反映させるべきか、権利として実装すべきか、となるとまた別の問題です。実際に、元いた土地に戻るという政策目標が「前住所地の自治体に帰来先を設定する」という形で実装された結果、かえって希望する土地への帰住を阻害する結果をもたらす例もありますし。また、わたしの原家族(片方)なんかがそうですが、生まれ育った土地のしがらみを振り切って生きてきたと自認する人には、元いた土地への帰属意識はあまり共感されないかもしれません。ノマド的な生き方の人もそうです。選べるのがいいよね、というのは大筋ではそうですが、特定の選好だけを政策的に優遇する正当性を問われれば、わたしの頭ではなんとも言えません。
ただ、現業員としては、政策課題とはパラレルに、実際の支援局面でそういうニーズを聞き取ったときに、今までよりもう少しその気持ちに共感できそうな気がします。上に書いたような個人的な気づきは最終的に、「住み慣れた土地に住みたい」ニーズを実現しようとするわたしの原動力になるのかも知れません。