外務省へ入省
仙台の専門学校を卒業し、2008年に外務省へと歩を進めた私は、総務課に配属された。しかし、職場の空気は私には重く、先輩たちから「仕事ができないやつ」「使えないやつ」と揶揄される日々が続いた。気づけば精神的にも追い詰められていたが、それでも何とか職場に足を運び続けられたのは、当時交際していた女性からの一言のおかげだった。「私の前では泣いてもいいよ」と、優しく囁かれたその言葉が、私の心を支えていた。
三年目には条約課編集室へと異動したが、そこは「左遷先」とも囁かれる場所で、業務はごくわずかだった。毎日のように時間を持て余し、むしろその暇が耐えがたくなっていた。そんな時期、職場で結婚を考えるような女性と出会った。彼女との時間や未来への思いを糧にしながら、私は資産運用や投資について学び始めた。
五年目、海外赴任の機会が巡ってきたが、私はそれを辞退し、旅券課へと配属された。外務省において、海外赴任をしない者はごく少数派であり、その選択は周囲からの視線を一層冷たくする結果となった。そんな中、姉の誘いを受けて始めたネットワークビジネスに足を踏み入れたことで、自分の人生を改めて見つめ直す契機となった。
とはいえ、ネットワークビジネスに対しても心の底では違和感を感じていた。だが、その違和感を口にすることはできず、周囲の言葉に従うまま、自己購入を続けた結果、貯金は底をついてしまった。「これ以上は続けられない」と、私はそのビジネスから離脱することを決意した。
その間に出会った多くの人々の中で、同い年のある男性は特に印象深かった。彼は、ネットワークビジネスや他の様々な事業について広範な知識を持ち、私に新たな視点を与えてくれた。彼に誘われるまま参加した海外金融仲介会社のイベントが、私にとって新たな転機となった。そして、25歳の秋、私は外務省を退職し、独立事業主として新たな活動を開始することとなった。日中は生命保険のテレアポのアルバイト、夜は海外金融仲介のアポイントメントの活動に明け暮れる日々が始まった。
この道の先に、何が待ち受けているのか―それはまだ分からない。
しかし、自らの選択に責任を持ち、一歩一歩進んでいくしかないのだろう。
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