小説【アコースティック・ブルー】Track10: アコースティック・ブルー
日が落ちて店の看板に明かりが灯る。暖色の温かいランプの下で、雰囲気のいいジャズやボサノバを生バンドの演奏で聞きながら旨い酒や料理を気の合う仲間達と味わう。そして時折、懐かしい有名人が顔を出す。そんなBar Tom&Collinsは今日も沢山の客で賑わっていた。
カウンター席には珍しく元Mor:c;waraメンバーのICHIROUが掛けていた。普段SEIICHIの姿を見慣れている客達もICHIROUの来店には驚いてソワソワしている様子だった。
「大人気じゃんイチロウ君。まだまだイケるね」
店内の客達の視線を集める海老名にケンジが楽しそうに訊ねる。
「なんだか落ち着かないな。もう俺はミュージシャンでもないんだから、静かに飲ませてもらいたいんだが」
「よく言うよ、嬉しいくせに」
ケンジが茶化すようにそう言うと海老名は照れ臭そうにしてビールを啜った。
「それより、セイイチがなんかやらかすって言ってたけど、なに企んでんの?」
不審そうに問いかける海老名に大してケンジは無言でニコニコするだけだった。そんなケンジの反応に海老名が不気味さを感じていると、そこにセイイチが合流して海老名の肩を叩いた。
「よぉ、来たな」
「いったい何する気だ?あんまり面倒起こすなよ」
「まぁ、見てろよ。すぐにわかる」
セイイチがそう言うと見計らったようなタイミングで生バンドの演奏が終了した。ベテランバンドの演奏に対して大きな拍手が送られ、慣れた様子で彼らがそれに応えるとそのままステージを後にする。
ステージ上からバンドの姿が消えると、酒や料理を注文するタイミングを待っていた客達から店員を呼ぶ声が一斉に上がった。カウンターに近い席の客は席を離れてケンジに直接酒のオーダーをするために集まってくる。
店内が俄にざわつき始めステージに注目する客が誰一人いなくなると、ステージ上に店のスタッフがひとり現れた。アナウンスを始めるためにマイクのスイッチを入れるとその瞬間、マイクがハウリングを起こして嫌なノイズがスピーカーから吐き出され、店内の全員がその不愉快な音の発生源へ目を向ける。緊張に笑顔をひきつらせた土井が、客達から向けられる抗議の視線を一身に浴びて硬直していた。
音響ブースで機材を監督しているKが大慌てで、音量の調整をしている様子がカウンターから見える。
「……本日はぁ、バートムコリンズにお越し頂きぃ、ありがとうございますぅ」
いつものようにんびりとした調子で始めたものの、表情はお説教を恐れる子供のように強ばっている。
「いつもならぁ、ここで終わりなんですがぁ~
今日はぁもうおひと方、皆さんに紹介したいシンガーがいますぅ~」
明らかに不馴れな演説に幾人かの客から小さな笑い声が聞こえた。当の本人はそんな客の様子にはまるで気づかず、与えられた任務を最後まで全うしようと必死になっているのがカウンターから見ているセイイチ達にも解った。
客の注目を集めることには成功したが、土井の間の抜けたアナウンスを聞いてセイイチが「あいつ……っ!」と呆れて呟く。
「本番前に散々打ち合わせしたのに、なんとかなんねぇのかあの喋り方?」
次に何を言うのか忘れてしまったのか土井が目を泳がせて突っ立ているので、セイイチがカウンター席から腹立たし気に大きな身振りで指示を出すと、ハッとしたように目を見開いてそのままステージ脇に目を向けた。ギクシャクと片手を差し出して演者を招き入れる。
「美しい声を持つシンガーのユウコです!」
土井の紹介でユウコがステージに上がると、客席からパラパラと拍手が起こり、ステージに興味を引き戻された幾人かが再び席に着いた。ユウコがステージに現れたのを見てセイイチは苛立っているのかホッとしているのか「ふぅ~」と大きく息を吐く。 マイクの高さや自分の立ち位置を何度も確認するユウコの仕草から緊張している様子が読み取れるものの、その眼にはどこか期待に胸を膨らませているようなウキウキした光が灯っているのも垣間見えた。肩からはあの古いアコースティックギターが提げられている。
「なんだか素人くさい子が出てきたなー」
海老名がステージのユウコを見ながらそう言うとセイイチが「だからいいんじゃねぇか」と肩を小突いてそのままステージに向かった。それを見てケンジが「おれもー!」と楽しげにその後を追う。カウンターに一人取り残された形となった海老名は「えっ、なに?」と戸惑いながら、ステージに走っていく二人の背中を見送った。
ユウコの後ろにセイイチとケンジが現れてセッティングを始めると、ステージ上にかつてのMor:c;wara メンバー二人が現れたことで、既にステージに対して興味を失っていた客達が再び意識を向け始めた。
「Mor:c;wara 再結成か?」「ボーカルは女か?」そんな囁きが観客の中から聞こえてきて、不安を煽られているように感じたユウコは肩を強張らせた。気持ちを落ち着かせようと胸に手を置いて深呼吸を繰り返していると、その様子に気づいたセイイチがユウコの背中を軽く押す。
「あいつにも聞かせてやれ」
人差し指を立てて頭上を指さすセイイチ。
指し示されたその先のずっと遠くに懐かしい友人の面影が浮かび、最後に会った夜、ライヴハウスで見せてくれたあの人懐っこい猫のような笑顔をユウコは思い出した。今も店のどこかで見てくれているかもしれないと思うと何だか心強い。
不意に温かい安心感が生まれ、スッと肩の荷が降りたような気がして、セイイチの気遣いにユウコは感謝しながら落ち着いた表情で頷いた。
土井が何故かまだステージの端にボーっと突っ立ているので、慌ててKがブースから片手を突き出して袖を引っ張った。切れかけたゼンマイが回りだしたように、急に我に返ると、土井がようやくステージを下りて行き、演奏の準備が整った。
不思議な緊張感がステージ上の三人を包み込み、ステージに注目している観客達も彼らの動向をじっと見つめて、息を飲む音が聞こえてきそうなほど張りつめていた。
深く息をつきユウコが他の二人と目を合わせて合図する。セイイチとケンジが各々頷いたのを確認してから、音響ブースで待機していたKに視線で合図を送るとステージを照らすライトが暗くなった。
二年ぶりのステージなのに不思議と心は落ち着き、肌の表面に残るライトの熱にユウコは懐かしい温かさを感じていた。フレットに指を滑らせてアコースティックギターのスチール弦がキュッと小気味の良い音を立てるのを聞いて、またこの場所に戻ってきたんだと実感する。
導火線に火を点ける瞬間を店内の誰もが待ち望んでいるのを感じながら、最初のコードの形に軽くフレットを押さえると、心臓の鼓動を感じるほど指先が脈打っているのが解った。胸の高鳴りをカウント代わりにして、ユウコがギターを奏で始める。
イントロは静かな立ち上がりで、アコースティックギターの柔らかな音色が優しく深く響き、店内の観客達の間に浸透しながら落ち着いた温かさを生み出していった。
曲のテンポに合わせてユウコを照らすスポットライトの光がとてもゆっくりと照度を増していく。マイクを通して折り重なった弦の余韻が厚みを増してくると、ユウコのギターを後押しするように息のピッタリ合ったベースとドラムが演奏に加わった。
緩やかなテンポに鋭く響くビートが絶妙なグルーヴを構築し始め、力強いスローロックが空気を震わせる。三人の演奏を聞く観客達の眼差しも、次第に期待の熱を帯びていくのが解る。
イントロの終わりとともに美しく調和された楽器のハーモニーがほんの束の間のブレイクに心地よく響き、演奏に集中していたユウコが僅かな緊張感を滲ませながら真剣な眼差しを客席に向けると小さなブレスがマイクを通して伝わった。
――次の瞬間、空気と共鳴するような驚くほど透き通る美しい歌声が店内に響き渡る。
優しく繊細でいて力強いその圧倒的な歌声に観客の誰もが息を飲み、ステージ上の一人のシンガーの姿に釘付けになる。
聞き耳を立てながらも店員への注文に意識を向けていた客やそれに応対するスタッフ達、仲間と談笑していた客もステージに興味を失っていた客も皆、時間が止まったようにユウコの歌声に聞き入り、店内にいる人間全員が一様にその歌声の美しさに驚愕してユウコに注目した。そしてそれはカウンターからただ何気なく彼らの演奏を聞いていただけの海老名も同じだった。
ユウコの圧倒的な才能に驚き、無意識にカウンター席から立ち上がってステージの演奏に聞き入っている。そして同時にセイイチがついに彼女を見つけたのだと気づいて嬉しくなり、「本当にやりやがった」と思わず言葉が漏れた。
海老名は目の前で繰り広げられているパフォーマンスに魅了され、かつてその場所に自分がいた時の情熱が沸々と胸の奥に沸き起こるのを感じながら、Mor:c;waraのギタリストだった頃の本当の自分を思い出していた。
バンドの解散は望んだものではなかった。やり残したこともたくさんある。それでも会社を守るという選択をしたのは、セイイチを信じたからたっだ。その選択はどうやら間違っていなかった。
ステージの上で心から楽しそうに演奏しているセイイチの姿を見て、悔しさに似た感情が沸き起こると、ずっと封じ込めてきた衝動が自分の内側で爆発するのを海老名は確かに感じた。
セイイチはバンドの解散以来久しぶりに立つステージに興奮していた。弟の見つけた唯一無二の才能に触れ、長らく忘れていた音楽の感動に魂が打ち震える。
弟が最後に残してくれた特別な贈り物を間近に感じながら、ずっと探し続けてきた答えにようやくたどり着けたことをハッキリと実感した。
ユウコとの出会いは単なる偶然だったのだろうか?
もっと早く気づいてやるべきだったと悔やむ気持ちがある一方で、この失われた二年間は自分にとって大きな意味のある時間だったのだとセイイチは考える。タスクが二人を引き合わせたのだとセイイチは強く信じた。
2コーラスが終了して録音データでは失われていた空白の部分に差し掛かると、突然エレキギターの轟音が鳴り響き三人が驚いて顔を上げた。
海老名が展示用のエレキギターを持ち出してバンドに加わり、力強い波動を放つ三人のグルーヴに更に迫力が加わった。
ロックバラードの緩やかなメロディーとユウコの歌声にうっとりと感動しながら肩を揺らしていた観客達が海老名の登場によって急に色めき立ち、弾かれたように歓声が上がる。熱風が吹き付けるような圧力がステージ上に押し寄せ、圧縮されていた何かが破裂したような熱狂に店内が包まれた。
実現しなかったツアーのラストステージが二年の時を経て今ここで幕が上がる そんな感覚に捕らわれ、Mor:c;waraで行った何百というステージの記憶が蘇るセイイチ。
二年間表舞台から遠ざかっていたのに、楽器を持つ感覚はみんな身体に染み付いて離れないらしい。あの頃と何も変わらない仲間達の姿と、何も変わらない音がそこにはあった。そして目の前で観客達に叫び続けるユウコの背中を見て、その後ろ姿にTASKの影が重なるのをセイイチはハッキリと見た。
弟の亡霊に誓った、不可能だと思われた約束が遂に実現したのだとその瞬間確信したセイイチは、ずっと胸に抱えていた罪悪感が晴れていくのを感じた。
ユウコは必死に声を張り上げながら、どこかで聞いているかもしれないもう一人の観客にも届くように精一杯の演奏を続ける。
あの日以来、歌うことを辞めてしまったこの二年間を悔いるように、歌うことの喜びに心から感動し、再び希望を与えてくれたセイイチに感謝した。そしてもう二度と会えないと思っていた古い友人が今も自分の胸の中に生き続けていたのだと気づいて、もう二度と振り返ることは無いと信じることが出来た。
運命に導いてくれたタスクとこの曲の存在を何よりも愛おしく感じながら、ユウコは彼にも届け!と心の中で叫ぶ。
最高のステージはあっという間に幕切れを迎え、高揚感と達成感に放心したメンバー達はしばらくの間ステージ上に立ち尽していた。ユウコの歌声に誰もが恍惚とした表情を浮かべながらも、失われたバンドの復活を目撃した観客達の熱狂で、セイイチ達でさえかつて体験したことがないほどの高揚感が店の中を満たしている。
楽器の余韻がまだアンプから小さな音色を発し続けているが、演奏が終わった瞬間から店内ははち切れそうな緊張感に包まれて静まり返っていた。
観客達の反応を見るのが怖い。メンバー達が恐る恐る顔を上げて観客席を覗き込むと、火が付いたように大歓声が上がり、店内の観客全員から称賛の声が上がった。メンバー達が顔を見合わせて嬉しそうに笑い合う。
セイイチとイチロウが拳をぶつけ合い、そこにケンジが飛び込んで彼らと肩を組む。そのまま三人がユウコの周りに集まって彼女の手を高々と掲げると、観客からさらに大きな拍手が起こった。まるでMor:c;waraが復活したかのようなその場面に自分が居合わせていることが信じられないユウコは、嬉しさに目を潤ませて笑顔で手を振り、かつての恋人の姿を胸に描いて心の中でありがとうと叫んだ。隣に立つセイイチが清々しい表情でユウコを見据えて満足そうに肩を叩く。
「ありがとう。
君のおかげで俺もようやく先に進めそうだ」
屈託なく微笑むセイイチにタスクが重なって見え、懐かしい恋人の笑顔に再会できたようでユウコは温かい涙を流した。
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