想田和弘監督 - 観察する ドキュメンタリの手法
想田和弘監督がフランスの映画祭のグランプリ取ったと言うニュース見た。フィルム・ヴェリテの監督が好きだ。
ドキュメンタリーのスタイルにはざっくりこんな種類がある
1. Verite
2. Re-enactment
3. Talking head
4. Expository
5. Performative/participatory
6. Reflexive
7. Impressionistic
8. Experimental
もちろん一つだけでなく、一つの映画にいくつかの手法が組み合わされる。
「観察映画」はヴェリテ・スタイルを拡張し「十戒」と言う形で、スタイルや編集や制作までやらないことを決めている。十戒については監督のWEBサイトで詳しく説明されている。
なぜそのスタイルなのか。なぜ日本のテレビは海外向けのドキュメンタリ含めて、そうではないのか。
テレビ・ドキュメンタリーでは、ナレーションでなんでも状況を説明するのがスタンダードです。のみならず、悲しい場面には悲しい音楽を流したりして、感情を盛り上げたりする。そうすることによって、視聴者の感じ方・考え方を一方向へ誘導していくわけです。テレビを眺めていると、その傾向は最近、どんどん強まっていると思います。僕がいた現場では「中学生にも分かるように」が合言葉でした。
でも僕は、そういうやり方はすごくもったいないと思いました。作り手がなんでも懇切丁寧に説明すればするほど、それを受け取る観客側は、どんどん受け身になってしまうからです。
視聴者は与えられる情報を単に消費するだけになってしまう。作り手が供給者で、観る人は消費者。僕はそういう関係を、作り手と視聴者がもっと対等な立場に立って対峙できるような関係に変えたかったんですね。
- 観察 「生きる」という謎を解く鍵 アルボムッレ・スマナサーラ / 想田和弘
想田和弘監督の観察映画はもっともNHK的でないドキュメンタリと言う。
海外の優れたドキュメンタリはもうこのスタイルのドキュメンタリはほぼ見ることがなくなった。
「観察映画」を作り始める前は、主にNHKのドキュメンタリ番組を作っていました。実はこの「十戒」は、テレビ・ドキュメンタリーの作り方に不満や反発があって、その真逆の作り方をしようと思ったのです。
と言うのも、ドキュメンタリーの作り手は、よく見てよく聴くことこそが仕事であるはずなのに、よく観ず、よく聞かないで番組を作っている感覚が強くありました。
たとえば、テレビ・ドキュメンタリーを作る現場では、まず始めに取材するテーマについて入念なリサーチをします。被写体候補の人を見つけたら実際に会いに行き、カメラを回さずに事前取材をします。
その結果「こういうシーンが撮れる」「こういうシーンは撮れない」ということが分かるので、その情報をもとに台本を書きます。
台本は起承転結で構成し、ナレーション案も含めて綿密に書きます。ひどいケースになると、誰がどこでどういうコメントを言うなどといった、想定上の問答まで書き込みます。もちろん結論も決めます。
この台本をプロデューサーが納得するまで何度も書き変えて、ようやくGOサインをもらう。それではじめて撮影に行くことができるんです。
僕は、こういったプロセスに多くの弊害を感じていました。まず、このプロセスを踏むと、僕自身の意識が台本に縛られてしまいます。あらかじめ「こんなふうに展開する番組像」というのが頭の中に作られているので、目の前の現実をよく観てよく聴くことよりも、台本に合わせて現実を切り取ろうとしてしまう。
ドキュメンタリーですから、実際に撮ってみると自分の台本に合わないことばかりが起きるのですが、それを撮るのを戸惑ってしまう。台本に反するような現実を撮ってしまうと、あとで収拾がつかなくなる可能性が出てくるので、見て見ぬふりをしたくなるわけです。あるいは最初から「こういうものを撮るぞ」と思って現場に入るので、その角度からしか現実を見ることができなくなり、ほかのことに気づきにくくなったりします。
こういう、目の前の現実よりも自分の都合を優先するドキュメンタリーの作り方が、僕には不満でした。ドキュメンタリーとは本来、現実から何かを学ぶための営みであるはずなのに、これでは学ぶことが難しくなってしまう。そして作品が、もともと自分の頭の中にあったプランに合わせて現実を切り取るだけの、月並みなものになってしまう。
- 観察 「生きる」という謎を解く鍵 アルボムッレ・スマナサーラ / 想田和弘