【サーフィン小説】ビジタリズム|第4話
4ラウンド目 マエノリくん、本領発揮
ゆるいオフショアが、力丸の頬を撫でている。
風の影響を全く受けなていない海面は、今や完全に水平線の上まで昇った太陽の光を乱反射させながら、まるでとろりとしたオイルのようにパドルする力丸の腕に絡みつく。
(この辺りかな)
ブレイクポイントと思われる場所まで、ほとんどドルフィンすることはない。そして辿り着くや否や、アウトに蜃気楼のような美しいウネリの盛り上がりが出現する。
その盛り上がりは、岸へ近づくにつれて徐々にソリッドな塊へと姿を変え、陽光が迫り上がったフェイスに暗い影を落とし始める。
ある地点で砕け始めた波のショルダーは、まるで規則正しいマスゲームを見ているかのように、インサイドに向かって捲れ上がっては白い飛沫にその姿を変えていく。
ムネカタ、セットは頭。垂涎もの、とはこのコンディションのことだろう。もしかしたらこれは、力丸の短いサーフィン人生の中でも最高かもしれない。
南端の岩場からブレイクする波には、時として小ぶりながらチューブさえ出現していた。もちろん、そのピークには万里ローカルと思しきサーファーが数人張り付いていて、今の力丸には近づける気もしないのだけれど。
「ヤバい、これもうロウワーズでしょ!」
すでに何本目かの波をインサイドまで乗り切った和虎が、これ以上ない満面の笑みを浮かべてピークへとパドルバックしてくる。
確かに、この万里浜の波は、未だ動画でしか見たことがない憧れのサーフスポット、“スケートパーク”の異名を持つワールドサーフリーグの開催地、カリフォルニアのロウワートラッセルズを彷彿とさせるものだった。
「ね?言ったでしょ?今日は万里だって」
ピークに辿り着くなり、和虎が大袈裟なドヤ顔を作って力丸に向けた。
「うん、すげえいい波。しかも意外と空いてるし」
「ああ、みんな波情報出てるポイントしか行かないから」
「このコンディション、たまたまかな?」
「ここ、地形がかなりキマってるみたいだし、割とコンスタントにこんななんじゃないかな。思い切って来てみるもんだね」
そうなのだ。あれほど恐れていた万里浜だったが、いざ到着してみると、サーファーの数はまばらだった。これが土曜日だなんて信じられない。南端のピークはそれなりに混雑していたが、少し離れた北側にもバンクがあり、そこでラインナップしているサーファーは両手で収まる程度だった。
いつも入っている凡大浜など、首都圏週末サーファーの車が暗いうちから公営駐車場に集結し、夜明けとともに数十人が一斉にパドルアウトする。そして一瞬のうちにピークというピークは、波1本あたりのコスパをなるべくよくしようと躍起になったサーファーたちのピリついた空気が張り詰め、壮絶なパドルバトルが繰り広げられるのである。それがたとえモモコシサイズのクソ波だったとしても、だ。
それに比べて今日の万里はパラダイスだ。人数に対する波数もちょうどいい。セットの波に乗って、戻ればちょうどまたセットが入ってくる。そこには不毛なパドルバトルもない。その場にいるサーファーが暗黙の了解で順番にテイクオフしていくメローな空気が流れている。
力丸は、早くも3本目の波にテイクオフし、横へ走るだけだがそれなりのロングライドを決めた後、文字通り鼻歌混じりでパドルバックした。
(今日は俺も調子いいかも)
このコンディションなら、今日が“オフ・ザ・リップ記念日”になる可能性は、充分にある。よし、肩慣らしも済んだことだし、次の波から狙っていこう。リップに当てるために、手頃な急斜面が欲しい。
どうしてもライトの形よく張ってくるブレイクに乗りたい力丸は、気持ちが前のめりになったぶん、自分でも気がつかないうちに少しだけ、南端のピークに近づいてポジショニングしていた。
パドルをやめてボードに座った力丸の目に、アウトの海面がそそり立つ光景が飛び込んできた。かなりワイドなセットだが、力丸はちょうどいいショルダーにいる。
(ラ、ラッキー!)
ここからテイクオフすれば、波は比較的ゆっくりと割れ、それでいて確実に当て込むのにうってつけのランプが現れてくれるだろう。
力丸はノーズをインサイドへ向けた。
その時、視界の左端に、パドルするサーファーの姿が映った。
(——女の子?)
瞬時に首を振ってピーク側を確認すると、いつの間にそこにいたのだろうか、ターコイズブルーのロングスプリングを纏ったショートカットのサーファーが、力丸から10mほど離れた位置で、同じ波にゆっくりとパドルインするところだった。
このセットはかなりワイド。申し訳ないけど、あの子は潰されてしまうだろう。万が一テイクオフが成功しても、この波は抜けられない——つまり、俺がベスポジってことだ。
瞬時にそう判断した力丸は、迷うことなく水を掻いた。想定通りの動きで、波はゆっくりとダブルアップしながら力丸のボードを押し出した。
ボードが走り始める瞬間の浮遊感で、アドレナリンが沸騰し始める。
充分な加速を感じた力丸は、ボードをプッシュしながら立ち上がった。一発、二発とパンプする。覚えたばかりのアップスンダウンズでボードが加速し始めると、目の前には、どこまでも走っていけそうな長い水の壁が出現した。
スピードに乗ることによって、流動しているはずの海水がストップモーションのように固定され出現するロングウォール。サーファーにしか見ることができない光景だ。
目の前に広がる桃源郷に、力丸の高揚感はまさに最高潮を迎えようとしていた——
「ヘイヘイヘイヘイ!!!」
その時背後から響いた、甲高く、それでいて鋭い怒声が、力丸を瞬時に現実世界へと引き戻した。
反射的に振り返ると、猛然とアップスンダウンズで近づいてくる、憤怒の形相を浮かべた少女の姿が目に飛び込んできた。
(あ、あのワイドなセクションを抜けてきたのか?)
怒りの炎を宿した黒目がちな目が力丸を射抜く。
(ヤベっ、プルアウト……!)
狼狽えた次の瞬間、力丸は波の斜面に叩きつけられていた。
波は、転んだ力丸をボードもろとも巻き上げると海面へと叩きつけ、そのまま海中へと引き摺り込んだ。
上下がわからなくなるほど海中で揉みくちゃにされながら、力丸は考えた。
レールが引っかかったのか?……いや、違う。転ぶ直前、俺は背中に衝撃を受けた——押されたんだ、あの子に。
力丸が海面に浮上した瞬間目にしたのは、インサイドで綺麗に打ち上がる扇形のスプレーだった。
(あ、あの子なのか?)
波はまだ続いていた。
最初のスプレーが打ち上がって約3秒後、サーフボードがすごい勢いでリップの上に飛び出し、そのまま反転したかと思うと、フィンが3本とも波から抜けるのが裏側からでも確認できた。“ブロウ・ザ・テイル”、オフ・ザ・リップの最上級みたいなワザである。
一瞬の出来事だったが、力丸の目には波の裏側から昇った太陽が焼きついた。それは、少女のボードのボトムに描かれたグラフィックだった。
(な、何者!?)
まだ終わりじゃなかった。
力丸は、はるかインサイドで、少女がボードもろとも空中に飛び出すのを見た。
(エアリバ……!?)
少女はボードのテールを高く上げ、綺麗なローテーションを見せた——が、ランディングには失敗したようだった。
力丸は、ミドルセクションでサーフボードに掴まり水に浮かんだまま、呆然とインサイドを見つめていた。いや、見惚れていた、と言った方が正しいかもしれない。
〜〜つづく〜〜