【サーフィン小説】ビジタリズム|第22話
22ラウンド目 症候群
2階のバルコニーからビーチへと伸びる階段を降りると、マチャド頭が、シャッターが半分開いた倉庫の入り口に手をかけてスマートフォンをいじっていた。
「あ、すみません、お待たせしちゃって」
恐縮して頭を下げると、マチャド頭は顔を上げ、力丸に向かって親指を突き出した。
「全然オッケーすよ。餃子、食べました?」
「あ、いや、まだです。後で食べようと思って」
「早くしたほうがいいすよ。オッキーさんとかが大量に買ってっちゃうすから」
「え?あ、ああ……」
(それはありえそうなことだなあ)
力丸が合点がいったように頷くのを見ると、マチャド頭は少し驚いたように目を見開いた。
「前野くん、オッキーさんのことも知ってるんすか」
「え?いや、まあ、知っているというほどのことではないんですけど……」
力丸は多くを語らなかったが、ナミノリに加えてオッキーのことまで知っているらしいという事実のせいか、その瞬間から、マチャド頭の力丸を見る目が変わった感覚があった。
しかも、彼の雇用主である鬼瓦からは仕事の発注までされているのだから、もはや単なる一見の客としては見ていないのは確実だろう。
そしてそれは同時に、もはや117シェイプスのボードをオーダーしないほうが不自然な状況へと追い込まれているとも言えた。
「そしたら、免責事項読んでもらって、ここに名前と電話番号を書いてもらっていいすか?」
力丸の目の前の紙は、体裁上、単なるデモボードの貸出票でしかないはずだったが、力丸は、それにサインすることは117シェイプスを買う契約を結ぶことと同義に思えた。しかし、それでもいいと感じているのも事実だった。
もう、心のどこかで買うことを決めている自分がいる。あとは、誰かがほんの少し背中を押してくれればいいのだ——
貸出票に必要事項を記入し終わるのを待って、マチャド頭がポケットソケットを差し出した。
「今乗ってるボード、どのぐらいボリュームあります?」
「え?ええと……」
正直なところ、自分のボードのボリュームなど覚えていなかった。ディメンションの中でちゃんと覚えているのは5'6"という長さだけだ。
「たぶん、前野くんのボードよりボリュームあるすけど、それぐらいでちょうどいいすよ。フィンはFCSすか?」
「あ、はい」
「よかった、じゃあフィンは自分の付けてもらう感じで。こいつでいい波乗っちゃってください」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたポケットソケットは、デモボードとはいえまだ新しいらしく、少し黄ばんできた力丸のマイボードと比べると輝いて見えた。
小脇に抱えると——バイアスがかかっている感は否めないが——その瞬間から驚くほどしっくりと馴染んでいるように感じられる。
力丸は、期せずして新しいボードに乗る機会を得たことに密かな興奮を覚えながらも、一方では自ら暗示をかけていることを冷静に自覚していた。このボードが悪いボードであるはずがない、という暗示である。
ともかく、いつの間にか、このボードに早く乗ってみたい、という気持ちが芽生え、2ラウンド目へのモチベーションが俄然高まっているのは紛れもない事実だ。
力丸は、ビーチからワイプアウト会員専用の駐車場へと続く階段を目指した。
と、その時。
視界の端に、ビーチでは見慣れないものが動くのを捉えた。
力丸から100mほど先、南端のピークの正面となる辺りで蠢く青っぽい塊は、紛れもなく警察官だった。
力丸はどきり、として足を止めた。あれは、十中八九、オッキーだろう。階段に足をかけたまま、オッキーらしき人物に目を凝らす。
(ビーチで何を……?)
両手に何かを持ったまま、俯き加減にビーチを徘徊するその姿に、力丸は本日二度目の衝撃を受けた。
オッキーが手にしているのは、大きなビニール袋とトングだ。そのことが意味することはただ一つ。オッキーは、たった一人で万里浜のビーチクリーンを行っている、ということだ。
これは、ある意味オッキーが警察官である、という事実よりも驚きが大きかった。
それが警察官の公務なのか、自主的な行動なのか(その場合、公務をサボっていることにはなるのだが)は不明だが、兎にも角にもオッキーは黙々と万里浜のゴミを拾ってはゴミ袋に納めていた。
その姿を10秒ほど眺めていた力丸は、ある不思議な感覚に包まれた。
(あれ、これってなんて言うんだっけ……確か、ストックホルム症候群だったかな)
凶暴だと思っていた人物の意外な一面に触れたことで、むしろその人物のことを好意的に捉えてしまう——
(いや、決していい人だなんて思ってないぞ)
力丸は首を振って自分自身を否定し、改めて階段を登った。しかし、和虎のいう通り、そんなに悪い人物ではないのかもな、と思うには充分の光景だった。
〜〜つづく〜〜