【サーフィン小説】ビジタリズム|第10話
10ラウンド目 カオス
20mほど先で砕け散った波のスープが押し寄せてくる。白波に飲み込まれそうになる直前、腕立て状態でボードのノーズを海中に沈め、続いて片足でデッキパッドを踏んでテール側を沈める。
スープが頭上を通過し、ノーズ側から波の裏側に浮上すると同時に再び必死のパドルを開始——した先で、力丸を嘲笑うように、波が再びブレイクしているのが見えた。
もう何発食らっただろうか。サイズが上がり始めたせいか、朝イチではあれほど楽だったゲティングアウトが、今や地獄の責め苦と化している。
力丸は、おそらくドルフィンスルーが上手くないのだろう。背後からパドルしてきたサーファーが次々とアウトへ遠ざかっていくというのに、自分はいつまでたっても目の前で砕け荒れ狂う白波の壁を突破できない。
今や肩と腕は鉛のように重く、もはや水を掻いても前に進んでいる実感はない。しかし、一瞬でも気を抜けば、押し寄せるスープによって一気に岸まで持っていかれてしまうだろう。
「おっと、マエノリくん、ハマってるねー」
やはり背後から音もなく近づいてきた和虎が声をかけてきた。
「ヤバいよ……もう……」
「マエノリくん、ドルフィンのタイミングが遅いよ!」
「……え?」
「潜るのが遅いから背中がスープに引っかかっちゃてるんだよ!」
和虎はとても有用なアドバイスを送ってくれているのは間違いない——のだが、今は和虎に返事する余裕などなかった。何しろ“オマエがアウトに出る資格はない”と言わんばかりの勢いで、立て続けに目の前で波がブレイクしているのだ。
もはやボードを沈める筋力すら尽きかけている腕で、なんとか海中へ身を沈めるが、崩れた波に捲りあげられてバランスを崩す。そしてようやくパドルできる体勢を作り直したところで前方を見ると、先程まで背後にいた和虎はすでにスープのボーダーラインを越えたところで悠々と水を掻いていた。
和虎は決して筋骨隆々なタイプではない。いや、むしろ力丸よりも細身なぐらいだというのに、このパワーのある波を物ともせず飄々とアウトへ出ていけてしまう。ゲットアウトに重要なのは筋力ではない、ということだろう。
(クソ、なんであんなに余裕なんだ?何が俺と違うんだ?)
確か和虎は、力丸ドルフィンスルーのタイミングが遅いと言っていた。それなら——
ちょうど眼前にブレイクした波が迫ってくるところだった。力丸は、いつもよりも2拍ほど早いタイミングでボードを沈めた。
いつも背中に感じる衝撃の代わりに、ぬるん、という感触が通り抜け、力丸はすっぽりと波の裏側に浮上した。
(こ、これかあ……!)
一度、スープをスムーズにやり過ごしてしまうと、これまでの苦労が嘘のように、次の波がやってくるまでの時間に余裕が生まれた。
しかし、ここで気を抜くわけには行かない。力丸は最後の力を振り絞って、サーファーたちがラインナップしているラインを目指した。いや、ここでオバケセットなんか食らったら気持ちが折れてしまうだろうから、目指すのはさらにアウトにするべきだろう。
波待ち中はあんなに待ち遠しいセットが来ないことを心の底から祈りながら、力丸はパドルを続けた。
海面からスープの残滓が消えると同時に、水の色が濃くなっていく。
(よ、よし、ここまで来ればもう大丈夫……)
ついにアウトへ出ることに成功した力丸は、ようやくパドルを止めることができる安心感に包まれながらボードに腰掛けた。
ふと顔を上げると、さらにアウトで波待ちしているロングボーダーが目に入った。
(女性……?)
ロングボーダーは、腰まで届きそうな濡れた長い黒髪をまとめることなく垂らしたままの女性だった。力丸は、その波待ちの姿に奇妙な違和感を覚えた。
女性は、ボードの上で胡座をかいていたのだ。
(そ、そんな待ち方する人いる……?)
そもそも今日これまでの間、ここ万里にロングボーダーの姿はなかったから、その独特な波待ち姿は余計に目立っていた。
しかも女性は、まるで力丸のことを迎え入れるかのようにインサイドを向いている。
(この人、波に乗る気があるのかな?)
力丸にそのつもりはなかったが、こちらを向いている女性と、成り行きで目が合ってしまった……いや、これはおそらく女性が故意に視線を合わせてきている。
案の定、女性はボードに胡座をかいたまま両手で軽く水面を掻いて力丸の方へ近づいてきた。
「お兄さん、ここから出てきたか。ずいぶん頑張る」
——イントネーションが、違った。
(中国人……?)
女性の釣り上がっていながら大きな瞳は、その喋り方と相まって、彼女が中国人であることを力丸に確信させた。
「カレントつかわない、大変ね。ムダなパドルでチカラいっぱいつかうヨ」
「え?……あ、はい」
やっとゲットアウトに成功したと思ったそばから、あまりに予想の斜め上を行くキャラクターの登場に、もはや頭が付いていかず、力丸は間抜けな受け答えしかできなかった。
しかし、女性はお構いなしに喋り続けた。
「お兄さん、見たことない顔ね。万里はじめてか?」
「え?……あ、はい」
「カレントつかう、もっと楽ね。今日は、カレントもう少しあっちよ」
女性は北側を指さした。そこは、奇しくも和虎が通ったラインと一致しているように見えた。
(な、何者なんだ?この人……)
「お兄さん、パドルいっぱい。背中と肩、疲れたまるないか?特に、肩甲骨のまわり」
「え?……あ、はい」
力丸は、自分が3回とも全く同じ間抜けな受け答えしかしていないことに気がついた。彼女に何か質問しようと思考を巡らせたが、この場に相応しい会話の糸口がなんなのか、皆目見当が付かなかった。
その間に、女性はさらに力丸に近づいてきた。
(ちゅ、春麗みたいだな)
力丸は、自分の上司が好きだという格闘ゲームのキャラクターを思い出した。上司は年甲斐もなく春麗のフィギュアをデスクに飾っている。
目の前の女性が着ているのはチャイナドレスではなく青が基調のロングスプリングだったし、髪も結んではいなかったが、なぜか直感的に春麗を想起したのだ。
ただ、この女性は春麗ほど若くはなさそうだった。20代にも見えるし30代にも見える。いや、もしかしたら40代かもしれない。つまり、年齢不詳だった。
春麗はもはや力丸の真横まで来ると、声色を変えた。
「お兄さん、帰り、マッサージするか」
「え?……マッサージ?」
力丸は少なからずドキリとした。そしてその直後に、ある既視感を覚えた。
(あれ、これって……)
「私のお店、すぐそこね。2時なら空いてるよ」
春麗の言葉で、力丸は既視感の正体に行きあたった。
こ、これは、まるっきり平日の終電後に新橋駅前でかけられるセリフじゃないか。ここは休日朝の万里浜だぞ?
「い、いや、友達もいるんで、その……」
「だいじょぶ、だいじょぶ、友達もいっしょにマッサージするね。ちょっと待つ」
春麗は、不意にはめていた腕時計を操作し始めた。そして、時計に向かって、力丸には全く理解できない言語で何かをまくしたてる。
(アップルウォッチか……?)
時計から聞こえてくる女性の声もまた、おそらく中国語だった。会話を3、4回キャッチボールすると、春麗は通話を終えて、改めて力丸に向き直った。
「お客さん、2時から。終わったらちょっと待つ。友達、3時から。いいな?」
「え?いや、まだ行くとは一言も……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。お客さん、セットきてるよ。マッサージまでサーフィンたくさん楽しむあるね」
春麗は突然くるりとノーズをアウトへ向けると、ボードに正座し、両腕でパドルを開始した。
力丸も慌ててパドルし始めたが、あまりに奇想天外な出来事の連続に、もはや集中力を維持できていないのは明らかだった。事実、そのせいで正座パドルの春麗にさえあっという間に置き去りにされている——いや、水面を滑るような春麗のパドルは、明らかに速かった。
ピークに到達した春麗は、ノーズを岸側に向けた。しかし、彼女はボードの上に腹這いにすらならなかった。せりあがったフェイスが、春麗のボードのテールを持ち上げる。
(え、まさか……)
力丸が思うのと同時に、春麗は正座をしたまま、ふわり、とテイクオフした。
(ノーパドル……!)
実際は、多少水を掻いていたのだろう、しかし、腹這いになってパドルをしない春麗の姿は、ノーパドルでテイクオフしたかのような錯覚を力丸に覚えさせた。
春麗は、正座したままフェイスにレールを食い込ませると、ここで初めて、ふわり、とボードの上に立ち上がった。かと思いきや、すかさず軽やかなステップを踏むと、あっという間にボードのノーズに左足を引っ掛けた。そして、程よく力が抜けた両腕を軽く胸の前に持っていくと、彼女のロングボードは一気にドライブし、長い黒髪を靡かせながら、あっという間に力丸の目の前を横切って行った。
(や、やっぱ春麗だ……)
ノーズライドを決めた時の彼女のスタイルは、まさしくファイティングポーズをとった春麗の姿を彷彿とさせるものだった。
彼女は何者なんだろう?人のことをいきなりお客さん呼ばわりしやがって。
どうやら万里浜で、(合法かどうかは怪しいところだが)マッサージ店を営んでいるらしいことはわかった。それでいて、ロングボードはあの腕前——
(しかも、予約勝手に入れたクセに、店の場所すら聞いてない……!)
力丸は依然として混乱していた。どうも、今日は脳に入ってくる情報量が多すぎる。
いつものポイントでは、知らない人に話しかけられることなんて5回に1回あるかないかだ。それなのに、ここ万里では、喜ばしくない状況も含めて、もう4人もの初対面のサーファーと言葉を交わしている。しかも、彼ら彼女らのバックグラウンドも国籍も、みんなバラバラだ。
(カオスだ……)
もはや自分が前乗りをしてしまったことや、オッキーに恫喝されたことで落ち込んでいる、などという状態ではなかった。何かもっと巨大な力に飲み込まれるような、異世界に迷い込んでしまったような——
力丸は、そんな不思議な感覚に捉われ始めていた。
〜〜つづく〜〜