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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を量子論的に紐解いてみると…
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”我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか”
D’où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous
ポール・ゴーギャン
この問いに量子論的世界観で向き合ってみるとどうなるだろう?ふとそんなこと思って、試しに今浮かぶものを書いてみることにしよう
※本文中での著名人たちの言葉は、先日学んだ村松大輔さんのセミナーにて紹介されていたものから、今回の考察に紐づくものを引用させて頂いています。この考察は、日々の学びのプロセスの中での私的解釈であり、私自身の誤認や、また自身の理解のアップデートが進むことなどによって、後日変わり得ることがあることを踏まえて読んでみてください。
宇宙の実態?!
まずはアインシュタインのこの言葉から
“物質には永続性はないがエネルギーにはある。
エネルギーと結びついた物質が宇宙の実態なんだ”
アインシュタインのこの言葉を紐解く時、素粒子が物質になるはたらきに思いが及ぶ。素粒子は波=エネルギーでもあり、粒=物質でもある。粒子と波動の二重性だ。そして観測つまり意識を向けると、波動が粒子になるという。
素粒子は生成消滅を激しく繰り返し、無から有が生まれ、有は無に還ってゆくが、ここで言う無とは量子真空つまりゼロポイントフィールドだ 。これは般若心経にある「色即是空、空即是色」とも重なってくる
つまり素粒子とはゼロポイントフィールドから生成消滅を繰り返している
物質には永続性は無いというアインシュタインのことばは、體※の死をイメージすればまさにそうだ。
(※体という漢字の本来の形である”體”をここでは使っています)
しかし同時にエネルギーには永続性があり、エネルギーと結びついた物質が宇宙の実態だと言っている。
人間も含む森羅万象=宇宙はエネルギーと物質が結びついたもの。そして生まれて死んでまた生まれてを繰り返す様は、エネルギーと物質が結びついたりまた離れたりを繰り返す、まさに素粒子の動きそのものなのか?!
人間ってなんだろう?
人間が生まれる時は、卵子と精子が結びつき、細胞分裂を繰り返しながら人間という種の形(體)となってゆく。一定の期間を経て母体から離れこの世界に生まれ出る。
このプロセスもまた、素粒子になんらかの意思がはたらきエネルギーと物質が結びついたのだろうか?
そしてある一定の期間を経たり、なんらかの力がはたらくと、この體はその機能を停止する。これが人間の死と言われているものだ。
エネルギーは永続性があるが、物質には永続性がないということを人間の死に当てはめてみると、どうだろう?
體の死(永続しない)はあるが、エネルギーは永続するはずだ。
“私たちが死ぬとき『私たちの周波数(=データ)』と『私たちの細胞を作っている物質』とが脱結合(デカップリング)する”
ドイツの理論生物物理学者、フリッツ・アルバート・ポップ博士はこのように言っている
體は人間の全てなんだろうか?
意識は?記憶は?意思は?思いは?魂とは何なのか?體以外のこれらは體という器がなければ存在しないのか?それとも體とは別に存在するのか?
體と魂
ポップ博士はこうも言っている
“「意識」とはコヒーレント(共時的)な光(フォトン)である。脳内だけで起きるものではなく体のあらゆる部分(全細胞)で生じる全体現象なんだ”
フォトンとは光だ。
光子とよばれ電磁波もまたフォトンであり周波数を持っている。
そして質量はなく、現時点での見解では寿命は永続だと言われている
つまり、エネルギーそのものでもある。
物質化されている時、エネルギーは質量と光速の二乗の掛け合わせで表される。有名なこの公式E=mc2だ
物質化されていない時、エネルギーは周波数E=Hzだ
ちなみにフォトン=光=電磁波は、周波数を持ち、時間や空間の制約がない。同時多所在性をもっていて、同じ周波数帯に合わせれば同時に何人もの人がどこにいてもその周波数帯に応じたデータを見ることが出来る。
ある事象に対しての捉え方=観方が変われば、過去の認識も未来に起きることもそれに応じて変わる。つまり意識の持ち方が変わればあらゆる現象が変わるということであり、まさにフォトンのなせる業と言えるのではないか?
さて、もう一度話をポップ博士の「私たちが死ぬとき、私たちの周波数=データと、私たちの細胞をつくっている物質が脱結合する」という言葉にもどろう
體の死と同時に、私たちのエネルギー=周波数=データは體を離れる。
この離れたエネルギーは何なのか?
これが魂であり思いであり意思であり記憶であるのではないか?
ではその魂はどこへ行くのだろう?
肉体から抜けた目に見えない存在は、私たちが住むこの世界とは別の世界で自在に生き続けます。「人は死なない」とは、そういうことです。私たちが今回の人生で与えられたこの肉体を脱ぎ捨てて、元いた場所へと還る。それが死ぬということの真実です”
東大医学部の名誉教授、矢作博士は死ぬということをこんな風に表現している
魂は體から抜けて元いた場所へと還り自在に生き続けるという。
元いた場所とはどこなのか?
我々が還る、すべてがある場所
魂が還る元いた場所、それは素粒子が生成消滅しているゼロポイントフィールドではないだろうか?
そして、體から抜けたエネルギーは、すべてゼロポイントフィールドに還るのだとすると、ここにはすべてがあると言えるのではないか?
アインシュタインはこんなことも言っている
“一人ひとりに与えられた魂は、宇宙を動かしているのと同じ生きたスピリットによって動かされている。たとえ質量が原子や電子や運動に転化しようとも、それは依然として実在であって、永遠のエネルギー、つまり不滅のエネルギーの1つの姿なんだ。そしてこの創造の統一性こそが、私の言う神なんだ”
ワンネス、集合無意識、トランスパーソナル、サムシンググレート、阿頼耶識、曼荼羅、神、etc.
様々な表現はあるが、これらはゼロポイントフィールドとほぼ同義であるように思う。ここには全てがあり統べられている
そして、われわれが體をもってこの世界に生を受ける時、その全てである存在のエネルギーが體に結合し、個の存在が現れる
それがアインシュタインのいうこの言葉に表されていることであり、分御霊(わけみたま)、一人一人の中にある仏性、真我、梵我一如といわれていることなのではないだろうか?
脳とは 究極の保存媒体である ゼロポイントフィールドに対する単なる検索・読み出し機構にすぎない
世界賢人会議の主宰であり、哲学者・物理学者のアーヴィン・ラズロはこんなことを言っている
我々は體を持つことで、”個”を体験しているが、常にエネルギーはゼロポイントフィールド=”すべて”につながっており、體の構成要素の1つである脳はゼロポイントフィールドにアクセスしている機能なんだと
で、我々はどこから来て何者でどこへ行くの?
さて、今回のテーマは、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いに量子論的世界観で向き合ってみるとどうなるだろう?というものであった
ここまでの内容から紐解くと、こんな感じだろうか?
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どこから:我々はゼロポイントフィールドから来て、
何者:體という器でゼロポイントフィールドと繋がったエネルギーの結合体であり、
どこへ:そしてまたゼロポイントフィールドへと還ってゆく。
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全てである存在が、體という器を通じて個の存在になり、その個の存在として様々な体験をして、やがて全てである存在へと還ってゆく。
今世に個という存在になってこそ味わえる体験をしに来て、また還り、また味わいたかったら来世に個という存在となってやってくる。
こう書いてみて、あらためてこんな疑問が湧いてきた
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何のためにそんなことをしているの?
わざわざそれをするのはなぜ?
それをさせているものは何(誰)?
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答えはわからないけれど、”すべて”が”個”に分かれる時、その”個”それぞれに備わった違いこそが”個”になった理由なんだとしたら、それぞれの”個”にある違いって、優劣などあるはずものなくなんて尊くて面白いんだろう!
量子論から紐解くことで、そんな風に感じているのがわたしのイマココ
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おまけの一言
”個”に分かれた瞬間に、エゴが生まれる。エゴに氣づくことはきっと”すべて”であることを思い出すことなんだろうな~
さらにおまけのリンク
以前、こんな記事を書いた
21gという質量については、量子論的に見るとたまたま偶然そうなっただけで、魂の重さではないんじゃないか?って思ったりもするけれど、それ以外の部分で書いたことは、今回の考察ともリンクするな~なんて思ったり。