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「いい感じの場=可能性がひらいてゆく場」について今思うこと。


「いい感じの場」の言語化&図化

2024年の師走のはじめ、7期目の場づくり講座を終えて、あらためて「いい感じの場=可能性がひらいてゆく場」ということを、言語化&図化してみました。

少し長いけれど(いつものことかww)「いい感じの場」ということに興味がある方はぜひ読んでみてもらえたら嬉しいです。

いい感じの場とは?

まずは因果と縁起というところから入ってみようと思います。

因果と縁起

仏教用語にある「因果」と「縁起」という言葉。
誰にもその命が本来持っている可能性の「種」が間違いなくあるとわたしは思っています。

「種」にはそれぞれ種類の違いがあり、その種は必ずその種類のものになるように、どんな命にも必ずその命1つ1つに唯一無二の可能性がある。これが「因果」

ただしこの因果はその可能性をひらかせてくれる様々な関わり無しには果を結ばない。その関わりこそが「縁起」

「種」が木になり実になるためには「肥沃な土」であり「あたたかな光」であり「育む水」であり、そして「媒介となる様々な他の命」という「縁起」があってこそであり、その関わり無しには因果は果を結ばない


つまり「いい感じの場」とは、一つ一つの命の可能性がひらいてゆく大事な「縁起」そのものなんだと思うんです。

4つの可能性

可能性がひらかれてゆくにはどんな「縁起」が必要なのかは、後半に触れてゆくとして、もう1つ「可能性」という言葉も少し紐解いてみようと思います。

いい感じの場によって、ひらかれてゆく「可能性」は様々にあると思いますが、ここでは大きく4つほどのカテゴリーにしてみました。

4つの領域の可能性

「わたし自身」の可能性
それは自分に与えられたGIFTを知り、それを存分に発揮してゆく姿。評価や比較の世界観を手放して、この世界を存分楽しんでいる、そんなイメージ。
わたしを生きるよろこびを感じられる可能性がひらいてゆく。

「個人」の可能性
それは自分だけではない、関わる他の人達ひとりひとりの持つ可能性を意味している。わたしを含む誰かの可能性がひらいてゆくと、面白いもので次々とそれが連鎖してくる。そのために鍵は優劣の物差しを手放して、互いに関わりあってゆくこと。それが一人ひとりの可能性をひらいてゆく。

「共同体」の可能性
チーム、組織、コミュニティ、あらゆる共同体がある。それはまさに多種多様なGIFTがあるからこそ、一人では出来ないことが可能になってゆく。「個人」の可能性同様に、ここでも優劣の物差しはいらない。違いを面白がり、それを組み合わせる想像力と創造性が、この共同体の可能性をひらいてゆく

「命の共生」の可能性
人間はあらゆる命との共生なしには生きられない。試しに自分の身の回りにあるものの素材を辿っていくと、それはすべて地球からの(もっと言えば宇宙からの)恵みだ。にもかかわらずどうしても「人間にとって」という視点に留まってしまう。「あらゆる命と共生しているわたしたち」というところに思いが馳せられた時、生かされているという感覚とともに感じられる「つながりの実感」が、この世界が持続的で美しくあり続ける可能性をひらいてゆく。

「可能性」の連鎖

「命の共生」の可能性までゆくと、やや大きすぎるように感じるかもしれませんが、この4つのつながりは、一言でいえば「自分も含むあらゆる命がよろこぶことを増やしていく」ということであり、そして、これらはすべてがつながって、連鎖している

そしてその基点は自分の半径5mから。あなたにとって自分の目が届き手が届く範囲として実感できる「場」が、あなた自身、関わってくれる人、共同体、そしてあらゆる命の共生、それらの可能性がひらいてゆくことにつながっているって、すごいことだと思いませんか?

だからこそ、一人ひとりが自分の半径5mを、自分のGIFTでいい感じにしてゆく「思い」と「術」を育める場としての場づくり講座であってほしい。それが今わたしの中にある、場づくり講座の源動力かもしれません。

ガンディーさんの言葉は、まさにそのことを伝えてくれている。


「望む」ことと「手放す」こと

さて、冒頭に「縁起」の話を少ししましたが、そんな可能性がひらかれてゆく場をつくる時、大事だなと思うことがあります。それは「望む」ことと「手放す」ことを同居させるようなあり方で場に臨むということ。

いったいなんのこっちゃ?みたいなフレーズかもしれませんが、以前「期待」と「願い」の違いというもので表現してみたものがあります。そこから少し紐解いてみたいと思います。

期待と願い、同じ「そうあってほしい」という言葉でもまるで違う

わたしたちは、どんな瞬間も「そうあってほしい」が必ずあるのだと思います。自分を主語にすれば「そうありたい・そうしたい」になるし、誰かや何かが主語になれば「そうあってほしい・そうしてほしい」になる。

「そうあってほしい」はエネルギーの源であり、がんばりたくなる源動力でもあるし、変化の起点にもなる。まさに「望む」エネルギーだ。

執着か純粋さか

一方で、ここに”執着”や”無理矢理”が生じると、様々な苦しさを生み、他をコントロールしたくなる。コントロールするということは同時にコントロールされる状況に身を置くことでもある。そこに執着して自分の心を偽ったり、相手をコントロールしようとしたり、それが「期待」からの「そうあってほしい」

一方で、「そうあってほしい」という「望む」エネルギーから動くけれど、それが望む形になったとしてもならなかったとしても、その状況を「受容れ」「赦し」「手放し」そしてまた「そうあろう」といつづける、し続ける。これが「願い」からの「そうあってほしい」

この「願い」からのそうあってほしいが、「望む」ことと「手放す」ことを同居させるようなあり方であり、そんな人の存在こそが「可能性がひらかれてゆく」縁起なんだと私は思っています。

強く信じて関わり、受容して手放す


認知の限界を超えてゆく「場」の力

なぜ「望む」ことと「手放す」ことを同居させるようなあり方が、可能性がひらかれてゆく場づくりにおいて大事なんだろう?もう少しこのあたりにも触れてみたいと思います。

自分には「盲点」があることを、いついかなる時も自覚していられるか?

人間は常に「認知の限界」を抱えていて、すべてのことは見えないし、見えていることも自分の無自覚無意識の観念にまみれているのだと思います。

「可能性がひらいてゆく」とは、今まで見えていなかったことが見えたり、そうだと思い込んでいたことが実はそうではなかったという氣づきが生まれたりが起きることによってなされていくのだと思うのですが、この「認知の限界」がそこを阻む壁のように存在しているんです。

場を開く可能性、場が拓く可能性

そんな「認知の限界」を超えて可能性を開放させてくれるのは「関わり」の中にあり、それこそがまさに「場」の力なんだと思います。「場」において、願いから関わるあり方は、人を自己開示モードにしてくれる。

でも同時にその「関わり」によって「認知の限界」同士が自己防衛しはじめて、可能性を閉ざしてしまうこともある。期待から執着してしまうとこの認知の限界に氣づくことが出来なくなってゆくのがまさにこの状態。

場はどちらにも増幅させる力がある

願いから動き、執着を手放し、認知の限界から生まれる観念に氣づいたら手放す。それによって、そこにあった見えていなかったものが見えてきたり、思い込んでいたものが緩んでゆく。

自己否定が自己肯定に変わったり、相手のふるまいの奥にあった思いに氣づき誤解がとけたり、痛みや苦しみだと思っていたことがギフトであったことに氣づいたり、危機が文字通り変容の機会であると捉えられるようになったりetc. 

そんな氣づきと見方の変容の繰り返しこそが「可能性がひらかれてゆく」プロセスそのものであり、「いい感じの場」がそれを可能にしてくれる。

だからこそ、誰よりも「可能性を信じる」あり方と同時に、「そうであったとしてもなかったとしてもそれを受容れ、赦し、手放す」あり方で、その場に関わり続けてゆく人がいるのかどうかは、とても重要なことなんだって私は思うんです。

あきらめるの肯定的な意味

さて、ここでまた仏教用語を引用してみたいのですが「あきらめる」という言葉は本来「あきらかに見る」という意味なんだそうです

手放すことで、自分には見えていなかったことが見えてきたりもする。「そうあってほしい」ということが起きなかったり、「そうあってほしくない」ことが起きたり、そこで執着を手放し「あきらかに見る」ことで、今まで氣づけなかった、素晴らしい可能性がそこにあることに氣づけるようになったりする。

「あきらめる」とは単に断念することではない

望ましくない出来事だと思っていることが実は新たな扉をひらいてくれる機会になったり、何かを失ってしまうように思えることが自分自身の囚われからの解放につながるきっかけになったりもする。

あきらめるとは、まさに「望む」ことと「手放す」ことを同居させるにおける、「手放す」と相通ずるように思います。

少し余談ですが、場づくりを探究していけばいくほど、こういった仏教哲学や、量子論のようなサイエンスとも繋がってきて、それらが「人生をより心豊かに面白くしていく」ことや「命が共生しているような世界」への可能性に繋がっているって本当に面白いなと、どんどんマニアックになってゆく自分がいますww それがわたし自身の可能性の一部なのかもしれません。興味ある方はぜひそんな話を一緒にしましょうww

場づくりをする自身の「あり方」をアップデートしてゆく時間

さて、ここまででも十分長い文章なのですが、どうしてももう1つ「あり方」ということに触れておきたいので、書いてみたいと思います。

ここまで読んで頂いた方本当にありがとうございます。もう少しだけお付き合い頂けたら嬉しいです💦

いい感じの場をつくってゆこうとする時、「やり方」もとても大事になると思いますが、それ以上に「あり方」がとても大事だという考え方をわたしは持っています。

モードとトーンとムード

あり方がその人のベースモード(状態)をつくり、それがその人のふるまいやたたずまいのトーン(周波数)になり、そのトーンがその場のムード(空氣感)をつくってゆく。

その結果、同じやり方でも、どんなあり方でそれをするかによって、まるで別なものになってしまう

わたしなりに紐解いてみた「あり方」を構成する要素があります。「あり方」というある種フワッとしたものを、自分なりに見つめて、アップデートしてゆくためには、何に意識を向けたらいいのか、その手がかりがほしい。そんな思いから、つくってみたものです。

あり方を構成する4つの要素

「観=まなざし」Paradigm
自分の目の前に起きる出来事から、自分を取り巻く世界までをどういうものとして見ているのか?自分の中にある「観念」はどんなものだろう?ここに氣づき、変容が起きることで、関わり方が大きく変わってゆく。

「感性=らしさ」Sense
自分はどういうものを美しいと感じたり、面白いと感じたり、美味しいと感じたり、心地よいと感じたり、愛おしいと感じたりするのだろう?自分に備わっている個性のセンサーそれが「感性」。否定や批判される怖れを手放し開放出来るとき、その感性の違いが可能性をひらいてゆく。

「知性=こころえ」Mind
たとえば起きていることのメカニズムをどういう風に紐解くのか?先人たちの様々な考え方、スピリチュアルからサイエンスまで、どんな「認識」を自分は採用し、どう判断し、どう行動しているのだろうか?この認識が「観」にも影響しているとするなら、ここを常に問い直してゆくこと自体がまさにあり方のアップデートへの大きな鍵となるかもしれない。

「願い=ねがい」Will
自分はこの世界で何を体験したいんだろう?この命を使って見てみたい光景、伝えわかちあいたいことはどんなことなんだろう? 願いの本質はそれが果たされるか否かではなく、その願いがあることによって、今していることが本当に素晴らしいと思えることにある。それを自覚し体現しようとしはじめると、その人から発せられるエネルギーが、他の人たちのあり方の変容に作用してゆく。

あり方を見つめ、必要に応じてアップデートしてゆく。それが結果的にやり方の質(=行動・方法の質)を深めてくれる。そんなことに向き合う時間になるのも、わたしがひらく場づくり講座の一つの特徴かもしれません

学びほぐし・問い直しによって、これまでの前提をアップデートしてゆく
あり方とやり方、ダブルループ学習モデル
あり方とは「願い」「知性」「感性」「観」によって構成されている
どんな自分として、どんな場をつくりたいんだろう?


いい感じの場を体現していく仲間にぜひなってください

わたし自身にとって、この場づくり講座は縁あって受講してくれたみんなと「いい感じの場を体現していく」仲間として、共に探究していく場でもあります

この場づくり講座自体を何よりも「いい感じの場」にしたいという思いから、続けています。

マニアックさも含めてwwこんな観点で、ご自身のつくりたい「場」をもっと探究していきたい「いい感じの場」をつくりたいと思う方、ぜひぜひ一緒に探求していきましょう。

あなた自身やあなたに関わる人の人生に何をもたらしてくれる可能性があると思いますか?


■最後になんとなくまとめフレーズ集■

・いい感じの場とは可能性がひらいてゆく場ということである
・場は4つの可能性(わたし自身、個人、共同体、命の共生)ひらいてくれる
・この4つはつながっていてどれもがどれもに影響している
・可能性がひらかれてゆくとは氣づきと見方の変容の連続のこと
・その氣づきと見方の変容の鍵は「望む」ことと「手放すこと」の同居
・この2つの同居は「期待」からではなく「願い」から動くこと
・この2つを同居させるあり方が盲点への氣づきの可能性を拡大してくれる
執着を手放しあきらかに見ることの中に可能性の鍵がある
あり方がアップデートされることがいい感じの場へとつながってゆく
・あり方を構成する要素は4つ(観・知性・感性・願い)ある
・あり方のアップデートがやり方の質(=行動・方法の質)を深めてくれる


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