自分自身の現在地を少し整理してみようと思う
見てみたい世界
自分が見てみたくて、そして体現したいのは、こんな感じで生きている世界
つながりの実感
今どのくらいの人が”つながりの実感”を感じながら生きているだろう?
ここで言う”つながりの実感”とは、その”つながり”というものの中に希望や感謝や喜悦や情熱を感じている、「この命を活かして生きている」という感覚。
「今に大きな不満はないが、未来に希望もない」
いつ誰から聴いた言葉が定かではないのだが、今の閉塞感をまさに表現している言葉だなって感じがして、なんだかわからないけれど虚しさややり場のない憤りみたいなものを、この言葉の奥に感じてしまう。
これって”つながりの実感”を感じられていないってことだよね・・・って思った時、自分がすることが、できるだけ多くの人の”つながりの実感”を増やすことに繋がっていてほしいという願いが自分の中にはやっぱりあるんだな~っていうことに氣づく。
それは冒頭の世界観にもつながっている。
言葉にならない領域に触れていくように
言霊、音霊、ことばには力がある。
一方でたとえば、見えないが確かにあるもの、感じているもの、それを感じている自分の中に起きていること、誰かとの間や何かとの間に現れようとしているもの、そういったものを表現するには、ことばはすごく限定的な道具なんだよなとも思う。
ことばは大切な道具ではあるけれど、でもその限界もやっぱりある。だからこそ身体性やアートのように感じたものを様々な形で表現し、それをことばを使いながら紐解くような、そんなことをもっとやっていきたい。
生きることの様々なことをアートとして捉えてみる。アートとは命が表現したがっていることを表現することなんだという前提に立てば、すべての人は、いやすべての命あるものはアーティストなのかもしれない。
この世界を観るメガネが変わってゆく今
今、自分たちがそうだと思っていることはこの宇宙の真理なんだろうか?
きっとまだまだ「わかっていないこと」なんて山ほどあるんだと思う。
そうだと思っているがそうではないことなんて星の数ほどあるんだと思う。
今までとは違うメガネで世界を見てみると、どうやらこれまで認識していたこととは違う認識が顕われてくる
量子論で宇宙を紐解くと、宇宙が存在する前にそこには膨大なエネルギーがありながら何もないという「量子真空」が存在していたという。それが138億年前になんらかの揺らぎによりビックバンを起こし宇宙が生まれ、そして今なお宇宙は膨張し続けているというのがインフレーション宇宙論
その量子真空の中には、宇宙の過去現在未来すべての情報が記録されているゼロポイントフィールドと言われる領域があり、それは宇宙の至るところに偏在しているというのが、ゼロポイントフィールド仮説(これは大乗仏教の中心思想である”空”とも重なる)
我々の意識もまたゼロポイントフィールドと繋がっていて、つまりそれは宇宙のあらゆる叡智とつながっているということでもある。
素粒子は波動であるという性質があり、その波動がゼロポイントフィールドの波動と共鳴する時に、その叡智からSignのように何かを受け取るのではないか?
たとえばそういう仮説に対し思考と心を閉ざすのか、開くのか?
どちらが、可能性をよりひらいてゆくことに繋がるのだろうと考えてみる
その認識で、いろいろなものを捉えなおしてみると、不可能だと思っていたことが可能になり、偶然だと思っていたことを再現することが出来るようになったり、そんなことがきっと起きてくる。そんな感覚が今の自分にはある。
すべてが入っている小さな種を、半径5mの土地をやわらかく耕してそこに埋める
私が好きだなと思う一人に、サティシュ・クマールさんという人がいる。
サティシュさんが語っていたことの中に、「大きな楠木(クスノキ)も、最初は小さな種を埋めることからはじまる」というような話があった。(何かのイベントにゲスト出演している時に語っていたこの言葉にすごく勇氣と希望を感じたのを覚えている。)
世界を変えるのは、自分の半径5mをいい感じにすることがすべてなんだって本当に思う。
常に半径5mを意識して、そこを心からいい感じにするという意図を持って関わろうとする時、そのエネルギーはきっとそこにいる人たちに伝わってゆく。
そのエネルギーを受けた誰かがまた、自分の半径5mで同じようなエネルギーを発してゆく。
その半径5mの円は波紋のように、そのエネルギーは波動干渉しながら、どんどん広がってゆく。そしていつしかそのいい感じが世界を覆っていく。
だからいつも、自分の半径5mを愛をもってそこにいる人たちと思いきり楽しんだらいいよって思う。その半径5mに自分の命の持つエネルギーを、情熱を、ワクワクをドキドキを、思う存分注ぎこんだらいい。
少し余談だが、「小さな種の中にすべてがありそこからはじまる」という話と「量子真空から宇宙が生まれる」という前述の話がリンクするなと感じたりもする
それで何をやっているかというと・・・
ひと言で言えば「この人生をもっと楽しんでみようと思う」という人が増えていくことにつながることをしているし、これからもしてゆくんだと思う。
そして、願わくばそれを”自身だけ”ではなく他の人もそうあれるように何かしたいという人が増えていて、その人たちの創造性が解放されて、いろんなアイデアが生まれ、それが形になってゆくような、そんなきっかけが、そこかしこで生まれるような世界を見てみたいと今は思っている。
今「場づくり」ということを探究することに、自分のエネルギーが一番湧いていて、いい感じの場をつくることが出来たらそれは自分や誰かの可能性をひらき、そして人生が豊かに面白く楽しくなっていくことにつながっていくと思っている。
そんないい感じの場をつくれる人が一人でも多く増えてほしいと思っていて、そのための活動が今の中心にある。
その結果として、自分と関わる人たちがこんなことを自分の中に見出して、そして自分自身の可能性を信じてひらくことにワクワクしてほしい。うまくやれるかどうかになんて囚われずに、それをすることそのものが人生の素晴らしい体験なんだと思いながら、今世を楽しんでほしい。何より自分がそれを体現したい。
Visionというものに対しての認識
私はVisionを描くことは、人生を豊かにしてくれるし、誰かと共に何かをやっていこうとする時にはとても大切な拠り所にもなるものだと思っている。
Visionとは見てみたい光景、味わいたい状態、体現してみたい姿だと思う。
今との間にギャップがあるのであれば、そのギャップを小さくしていくアイデアを考えていく指針にもなってくれる。
今そこに向かっているんだと思えると、ワクワクしてくるし夢がある。
Visionは多少抽象度が高くていいと思っている。抽象度は高いが解像度も高いという感じ。だからこそ解釈の幅が生まれるし、それはそこに向かう方法や行動に自由度を与えてくれる。
Visionをわき目もふらず目指すべきゴールとして捉えるのではなく、日々のプロセスを楽しく意味のあるものにしてくれる羅針盤のようなものであるのがいい。
Visionは人生をコントロールするためのものではなく、自分の行動を縛るものでもない。そうではなくVisionは、何が起きるかわからない中で、仲間とともに何かを探究していく遊びを存分に楽しむためにあるもの。
今はそんな風にVisionというものを捉えている。
コントロールするのはやめた
人生をコントロールしようとすると、そこには苦しさや不安が生まれる。なぜなら「こうでなければならない」がそこにはあるから。
でもそのコントロールを手放していくと、その苦しさや不安は薄らいでいく。「こうでなければならない」のかわりに「そこにはどんな可能性があるんだろう」っていう探究心や好奇心が芽生えてくるような感覚が生まれる。
そうなるようになっている。だからどんな選択をしようと、どんな決断をしようと、それはすべて最善であり必然であり大丈夫なんだ。
望まぬことが起きたり、望むことが起きなかったりもする。ぶっちゃけそれは嫌だけどww、でもそのことにもきっと、自分の認識が及ばないところにある自分にとっての最善であり必然がある。
「何があっても大丈夫」
そんなことばを携えて、もうしばらく今世でこの命をつかっていろいろ探究してみよう。
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2023年1月現在の自分の現在地はこんな感じ。
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