リトリートで感じたことを一旦文字化してみる試み。
リトリート(私が思うに。)
今までリトリートを通して感じてきたことのいくつかは、今の自分にとって、とても大きな影響、もしくは転機となるようなものだったような氣がしている。
リトリートとはRetreatmentを語源に持ち、日常を過ごす場から少し身を離して、自分を見つめたり癒したりすることらしい。
私の場合は、山の中であったり、海のそばであったり、自然の中にまたは傍に、包まれるかのような空間の中に身を置くことが自分の深い部分に触れるのにとてもよかった。
ある程度の日数を過ごす。そこでは「ねばならないこと」は、ほぼない。
そこで行ういくつかのことを用意してはいるものの、それを”言われた通りこなす”必要もないし、すべては自分がどう関わるか、どうあるかを決めてそこにいる、そんな場が多かった。(主催する時も参加する時も)
私たちは”役割と機能”で人と関わる日常を過ごしている
人は日常の中で、意識をして(時には無意識に)”役割と機能”によって人と関わっているように思う。
関係性の中で、所属している組織の役職や担当、家庭では父または母、夫または妻、子、孫、地域では●●役など。
推進すること、調整すること、粛々と進めること、癒すこと、励ますこと、大人な態度を見せること、空氣を読むこと、輪を乱さぬこと、自分を押さえること…etc.
役割や機能に応じた価値を提供できているかどうか?それが瞬間瞬間の関心ごとであり、振る舞いや言動はそこに影響される。
何もわかっていないのかもしれない…
ある時、「そこで何をしてもしなくてもいい」という場で8日間過ごすという体験をした。
参加したメンバーと車座になって共に居るという時間を過ごすことはするのだが(その時間はだいたい8時間/日くらいかな)、そこで話してもいいし、話さなくてもいい。どうしても居づらくなったら離れてもいい。
「何をしてもしなくてもいい」とは限りなく自由なはずなのに、なぜかはじめはとても居心地が悪かったことを覚えている。
後になって氣づいたのが、その時自分は「ここで自分はどう振る舞うべきなのか?」がわからなくなっていたのだ。
なぜなら、求められる役割も機能も、規範のようなものも何もない。自分の外側にガイドラインが何もないのだ。
またそこでは、「では最初に自己紹介を・・・」みたいなものもない。だから周りにいる人は何者なのかもわからない。
でも考えてみると、仮に自己紹介をしたとしても、わかるものはその人のたとえば名前や所属している組織や、やっている職業名や、家族構成やそんなことだったりして、本当は何もわからないのかもしれない。
私たちは普段、本当は相手のことなど何もわからぬまま、その人の役割や機能と共にいるだけなのかもしれない。
そして自分のことすら、”役割と機能”を取り払ったとしたら、本当にわかっているのだろうか…
私たちはみな深いところではつながっているんじゃないか
そんなことを思ったりしながら、それでもなお「何をしてもしなくてもいい時間」が流れていく。
そんな感じなので、流れる時間はとてもゆっくりで、有り余るほどの時間がそこにはある。
日常だって、ここにいたって、1日は同じ24時間なはずなのに・・・
「時間に追われないだけで、役割や機能を求められないだけで、こんなにも時間はたくさんあるように感じるのか・・・」
その時間の中で、普段はそこまで深く潜らないようなところまで思索してみたり、ただただゆっくりと心や身体に感じるものを受け取ってみたり。
そんな中で少しずつ、自分の中の雲が取れていくかのように、「本当に(純粋に)望んでいることは何か」といったようなものが見えてくるような感じがしてくる。
同時に、自分を今まで縛っていたものが何なのか?なぜ自分はそれに縛られていたのか?そんなこともなんとなく見えてきたりもした。
しばらく過ごしていくと、この感覚に馴染んでくる。
自分との関係も、一緒にいる人の関係も、役割や機能から解放されて、自分自身と共に居るような、そしてその人自身と共に居るようなそんな感覚になる。(う~ん、もっとあるのだが、この辺のボキャブラリーがいつもどうも足りない感じがしている…)
この体験をすると、どんな人の中にも純粋さや弱さや、願いや怖れや、その怖れを抱えるに至る何かがあることや、そんな日常のコミュニケーションの中では見えないものが見えてくる。
その時、なぜか心に起こるのは、人はみな同じ。そして私たちは深いところではみなつながっているんじゃないかというような感覚。
本当にそうなのかどうかはわからないが、それでも私自身はそれが手触り感のある実感として感じられた。
それは世界の見え方が変わったんだって捉えることもできるかもしれない
少し話は飛ぶが、わたしはいわゆる”場づくり”をよくする。それは学びの場であったり、対話の場であったり。時にそれをワークショップとよんだり、研修と呼んだり、ミーティングと呼んだり。
リトリートの時に、「人はみな同じ。そして私たちは深いところではみなつながっているんじゃないかというような感覚」を感じて以降、私はこの”場づくり”において、緊張したり、様子が見えなくなったり、というような類のことが一切なくなった。
場づくりの時にも、あの感覚がいつもあるような。
どんなに表面に出てきていることが、一見ネガティブと名づけられてしまうような現象であったとしても、それはその場に必要なこととして現れていて、その時その人を通じて、みなに必要なものが顕れてきている。そんな風に捉えられるようになった。
そして、その人の中にも、そして同じ場を共有している人たちの中にも、純粋な思いや、願いや、それが聞き届けられなかったことからくる痛みや、それを出すことの怖れや、その怖れから身を守ろうとする反応や、そういうものがただあるだけなんだという風に捉えられるようになった。
つながりの実感を思い出す
リトリートとは、その定義どおり日常を過ごす場から少し身を離して、自分を見つめたり癒したりする場だとして、それをする意味を、もし一言でいうならば、わたしは「つながりを取り戻す」または「つながりの実感を思い出す」そんな時間なのかもしれないと思っている。
自分とつながること。それは自分の中の純粋な思いや願いとつながること。余計なものを取り払った時にそれでも自分の中に残るものは何かに触れること。
人とつながること。それは誰の中にも純粋な思いや願いがあって、そして人は必ず必要な時に必要な人と出会い、そこでの関係性の中で起きることは、互いが互いに必要としていることなんだと感じること。
そして、それを越えた先に共感しあえる関係性が生まれること。
リトリートの中で、大きな影響を受け、そして転機となった感覚は、まさにこういうことを思考で意味づけるのではなく、身体感覚で「あっ、そうなんだ」となったことなんだ。
あらためて、文字に起こしてみるとそんなことを、わたしは感じていたんだと再確認した。
これからちょくちょく開いていくと思うリトリート。
この夏またリトリートをしようと思う。ご縁のある方との出会いを楽しみにしながら、そして共に過ごすことで訪れるかもしれない変容を楽しみにしながら。