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之を知る者は之れを好む者に如かず、之を好む者は之れを楽しむ者に如かず


子曰く、之を知る者は之れを好む者に如かず、之を好む者は之れを楽しむ者に如かず
子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者
(雍也第六)

理解している人には知識があるが、好きな人には敵わない。 また好きな人は、楽しんでいる人には敵わない。

スポーツの語源

スポーツの語源は「disport」、ラテン語での「deportare」(デポルターレ)というが変化して「sport」となったとあります。
デポルターレとは「運び去る」といった意味で、精神的に「気分を転換する」「日常から離れる」といった要素を指します。
その中に競争原理の要素が大きく加わってきました。
楽しむ要素のスポーツを「ニュースポーツ」や「生涯スポーツ」と呼び、「競技スポーツ」と区分けしたり、「プロスポーツ」は観る側への楽しみに重きが置かれたり、スポーツの目的は多様化しています。
しかしながら、スポーツの本質は楽しむことにあります。

サッカー小僧

これまでたくさんの子ども達を指導してきましたが、「サッカー小僧」と呼べる子は一握りです。その定義を表すことは難しいですが、そんな子はサッカー好きが溢れ出ており、更に好きから湧き出る圧倒的な好奇心・探究心を兼ね備えています。
誰よりも早く来てボールを蹴る、指導者が他の選手に指導していることにも質問してくる、うまくなるために必要だと思うストレッチなどの身体のケアも楽しんで取り組む、いつも前向きな状態にある、などなど。
周囲から見たらとてもすごい努力と感じるも、当の本人は努力しているとは思ってはいない。ただ大好きだから、楽しいからやっている。
「好きこそ物の上手なれ」です。

それでも壁は現れる

サッカーが大好きであっても、続けていく中で壁は現れます。
しかしながら、それを乗り越える力もまた、サッカーが好きかどうかにかかっているのだと思います。
内発的動機づけが強く在れるからこそ、努力できるのです。

努力すれば報われる?そうじゃない。報われるまで努力するんだ。
ーリオネル・メッシ

育てるのではなく助ける

小野伸二や乾貴志の様なサッカー小僧を指導者は育てることができるのでしょうか?
指導者が選手の内発的動機づけを育てることはできないと思っています。
育てるのではなく助けるのです。
選手がサッカーを楽しむための障害になる様なことを取り除く、経験や知識を下にアドバイスをする、適切なタイミングで声を掛けてやるなどといった手助けなのだと思います。
もっと言うと、競技としてのサッカーを指導することで、その選手が本来持っている楽しさを奪う要素を指導者は持っていると認識して指導にあたるべきでしょう。

選手は壁にぶつかった時に、指導者はその日々のコーチングの中で、「スポーツとは何か」を問い、人々が楽しむことが根源であることを思い出すタイミングが必要です。

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