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羽洋田の家が語るもの 『紫丁香花ーライラックー』における「場」の意味
『紫丁香花-ライラック-』で舞台にしたのは、羽洋田という町にある一軒の日本家屋。庭にライラックが咲くこの家が、主人公のイラストレーター 紀ノ川瑞絵の家です。
羽洋田は都内からは若干距離があるものの、通勤圏内。義理の甥、颯真の通う大学にも通学圏内という設定。
都心とは時間の流れが違う、古くからの住人が多い土地。価値観も古い。
ライラックの咲く家でひっそりと暮らす二人は、世間の目からはまだ守られていて、いつの間にか芽生えていく禁断の愛を内包しながら生きています。
物語の核心となる「羽洋田の家」は、登場人物たちの心情や関係性を映し出す鏡として機能させたいと思っていました。
■記憶の器としての家
羽洋田の家は、瑞絵の両親が残してくれた土地と家です。幼くして両親を亡くした瑞絵にとって、この家は失われた記憶を留める唯一の場所であり、アイデンティティの核となっています。
物語を書きながら、自身もこの家で暮らしているような気持ちになっていきました。庭の楓の木が風に揺れる音、ライラックの香り、縁側に差し込む陽の光。そういった些細な日常の一コマ一コマが、登場人物たちの心情と共に浮かび上がってきました。
瑞絵のアトリエでは、彼女の仕事である水彩画が制作されています。颯真の部屋は、必要最小限の家具だけの整然とした空間。二人の個性が表れる部屋の様子が浮かんできました。
■時間の移ろいに合わせて、新しい絆が育まれる場所
瑞絵の両親、瑞絵と里子、そして瑞絵と颯真。時間の移ろいに合わせて住む人が変わり、新たな絆が生まれる。家って不思議な空間ですね。
庭はその様子をずっと見つめている。そんな様子を書ければと思いました。
両親を失った颯真が10歳でこの家に来た時、人生の初期に大きな傷を負った少年に「安全な場所」を提供する役割を果たしました。両親を亡くした二人が出会い、新しい絆を育んでいく過程で、この家も新しい活力を取り戻していきます。
颯真の部屋の、必要最小限の家具しかない潔癖なまでの空間は、彼の内面を物語っており、それでいて瑞絵は、その部屋をいつでも颯真が戻ってこられる場所として保っておく―――二人の関係性は『紫丁香花-ライラック-』の段階から印象強くありました。
■瑞絵のアトリエ
この物語を書く時、アトリエという創作の場を内包する家を書きたい、という気持ちがありました。
この場所は、瑞絵の芸術家としての成長も見守っています。クライアントの依頼を受け様々な「絵」の生まれる場所、瑞絵の戦場でもあり、同時に人生の重要な選択が行われる場所でもあります。
■旅立ちの場所として
瑞絵と深く繋がっている「羽洋田の家」。
やがてこの家は「旅立ちの場所」にもなります。颯真がボストンに向かい、瑞絵も新たな創作の地平を目指す。その二人の新しい一歩を、静かに見守る存在としての役割も果たしています。
読者の皆さまは、どんな風にこの家を感じていただけたでしょうか。もしよろしければ、感想をお聞かせいただければ嬉しいです。
物語の「場」というのは、書き手の意図を超えて、読者お一人お一人の中で特別な意味を持つものだと思います。この羽洋田の家も、皆さまの心の中で、それぞれの物語を紡いでいってくださることを願っています。