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福島で考えた土のこと

きっかけ

先日、福島県大熊町、富岡町の一時避難(解除)地区に行ってきました。土の話を聞かせてほしいという依頼でした。宮沢賢治、正岡子規が好きで、フォレスト号(夜行バス)に乗って京都から東北(特に盛岡でしたが)によく来ていたので、東北は思い入れのある場所です。福島では、津波で娘、父を亡くした現場(避難区域内)で遺骨を探すお手伝い、避難で取り壊した自宅の跡地の土を記録する制作。私みたいな能天気な人間が大丈夫かなと心配でしたが、歓迎してもらって、むしろ元気をもらったような時間でした。新規の移住・滞在者(免許なしで移住しキックボードでロッコクを走るモノノフ(ももクロのファン)、若い農家、芸術家、起業家たち(絶賛、人材不足のようです))もいて、未来は明るいと思った一方、私自身が福島の土を研究していたことを話すと、誰も知らない。福島の土、放射性物質に対する葛藤があり、積極的には話したことがない(避けてきた)ことに気付きました。研究成果を発信・共有できていないのは一大事なので、少し書きます


13年前

福島原発事故への対応を求められたのは、ちょうど京都から筑波の研究所に移動した時でした(東北・関東に火山灰土壌が多い)。放射性炭素同位体(14C)を用いて火山灰土壌の炭素動態の研究を始めるのをワクワクしていたのを覚えています(しかし、初めて獲得した研究費は復興のために半額に削減に)。ちなみに、私は放射性物質を実験で使う技術をスウェーデンの研究者から習得し、武器にしています。放射性物質を実験に使うのは怖さゆえか人気がなく、土壌分野で扱うのは世界で3人(Jones(≒メッシ的), Kuzyakov(≒イニエスタ的),そして私(=私))です。上2人が抜ければ私の時代です(のはずでした)。ところが、研究所からは、福島の汚染土壌の放射性セシウム(137Cs)動態の研究をしてほしいと言われ、困りました。14Cと137Csは見た目以上に原子量、結構違います。研究所も未曽有の事態でてんてこまいだったのでしょう。

2011年時(あ、私は右です)

イニエスタ

そこに世界で最も有名な土壌学者の一人、Kuzyakovさんからメールが届きました。「日本はしばらく大変だろう。うちの研究室に机なら用意できる」言葉が見つからない、以上の言葉が見つからない。。。勝手にライバル視、嫉妬していた相手の偉大さに感激しました(げんきんですみません)。ただ、ドイツに行く気にはなりませんでした。正直言うと、ドイツの激烈な競争が怖い。もう一つは、目の前の問題から逃げるのは違うような気がしたこと、土が明らかに問題な以上、土の研究者の出番に違いないということ。即座に対応していた研究者たちの中には反原発活動家、怪しい科学者(EM菌、放射性物質を食べる微生物?、ヒマワリなど各種)もいて(今どこに行ったんだろう?)、真偽ないまぜに情報が飛び交い、土を、放射性物質を研究していた研究者としてほっとけなかったのです。

妙に褒められた

汚染土壌というと嫌なものですが、放射性物質の土壌中の動態は実際のところ、科学としてかなり面白い分野です(不謹慎かもしれませんが、研究は研究として楽しまないといい仕事はできないのです)。粘土(特に雲母、バーミキュライト)への吸着が重要で、落ち葉の堆積層からは流出しますが、土壌中(表層5センチ)で捕捉され、なかなか移動しないことを論文2.5本にまとめました。日本語で解説も書きました。大したことをしていませんが、論文は100以上引用され(私には珍しい)、和文解説も「ベクレル?何それ?」の霞が関界隈の方々に好評だったそうです。放射性物質が土から水に移動しなければ稲作も再開できる。表土を剥げば除染もできる。なんだか、とても褒められて、人の役に立つって素晴らしいなと思ったのでした(専門の研究ではこういうことは少ない)。でも、肝心の自分の研究はざっくり10年遅れました。専門家(学者)ではなく研究者として生きたいなら、気をつけないといけません。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/61/1/61_45/_pdf/-char/ja

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00380768.2014.926781

https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0265931X18307501

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0265931X20304069


微妙な立場の研究者

実際のところ、福島のためになったのか。単に自分のため(学会発表、論文)ではなかったか。本当に役に立ったのか。これは福島に限らず、いつも付きまとう問いです。私は外部者にすぎない(それゆえ、予断なく研究できる面もあります)。汚染土壌に対してできる手段といえば、結局のところ、除染と客土。汚染土が詰め込まれた真っ黒いフレコンバック、削られる山、大量の土を運ぶダンプ。単純な反原発の立ち位置をとれる外部者、移住したらいいんじゃないかという無責任な言葉。私も例外ではなく、友情出演しているウェブマガジン生環境構築史「土政治」で「地球内部における放射性物質の崩壊は現在の地球が温暖である要因のひとつであり、その原理を応用したのが原子力発電である。自然の物質・エネルギーの循環量だけでは賄いきれなくなり、地球史の遺産に手を付けている・・・粘土に放射性セシウムや重金属を吸着させることは簡単だが、吸着したセシウムを除去することは非常に難しい。科学は使いどころを間違えると、とたんに無力になる。そのことを人類はしばしば忘れ、災害の度に思い出す傾向がある。」とかなんとか。外部者ならではの薄っぺらさがあります。「砂質土壌が多い地域は海外ならカジノになる。日本の場合、原発が多い。浜通りもその一つ」とかも、間違っているわけではないけれど、かなり雑だなと思う。それに比べて、移住・帰還、補償、原発(東電)、除染・客土というリアル、福島の土と生きていくことの、土を離れては生きられないという言葉(by シータ)の重み。

お祭りの大切さ

深刻な話なのに軽いかもしれませんが、自分事にできるわけがない。というのが嘘のない気持ちです。「環境問題を自分事に」というのが難しいのと同じです(他人事にしていいわけでは決してない)。これについて宮崎駿氏は、「環境問題(総論)を解決することはできないけれど、道頓堀掃除(各論)ならできる、それでいいのだ」的なこと(意訳しました)を話しています。とても共感する部分です。現場(避難区域内)で津波で亡くした家族の遺骨探しのお手伝い、避難で取り壊した自宅の跡地の土を記録する制作をしていた時も同じ気持ちでした。わいわいやるのがいい。一番の癒やしになる。ちなみに、福島にどっぷり入って仕事をしている溝口勝先生(東大、通称ドロエモン)の感じも似ています。

また行こう

除染も一段落し、あれだけ走っていたダンプはすいぶん減りました。車でビビらずに走れます。イノシシも豚熱(旧称:豚コレラ)で姿を消しました。私ももとの研究に戻り、国際学会でkeynote speakerとしてKuzyakovさん(イニエスタ)に再会できました。メールのお礼を伝えると、もう覚えていませんでした。どこまでもビッグです。
 避難指示が解除された地域に少しずつ人が帰っています。人材不足が悩みとか。ただ、若い人たちは元気でした。行政機関は復旧はできるけど、復興は現地の人にしかできない。私は、イベントで会った「免許なしで移住しキックボードでロッコクを走るモノノフ」に嫉妬しています。会社に告げず浪江に移住。僕もこんな生き方したいなぁ。とりあえず、また機会を見つけて、遊びに行こうと思います。イベントのあった夜ノ森は桜のトンネルが有名だとか。なんで桜の時期に呼んでくれなかったのか。なんで花見じゃなくて穴掘りだったのか。また行かないとと思っています。


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