噓日記 2/22 文豪たち
昔の文豪たちの生き様を調べる度に、享楽的に生きたことを知る。
俺よりタバコを吸うし、俺より酒を飲むし、俺より女遊びしている。
そして燃え尽きるように死んでいる。
文豪たちは個々人で抱く面白さに溺れて生きて死んだのだ。
そういう情報を得る度に、俺は生まれる時代を間違えたなぁと感じる。
タバコもやる酒もやる女もやる、それが許されるのは正直昭和までだろう。
その時代に男の盛りを迎えなかったのが俺の生涯の悔やむところだ。
俺もできることならもっと享楽的に生きたかった。
俺がもし昭和の時代に男の盛りを迎えていたら、きっと凄い成功を収めるかのたれ死ぬか、そのどちらかだっただろう。
それくらいの自負がある。
そのくらい俺は昭和向きなのだ。
というより、令和に向いていない。
令和の世の価値観を俺は上手く乗りこなせない。
周りを見渡せば、具体的な言葉を失った現象たちがたった一つのエモいという言葉に閉じ込められている。
万人が万人、良いと思う記号に従わされるような、そんな管理された社会の風潮がこの令和の時代に蔓延っているように思えてならないのだ。
まるで自己のない全体としての感性。
私の中でそんな感性の対極に位置するのが前述の文豪たち。
過去の文豪のタバコに溺れ、酒に溺れ、女に溺れ、ただ枯れぬ情熱を認める生活は正しく自身の感性への自信に他ならないだろう。
自らが生きた時代に自らの感性を残すと言う気概。
俺は彼らの文を読むたびにそれをひしひしと感じる。
それと比較した時、現代の感性は紋切り型で誰かのコピーが永続的に続いていく。
自分という思考の主体が存在しないのだ。
インフルエンサーが良いといったものが実際に良いとされる世の中だ。
そのインフルエンサーも誰かに影響されている。
人類総風見鶏だ。
その原因としては自信の喪失が挙げられるだろう。
誰かと異なることへの恐怖がそのまま自身のアイデンティティの喪失に繋がっている。
だから、現代人はどこか自分を俯瞰で見ている。
あくまでキャラクターのように、自分が生きている周囲を見ている。
成熟した社会に対してどこか区切りをつけるターンが令和なのだ。
綻びを見つけても、声を上げるのではなく冷笑する。
周りの目を気にして声なき声で誰かを笑う。
そんな時代だ。
ただ、そんな時代に俺はあえて声を上げたい。
赤子のように、文豪のように。
晩飯前にアイスを二つ食べる罪深さと背徳感に、「扭」と名付けた。
いいだろ別に。
令和だぞ。
多様性認めてよ。