噓日記 5/23 あだ名という悪魔
あだ名というのは残酷なものだ。
名前からとったあだ名ならまだしも人の肉体的・精神的な特徴を論ってつけられたあだ名はいとも容易く日常に溶け込み、そのあだ名をつけられた人間の人生を蝕んでしまう。
あたかもその特徴的な部分がその人物の全てであるかのように錯覚させる魔力をあだ名は持っている。
それを呼称する人物も、それを呼称される人物もいつの間にかその魔力に充てられて錯覚を重ねていく。
蝕まれるのは日常であり、時間なのだ。
蝕まれた人生では人格がそのあだ名に則したものへと変化し、猫背で卑屈な物語へとハンドルを切ってしまう。
以下に記すのは私が中学生だった頃の、大袈裟ではなく懺悔であり、そして自戒を込めた実話だ。
私のクラスにはやや大柄、オブラートに包んでいうとぽっちゃりとした男子生徒がいた。
彼は何故かいつもフケだらけの頭で、女子生徒からは不潔の代名詞のように扱われ、蛇蝎の如く嫌われていた。
そんな彼も話してみれば案外爽やかなもので、話のテンポも小気味よく、また遊びに誘われたらホイホイと出てきてくれるフットワークの軽さから男子生徒からは好かれており、トータル的にいえばスクールカーストでは中位にあった存在だった。
そんな彼とはよく放課後に出掛けたり、喧嘩をしたり、時には卑猥な話題で盛り上がったりと実に中学生らしく過ごしたものだ。
私はそんな彼にあだ名をつけた。
それは社会の授業中、奉公に出た少年を丁稚というと教師が言ったことからインスピレーションを受け、彼のその持ち前のフットワークの軽さを奉公人のようだと感じた私は丁稚からデッチーというあだ名をつけたのだ。
はじめのうちは、私をはじめとした数人が彼をデッチーと呼ぶようになったのだが、女子生徒がそれを聞きつけ彼を本格的に悪意を持ってデッチーと呼ぶようになった。
するとどうだろう、多くの生徒からデッチーと呼ばれるようになった彼の人格は、いつの間にか彼からデッチーへ、そして丁稚としての人格へと徐々にスライドし始めたのだ。
軽妙だった語り口はカースト上位のものに諂うような時にばかり上手く回るようになり、フットワークが軽い性格は、軽薄で権威主義的な振る舞いに変わってしまったのだ。
デッチーはいつのまにか男子から好かれる気さくなぽっちゃりから、誰からも鼻つまみ者となる不潔なデブに成り下がってしまった。
私が安直にちょっとした小さな悪意を持ってつけたあだ名が彼の学生生活、ならびにその後の人生に深い影を落としたことは間違いない。
現在彼はたまごっちのプロになったそうだ。
あと、彼の考えた新しい妖怪、痔疽(じそ)の研究もしているらしい。
後悔は尽きない。