噓日記 7/21 ジンクスと人生
俺にはガキの頃から信じているジンクスがある。
それは単純明快にして馬鹿らしいものなのだが、マンホールを踏まなければ幸せになれる、といったものだ。
誰に聞いたか分からないくらい昔から、しかしそれを聞いて以来明確にマンホールを避けて歩いている。
同い年の人間が踏んできたマンホールを100とすると、恐らく俺は10も踏んでいない。
それくらい昔から俺はマンホールを踏むことを避けてきた。
そういうジンクスを特段信じているわけでもないが、ガキの頃からの習性とは怖いもので気付けば体に染みついた習慣になっていた。
最近は意図的にマンホールを踏んでみることもあるのだが、その日一日は何故か頭の中を踏んだマンホールと多少の居心地の悪さが残ることもあって俺の中でマンホールを踏むことはもはや倫理観から逸れた行為に近いのかもしれないと感じ始めている。
意固地になって避けてきたマンホールだが、それは俺に幸せを齎したのか?
恐らくそれはない。
平凡か、もしくは平均の少し下。
低空をかろうじて飛ぶ燕のような人生を送ってきた。
これで幸せになっているのだとしたら元々の人生があまりに哀れだ。
では、またマンホールを踏む人生に戻るのか?
それもまた恐らくない。
これが幸せになった状態だとすればこれからの人生があまりに哀れだ。
心のセーフティネットが如く、まるで保険をかけるようにマンホールを踏まないように生きるだろう。
これ以上落ちないように、自分より下を見ないで済むように。
向上心ではない。
地面のマンホールを注意深く見て、明日の自分が上を向けるように願うだけに過ぎないのだ。
俺は幸せなんだろうか?
マンホールをずっと踏んでいた人生と比べて。
それもまた恐らくない。
ガキの頃からマンホールを踏めていたら俺はきっともっと大胆に生きていた。
願うだけじゃなく、幸せを望むだけじゃなく、勝ち取るために歩めただろう。
しかし、ジンクスに傾倒し、生き方に保険をかけて、ジンクスのせいにして自分の人生の責任を取らない。
俺は幸せなんだろうか?
俺はきっと幸せじゃない。
マンホールを踏んで歩む幸せを俺はまだ知らない。
いつの日か、子どもが次へ次へとマンホールを目掛けて走っていく姿を見たことがある。
後ろを行く俺はそのマンホールを右にスッと避けた。
これが多分、分岐点なのだ。
ここで踏みしめていく者と、ここで逃げた者の。
あの日見た子どもたちに次出会ったら教えてやりたい。
「マンホールを踏まなかったら幸せになれるんだよ」
とびきりの呪いを。