噓日記 6/12 サンクション爺さんのインターネット性悪説
ずるをしている人に制裁を加えたい、俺たちの頭はそんなふうにできている。
そんな思いから実行に移された行動を、サンクションと呼ぶらしい。
他人のずるに俺たちは過敏で、他人のずるを許容できず、何時だって監視し合って生きていく。
だから俺たちの間にはいつだって簡単にその過去の過ちを論って、笑いものにして、サンドバッグにしていいと思われている存在がいる。
インターネットという心が渇ききった者が屯する砂漠には、そんなサンクションをぶつける先がオアシスのように点在する。
不貞を働いた芸能人、何かをミスした配信者、事業に失敗した経営者。
彼らが害したのは直接的に俺たちじゃないかもしれない。
なのに俺たちはまるで自分が被害者で、直接傷つけられたかのように振る舞い、物言えず、殴り返せず、立ち向かえない彼らを一方的に正義の名のもとに蹂躙し、それを正しいことだと納得する。
彼らの罪は俺たちがいくら殴っても謗っても、消えることがないことは誰もが分かっていながら、その暴力性を抑えることができないのだ。
同調者しかいないエコーチェンバーの中で、反響し続ける自らの正義が何倍にもその力を強め、その溜まりきった力をサンドバッグにぶつけ、溜飲を下げる、そしてまた正義の力を溜めるループへと巻き戻されてゆく。
そこに本当の正義などないにも関わらず。
だから、見ず知らずの誰かが起こした不祥事に、俺たちは不安定な立場から揶揄するきらいがある。
昭和の名優の不倫騒動には男らしいだのと賛同したかと思えば、令和のジェンダーレスな容姿をした男性の不貞には鬼の首を取ったようにその性自認さえ論う。
俺たちはなんて醜いのだろう。
俺たちはどうしてここまで醜くなったのだろうか。
綺麗な心のまま、綺麗に育っていればインターネットが砂漠だなんて思うことはなかった。
誰かの不祥事をオアシスだなんて思うことはなかった。
俺たちは知り過ぎたのだ。
平安時代の一生で得る情報量を、俺たちは一日で得るらしい。
知らないことでいられる平穏はもはやこの世には無くなった。
情報が溢れるこの世で生まれ、育った時点で俺たちは常に誰かへの攻撃性というどうしようもない罪を抱いて生きていくことが確定するのだ。
誰かを幸せにしたい、誰かに幸せにしてほしい、そんな自分勝手な幻想を抱きながら、その綺麗な言葉を吐いた口と同じ口で、誰かの不幸せを望むのだ。
サンクション。
俺たちに与えられた大義名分かも知らない。
インフェクション。
俺たちの怒気は感染し、伝播する。
インフェルノ。
この地獄で。