噓日記 2/15 パンツと貨幣
パンツと貨幣は同じようなものだと思う。
バレンタインの翌日に書く日記じゃない。
ただ、気付いてしまったからには記しておくのが筋というもの。
パンツも貨幣もその価値を担保されているからこそ、それ自体に価値があると皆が認識しているということに今朝気付いた。
パンツも言ってしまえばただの布切れだ。
そこには元来、フェチズム的な記号の要素は少ない。
だがそれを皆が誰にも見せないように隠して隠して隠し通すからこそ、そこに希少性が生まれ、見られた時に喜びが生まれるようになった。
長い年月をかけてそういう価値観が醸成されてきたのだ。
その希少性と性的要素へのアクセシビリティがパンツの価値の担保として機能している、というわけだ。
俺は今キモいことを書いている。
大丈夫、ちゃんと地獄には落ちる。
話を戻して、そんな具合で貨幣の価値が信用によって担保されるのと同じで、見れないパンツはエッチだという信用によってパンツの価値も担保されている。
今朝それに気付いた時、雷に打たれたかのような衝撃が頭に走った。
パンツと貨幣、そこには大きな違いは存在しないのだと、天啓が如く理解したのだ。
それはもはや理へのアクセスに近い。
アカシックレコードとは案外こういったことを指すのかもしれない。
冷静になって今、逆に考えるとフリーでアクセスできるパンツにはなんの意味も価値もないことに気付く。
例えばパンツ丸出しのギャルが座り込んで下着を露出していたとする。
そりゃあ、ちょっとは見る。
色やら形を確認する時間はある程度取る。
そこはもう仕方ない。
飲み込んで欲しい。
だが、そこに希少さは感じていない。
ラッキーという感覚じゃないのだ。
ええもん見させて貰いましたわ、の感覚。
そりゃあ、ありがとうという思いは抱く。
ギャル好きだし。
でも、レアもんゲットしたぞって感じじゃなくて、スーパーの惣菜が丁度揚げたてだった時と同じ。
ホカホカですねぇってこと。
あら、ええですねの世界。
ちょっと例に出すにはギャルが好き過ぎるせいでテーマがブレた。
饅頭とお茶とギャルが怖い。
詰まるところ、今日の日記から俺は何を唱えたいのか。
なんかサテンみてーなテラテラした素材の豹柄のパンツをギャルには履いてて欲しいってこと。
それだけだ。
あれ好き。
母ちゃんの次に好き。
母ちゃんがあのパンツ履いて唐揚げ揚げてたら究極体じゃんね。
俺の好きなもの一位、二位、三位じゃん。
ちなみに四位は世界平和。
五位は斎藤一。
どりゃあ!