噓日記 5/24 道程
今日も今日とていつもと変わらぬ道を行き、今日も今日とていつもと変わらぬ道を帰る。
高村光太郎が言った「僕の前に道はない」なんて言葉は私の生活が酷く惨めであると私に気づかせる。
私は私が歩んだ道を行っては戻って、行っては戻って。
始発点からその終着点が望める程度の短い直線の上を行ったり来たりしているだけで、私は日々を繰り返す。
力を持たぬまま与えられた役割に真摯であろうとした男がアイデンティティについて不安を覚えるとそこからはもう雪崩のようなものだ。
自己や存在意義、その全てが与えられた場所に依存した役に過ぎず、その場所から外れた時、私を無力に戻してしまうという強迫観念に駆られる。
だから私は今でもその始まりと終わりの見える日常を繰り返し、繰り返し、繰り返し。
そして、日々心を擦り減らし、擦り減らし、擦り減らし。
半ば心を壊しながらも、たったそれだけの繰り返しが私の人生だったのだ。
私の生涯だったのだ。
だから道のない道を歩んでいく、自らが道を作っていくという高村光太郎の言葉が何やら夢を語る若人の言葉のように感じてしまう。
それは言葉が悪いのではない。
私自身が空虚な存在だからこそ、その闇雲に進んでいくという気概がどこか別世界の言葉のように感じてしまうのだ。
私の行動全てに進歩という実感がないのだから、当然といえば当然だろう。
高村光太郎の言葉に投影できない自分の生活がまざまざと見せつけられる。
だから私は酷く惨めになり、それでいてまた惨めな繰り返しへと戻っていく。
胸を痛めつつもその状況を打開しようと手を打つわけでもなく、ただ無味乾燥な往復を定めであるかのように繰り返すだけなのである。
私の生活で高村光太郎のように道程を紡ぐとするならばこうだろう。
僕の前に道がある、僕の後ろにも道がある。
同じ道が。
直視できない自身という社会的な弱者が貧乏ゆすりのように、自らの領域を守ろうと必死に動き続けている。
どうだろうか。
滑稽だろう。
笑ってやってくれないか。
こんな男がいたのだと、衆人環視に私を晒してやってくれないか。
ただ、生きることだけができている。
死んでないだけ。
死んでないだけ。
僕の前に道はできない。
今までも、これからも。
ただ生きることだけが許された領域の中を無様に生きるのだ。
ただ、死んでないだけ。