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噓日記 9/5 集合住宅の一階
集合住宅の一階に何か店舗が入っていると何故だかワクワクする。
これが私だけの感覚なのか、それとも人類普遍の感覚なのかは分からないが、それが私にとってなんとなく自己肯定に繋がるような感覚であるということは確かである。
そこにある生活の香りがどうしようもなく強烈で、それはまるで人間賛歌の如くそこにある生きるという途方もない苦悩への慰めであるかのように思えてならないのだ。
例えば、あるマンションの一階にコンビニがあるとする。
住民たちは何か明確な目的もなくコンビニに行くとなると間違いなくその店舗に入店するだろう。
言わばマンションのエントランスのようなものなのだ。
自宅に入る一つ手前に、コンビニに立ち寄ってから自室の玄関までたどり着く。
その動線がマンション内の人々の暮らしの中に当たり前のように聳えていく様。
また、コンビニのオーナーもそのマンション住民の好みに合わせた仕入れを行うだろう。
生活が誰かの生活と繋がっていく様。
それらが愛おしくて堪らない。
時として、マンションの隣人同士がそのコンビニでまみえることがあるかもしれない。
挨拶をしたことがある仲かもしれないし、顔も知らない場合だってある。
そんな仲の2人が支払いを終えて自室に帰る時、同じエレベーターに乗るのが少しだけ気まずくて意味もないのに集合ポストをいじくり回す時間があるかもしれない。
そんな生活の中の機微、人と人とが触れ合ったり触れ合わなかったりを互いに気遣うそんな瞬間にこそ、人間の生きる姿は宿るのだ。
集合住宅の一階にある店舗には、そんなふうにそれぞれの生活が宿る。
月曜に漫画を買いに来る子ども、夕方には弁当を買って帰る男、深夜にタバコと酒を買いに来る大学生たち。
そんな彼らも今このマンションのどこかでそれぞれの生き方で生きていく。
息づいていく。
社会という集合体の中で、ここまで小さなコミュニティを観測できる場所が現代で他にあるだろうか。
決して密ではない、ただ決して存在しないわけでもない。
細く薄い、しかし確かに存在する縁。
絆というには大仰でも無縁と称するには些か心許ない、そんな近すぎなくて遠すぎない人と人の間に私は命を感じるのだ。
例えそれが私の妄想の産物であったとしても、そのマンションに息づく人々は確実に存在している。
私の中で何かを慰め、肯定するために。
それが自身を生きることなのか、それとも他者を許すことなのか。
まだ私自身が明確には理解しきれていないこの生きるという苦悩に向けた感情だが、私はこの感情を何故だか少し誇らしく思っている。
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