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噓日記 5/22 湯船に浸かること、浸からないこと

湯船に浸かることは何か宗教的な儀式のような厳かさがある。
体の汚れだけでなく、どこか精神の穢れさえも洗い落としてくれるような神聖さを孕んだその動作が日常のシステムに組み込まれていることに、私は言い表せられない人類の叡智を感じる。
しかし、昨今では徐々に湯船に浸からない人々が増えてきている。
それは平均的な世帯人口が減少したことから湯を張るコストよりもシャワーで済ませる方が安上がりなことや、オール電化の推進による弊害で昨今の電気代上昇に対応し切れない部分などが理由に挙げられるだろう。
しかしながら、それらは全て金銭に由来する消極的な選択なのだ。
あえて厳しい言葉を選ぶとするとシャワーで済ませてしまう者は俗物的な者だと断じたい。
彼らは選択肢の中から自身に金銭的ダメージの少ないものを消極的に選択しているに過ぎず、自身にとって最良の選択から視線を逸らしている、もはや盲目的とも捉えられる悪魔の選択を行う愚者なのだ。
私はそんな彼らに出会うといつもあるエピソードを語る。
説教くさくはならないように気を付けてはいるもののも、彼らは最後には畏まったような顔をして今日から湯船に浸かるようにすると報告して帰っていく。
私の母方の曽祖母が昔、湯船に浸からなくなった際、彼らに警鐘を鳴らすような出来事があった。
曽祖母は高齢にも関わらず足腰が強く、毎日百段の石段を背負子を背負って一日何度も往復し、その先の畑で農作業に勤しむような、まぁ一般的という括りの範疇で元気な田舎の老人だった。
しかし、ある日から異様に湯船を嫌がるようになった。
老人性のアルツハイマーでは自身の清潔さについて無頓着になるという知識があった我々家族は、とうとうウチの曽祖母も来たか、と身構えたのだが、当の曽祖母は多少興奮しているくらいで特に湯船以外を嫌がる様子がなく、タオルで全身を拭いてやったりして始めの数日は誤魔化した。
しかしどうしても湯船に入らないのを見兼ねて、父が総合病院に連れて行った。
精密な検査を受けなければならないということからか曽祖母も不安な顔をして私の手を握って待合で待っていた。
暫くして曽祖母はいくつもの検査をたらい回しにされて最終的に医師と家族を含めた面談の席で彼女の病名が告げられた。
狂犬病だった。
そういえば、湯船もだしシャワーを浴びるのも嫌がってた。
もし、この日記を覗き見た者がいるのならば今すぐシャワーで済ませるのをやめることを勧める。
理由?
なんか湯船入ったほうが楽しいもん。

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