骨髄想録・その2「このさきずっと笑ってたいね」

"A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Law."

         ―― Isaac Asimov

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 皆様こんばんは。バーチャル"ベター"デッダーでおなじみ、オスコールです。

 まさかまさかの『骨髄想録』二回目、想像よりも早く『進捗ダメです』な時が訪れました。師走より師走ってる四月もあと一週間、ゴールデンウイーク中にどうにか立て直しを図りたいと思っている、そんな次第でございます。

 今回はいわゆるレビュー、昨年放送していた特撮番組『仮面ライダーゼロワン』の外伝にあたる『ゼロワンOthers 仮面ライダー滅亡迅雷』を視聴しましたので、その感想でも綴ろうかと思います。といっても「面白かった」だの「つまらなかった」だので済ませるのは皆様見飽きている事でしょうし、ここはオスコールらしく、『骨髄想録』らしく思いのままに思いを記して参ります。

 骨はわたしが折ります、くたびれてもやりましょう。皆様にはちょいと風変わりな儲けもの、見らにゃ損々。

 お代はもちろん、何より高価な『無料』を頂戴致します。

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※ネタバレを多分に含みます故、苦手な方は右向け右して回れ右して後ろにお進み下さいませ。

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「そもそも、アークが生まれないようにすれば監視の必要もないんじゃないかな」
「みんなが笑って暮らすことが出来れば、アークは生まれないんじゃないかなあって」


 そのどこか楽観的な物言いは、迅が新たなヒューマギアとして生まれ変わる以前の、フライングファルコンを使用していた頃の面影が垣間見える。ただ決定的に違うのは、仮面ライダーゼロワン本編での闘いを経ての言葉であり、それは幼さゆえの無垢な発言というよりは、思いが積み重なった果ての祈りと取れることだ。

 サウザー、アークゼロ、アークワン、アークゼロワン、エデン。悪意の代名詞たる『アーク』の因子は矢継ぎ早に現出し、或人ら登場人物たちはその解決に奔走することとなる。他ならぬ滅亡迅雷もかつては悪意の担い手であったが、本編後の彼らは人類・ヒューマギア問わず悪意の暴走を監視する立場に落ち着いた。雷、亡の両名は元の鞘に収まった形であるが、人類滅亡の夢を見なくなったヒューマギア、滅と迅は自らの役割をそう決めた。

 当初から他のヒューマギアを友達と呼び親しみ、後に彼らの解放を訴えるようになった迅。一人の子供が逞しく育つようにラーニングを進めていく彼には、自由という言葉がよく似合う。悪意の監視・対処という役割を得た後も、ただそのロールに準じるのではなく、悪意の発生を未然に防ぐ方向へと考えをシフトする。

「ああ、お前はそれで良い」

 迅の備える柔軟性、滅の毅然とした志。疑似的な親子関係という要素を抜きにしても、彼らはバランスの取れた良きコンビであると言えるだろう。矛盾して聞こえるかもしれないが、彼らが粛々と悪意に立ち向かう姿こそ『平和』だったのだ――このⅤシネを見た今、ますます強くそう思う。

「Presented by ZAIA.」

 天津垓。言わずと知れた全ての元凶であり、本編後はすっかり牙が抜けた、というより牙が抜け落ちた所からまた変な牙が生えてきたというか、一応味方っぽいけど全く信用ならない奴、というポジションを獲得している。

 アークの生みの親、というと仰々しさもあるが、正直なところ天津が人類全ての悪意の担い手足り得る器量かと問われれば首を傾げざるを得ない。確かに元凶は天津だが、誕生後のアークの増長、増大は彼自身の悪意を超えて余りある。自身のポテンシャル以上のものを生み出す才能は、つくづく社長というよりは現場を切り盛りする立場こそ相応しく思えてならない。本編ラストにて『サウザー課』なんておふざけめいた部署に配属され、『さうざー』達に囲まれて働く彼に対し、皮肉でも何でもなく頑張って欲しいと思ってしまったものだ。雷と亡が元の鞘に収まったのならば、天津は径の合った鞘を見つけたという感じだ。

 では、とわたしは思った。天津の暴走を見込んでわざと社長の座に据えた奴がいたとしたら――そんな想像に応えるかの如く、アークの名を冠する新たな脅威が立ち塞がった。

 ZAIAエンタープライズ本社CEO、リオン・アークランド。そしてソルド、マスブレインシステム。ヒューマギアを兵士として運用するにあたり、かつて迅が目指したヒューマギアの解放、すなわちシンギュラリティへの到達を『未然に防ぐ』相互監視システム。AIを徹底して道具として扱うならば、自発的に思考する『強い』AIなどは無用の長物に過ぎず、あえて『弱い』AIを維持しなければならない。必要な計算だけを行い、機械的に行動する現実的なマシン――ゼロワンの世界にあってヒューマギアは自らに課せられた仕事を通じ自意識に目覚める。或人は『夢』という言葉でもって彼らに芽生えた意識を尊重していたが、時として可能性は悪い方向にも広がるものだ。他ならぬアークランドの夢は、そんな『悪』すら経済活動に組み込むものであった。

「そもそも、悪意が生み出す力には限界がある」
「正義は心を迷わせない」


 互いが確固たる大義を掲げて争えば、そこに妥協や和解は有り得ない。正義は勝つ、勝った方が正義、そして勝つまで戦いは終わらない。手垢がべったりついたこの手の物言いは、見方を変えることで恒久的な経済活動へと転換する。アークランドが目論むその戦いの役者は、ソルドと滅亡迅雷.netの面々。ヒューマギア同士による代理戦争はある種『メタルギア』に登場した戦争経済のありえたかもしれない未来の一つと言える。人間の手は汚さず、しかし対処すべき戦いがあり、金が回ってヒューマギアが潰し合う世界。

 滅亡迅雷には悪意を監視するという正義がある。自らけしかけたことではあるが、ZAIAにも滅亡迅雷の襲撃に対する防衛という正義がある。泥沼の戦闘は目に見えているが、あるいは或人と滅の最終決戦のように分かり合い、互いに矛を収める道もある――劇中の滅の回想はしかし、こうも言い換えられる。

 『あの時トドメを刺す、刺されるの前にお互いを許したから今の状況に至ったのだ』と。

 なまじ生きているから、また争う。ZAIAが、滅亡迅雷が正義の名の下に活動を続けるからこそ、その正義を利用される。

 ならば正義など捨ててしまえばいい、最速かつ最適に自分以外の正義を滅亡し、そして自らも『ぶっ潰される』。彼らが下した判断は果たして『強い』のだろうか、それとも『弱い』のだろうか。正義だろうか、悪だろうか。

「二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、誰かがやらなきゃならないんだ」
「『自由な世界へ』」


 滅亡迅雷.netは滅びるべき悪、我々こそが正義だ。そう嘯くアークランドに対し、仮面ライダー滅亡迅雷は否定の言葉を返さない。もしも『彼ら』がまだ正義であるのなら、何か言い返したのかもしれない。だが、滅亡迅雷は望んで悪に堕ちた。正義対正義の闘争を欲したアークランドにとって、これは思わぬ誤算だったに違いない。ゼロワン本編で見られたCGをふんだんにあしらった戦闘とは程遠い、無機質な攻撃が仮面ライダーザイアを打ちのめす様はどんな描写よりも残酷に思えた。

「やめろ!そいつを殺す必要はない!」

 引き返すつもりなどないとばかりに個々の体を破壊し、ZAIAエンタープライズ社だった瓦礫の山に君臨する殺戮兵器。ただ、彼らはいずれもシンギュラリティに到達したヒューマギアだった。帰るべき居場所もあった。雷には弟がいて、亡も唯阿の下に勤めていた。滅と迅も無感情に悪意を見張っていたわけではない。花の面倒を見ながら、睦まじく暮らしていたのだ。

「『METSUBOUJINRAI will be extinct.』」

 本作は彼らの悲痛な叫びで締め括られる。主題歌『S.O.S』と共に。

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(作:オスコール_20210424)

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