【so.】荘司 直音[5時間目]
「いまからホームルームを始める」
三条先生が壇上より緊張の面持ちで宣言する。早速空腹についての訴求を新藤氏は試みた。
「せんせー昼ご飯は?」
「このあと5時間目をその時間にする」
わたしは今朝コンビニエンスストアのオーゾンで購入した握り飯の昆布味とおかか味が無駄にならないことに安堵した。
「ハセベのおばちゃんが帰っちゃうよ!」
毎日昼にパンの行商へやって来るハセベのパンを何度か購入して食したことはあるもののそれほど美味とは感じなかったため火急の時分以外は頼りにしないようにしている。
「ハセベさんにはさっき5時間目が終わるまで待っていてくれるよう頼んでおいたから安心しろ」
「マジか~。じゃあ5分でおわろ!」
「そうはいかない。君たちに聞きたいことがあるからだ」
5分で終わらないとはこのホームルームは長くなるのかと嘆息した。わたしはスマートフォンを取り出して1時間目のあとに録音した音声を波形編集アプリで展開した。細田氏の喋りの波形が断続的に表されている物を無音の部分を切り落として個別のデータへ切り分ける作業を暇つぶしに行うことにした。
「こないだ面談やったじゃないっすかー」
和泉氏が不満げに吐き捨てると三条先生はその意図を否定する。わたしは話へ聞き耳を立てながらも波形の編集作業を続ける。
「年末の件はもういいんだ」
「いいってどういうことですか」
埋田氏が先生に発言の真意を尋ねる。わたしの行っている音声データの編集作業に何の意味があるのかと問われるとありませんと答える他ないのだけれどスマートフォンのアプリでこういった仕込み作業が行えるという数式を自分の中にインプットしておくことで未来において突然にそういった技術を必要とされたときに披露できる機会が訪れるのではないかと思うのだ。
「…えっとな、さっき人体模型が落ちてきたな」
やはり人体模型の一件かと思い先刻の栗原氏の言動の不可解さがやはり思い出される。あまり感情を表に出すことが得意ではないカーストに属する仲間として認識していた栗原氏の見せた感情の片鱗はわたしをあらぬ疑いへ導いていこうとする。
「山浦が犯人ー?」
「…まだ分からない」
「三条先生、でも、山浦さんだけいません」
和泉氏の発した山浦氏の不在を委員長が追認したことでその疑惑が深まるのを感じる。栗原氏はカーストが上の山浦氏と幼馴染みだと聞いたことがある。もし仮に山浦氏の犯行だったとした場合に栗原氏がそれを知っていたとする場合にのみあの感情の露出の理由として腑に落ちる。
「…そうか」
三条先生もそれを否定しない辺り山浦氏へ対するその心理が窺われる。
「山浦さん、面談のあと、怒って帰ってきましたけど」
埋田氏は山浦氏の擁護のつもりなのだろうか。
「えっとな、山浦の件はあとで説明するから、まず俺の話を聞いてくれ。君たちの中で、裏サイトってものを知ってるのは何人くらいいる?」
裏サイトと言われてその存在は当然知っていたものの本学に該当する物まで存在したとは思い至らず己の不覚を思い知らされる。
「何それー」
新藤氏は適当な相槌を打った。
「匿名で誰でも書き込めるネットの掲示板のことなんだが、このクラスの掲示板もあってだな」
「先生」
教室後方から消え入りそうな弱々しい声が上がる。
「なんだ」
「もう、郷さんのことがあって、さっきの人体模型落とすような酷いことがあって、これ以上、刺激の強いこと、やめてください…」
細田氏が不調を訴えている。
「いや、なんというか」
「先生、先生、ほんと、ワタシ、つらい…。さっきから気持ち悪くて吐きそうなんです」
そう言うと細田氏は嘔吐する素振りを見せたものの空振りに終わった。
「大丈夫か。ちょっと隣の席だから悪いけど、伊村な、細田を保健室まで連れて行ってくれないか」
「…わかりました」
伊村氏は細田氏に肩を貸してゆったりとした足取りで教室を出て行った。いまこの間だけでもmPlate proを愛でさせてくれないものかと妄想する。不可能な願望は何度輪廻転生をすれば可能となるのだろうか。
「他の者も気分が悪くなったりしたら、遠慮せず言うように。それで…どこまで話をしたか…」
すぐに委員長が補足する。
「このクラスの裏サイトについてです」
「そうだ。えー、実は先生は前から裏サイトの存在を知っていたんだけれど、取り立てて問題視はしていなかった。でもな、今日の書き込みの中に、看過できないような物があったんだ」
「カンカってなんですか?」
岡崎氏が尋ねる。看過できないというと何か犯罪的な文言なのではないだろうか。わたしは音声ファイルの切り分けを続けながらも話へ耳を傾け続ける。この作業が全くの無意識に行えるようになればレベルアップではないかと思う。
「殺害予告じみたものがあったんだ」
三条先生がより具体的に言うと青江氏が小さな悲鳴を上げた。
「いいか、ちょっと気分を悪くする者もいるかもしれないけれど、読み上げるぞ。…やってやるやってやるやってやるよ見とけよ。この書き込みが午前中の最後の書き込みだ。そして人体模型が落ちた」
これは犯行予告という奴だ。予告を成就させた時点で犯人の思惑は達成しているのだけれど殺害予告と形容するには程遠い。
「じゃあ山浦が書き込んだんだ!」
和泉氏が不在の山浦氏を犯人に決めつける。真犯人のスピンかもしれないので胡乱な断定は避けるべきではないかと思う。
「…あくまで可能性が高い、推測の話だ」
三条先生は和泉氏の推論に乗らなかったものの否定もまたしなかった。
「推測で犯人扱いするんですか」
埋田氏はそれを詰る。
「決まりじゃん」
和泉氏は憎々しげに言うが三条先生は話を続ける。
「大事なのはな、この後なんだ」
「先生ソレどうやって見んの?」
福岡氏がスマートフォン片手に尋ねた。これだからスマートフォンを有効活用できない御仁には無用の長物であるという持論が強化される。非文明人はガラケーやポケベルないし電報を使用していれば良いのだ。
「わざわざ見なくてもいいぞ。今から読み上げる。…えーと、田口、お前の名前が出てくるからな」
「は? ワタシ?」
油断をしていたらしい田口氏が素っ頓狂な声を上げた。
「えー、行くぞ。…田口もたまにはいいこと言うわ。ホント死ねば良かったのに」
「何だよそれ! ふざけんな! 誰だよ!」
田口氏の咆哮が響き渡る。先刻に埋田氏による殴打の瞬間が思い出される。田口氏の頬を打たれた理由は某に対して死ねば良かったと言い放ったことでそれが埋田氏の逆鱗に触れたのだと推測できる。するとその某は山浦氏のことではないのか。
「落ち着いてくれ。次にもうひとつ書き込みがあって終わってるんだが…読むぞ。…それじゃあまずあんたから殺してやるよ。特定したぞ」
「きゃああ!!」
青江氏がより大きな悲鳴を上げた。
「せんせーもうやめよう。怖いよ」
野田氏も動揺して言う。
「書き込みはここまでだ。俺だって全員を集めてこんなの読みたくなかったけどな、殺害予告があったらもう事件になるんだ」
「じゃあ、今から犯人捜しをするんですか?」
委員長が面白そうなことを言う。現時点で容疑者として疑わしいのは不在の山浦氏のみとなるが人体模型落下事件の予告と実行の後にそれを揶揄する書き込みに対して殺害予告を下したというのは果たして筋が通っているのだろうか。
「別に魔女狩りをするんじゃないんだ。ただ、起こるかもしれない事件を阻止したいだけなんだ。だからみんなには衝撃的だったかもしれないが、明らかにした。それで聞きたいんだが、この書き込みに心当たりはないか?」
誰も何も答えない。それはそうだろう。犯人がこの場にいなければ名乗り出るはずもないしこの場にいたとて名乗り出る訳がない。そんなことをしたら予告した犯行ができなくなってしまうからだ。
「まあ、自分が書き込んだとは名乗り出たりしないよな。じゃあ、その一つ前の書き込みのことが分かる者は?」
一つ前というと死ねば良かったのにという田口氏の暴言へ同調するような内容だった。
「ジョーさー、すっげ気分悪いんだけど」
田口氏はその後に埋田氏に殴打されたことを思い出されるのが不愉快なのか不満を口にする。
「保健室行くか?」
「そういうのじゃねーんだよ!」
もはやゴロツキであり速やかに暴対法を適用すべきである。
「この発言に心当たりは?」
問われた田口氏は答えない。
「ヨシミちゃんごめん。先生、これは、さっきの体育館からの帰りの廊下での発言です」
神保氏が堪りかねて真相を告白する。
「ついさっきじゃないか。何があったんだ」
「もういいって!」
発言を抑え込もうとする田口氏の圧力も虚しく福岡氏が曝け出した。
「山浦だけがいなかったから、人体模型を落としたのが山浦じゃね?って話になったら、ヨシミが言ったんす。ホントに死ねば良かったって」
やはり山浦氏に対しての発言だったのかと自分の推理が当たっていたことに少し嬉しくなる。
「そしたら埋田さんが来て、ヨシミにビンタして」
「本当か埋田」
思わず埋田氏へ確認する三条先生だが埋田氏は回答を拒否した。
「言いたくありません」
「しただろうがよ!」
またもや田口氏が恫喝して教室は緊張に包まれる。もはや修羅の国である。
「それでだな」
三条先生は努めて議題を戻そうと試みる。橋本氏がさながら名探偵のごとく述べた。
「ねえ先生、この書き込みした人は、あの場で、会話が聞こえる位置にいた人ですよね。私は離れたところ歩いていたから、埋田さんの言ったことしか聞こえなかったです」
「じゃあ、その時、田口の周りに誰がいたか、誰か覚えてるか?」
三条先生が皆に問いかけて返ってきた答えは福岡・津田・大和・神保・細田・中島・新藤・他数名(敬称略)とのことだった。
「他にこの会話を聞いてたっていう者は?」
見回すと埋田氏がただ一人手を挙げている。
「せんせーさー、最後の書き込みしたやつを特定しないといけないんじゃないの?」
和泉氏が考え無しに言うと橋本氏が諫めた。
「それが難しいから、狙われそうな方を特定した方が防げるってことじゃない?」
「ああ、そうだ。だから今、田口の発言を聞いていた者を探してるんだ」
三条先生が纏めると今度は新藤氏が考え無しに発言する。
「えーじゃあジンさんが殺されるかもしれないってこと?」
「嫌っ!」
誰かが悲鳴を上げた。なにごと? わたしは継続して行っていた音声の切り分け作業が終わったので音声編集アプリを終了させてスマートフォンを制服のポケットへ入れた。
「好き勝手に発言するなー。いまこうやって全員集めているからそんなことはさせない」
「山浦が殺しに来るんでしょー?」
「黙れ!」
悪辣な野次を連発していた和泉氏は遂に三条先生の反撃を喰らった。天網恢々疎にして漏らさずというアレである。
「…悪い。ちょっと先生も初めての事態で焦ってる」
「三条先生。この、殺害予告をした人物は、郷さんも殺したって事は考えられないんですか?」
委員長が新たな観点を提唱する。
「郷は自殺なんだ」
「何故そう言い切れるんですか?」
先生は面倒くさそうに委員長を一瞥すると投げやりに言い放った。
「理由がない」
「理由なら、終業式の前の日に、郷さんのヘアピンがなくなる騒ぎがあったじゃないですか」
埋田氏が新情報を提供した。
「何それ。そんな話、初めて聞いた」
「えっ、ヘアピンって…何? どゆこと?」
委員長と岡崎氏が次々に感嘆の声を上げる。わたしのような下々の者が知るはずのない情報だ。暫くの沈黙があった後に大和氏が口を開いた。
「終業式の前の日のね、4時間目の体育の後、サトミちゃんがね、ヘアピンがなくなったってパニックになったの」
体育が終わると素早く着替えて川部氏と退出したので言わずもがなそんな出来事を知る由も無い。
「初めて聞いたんだけど。えっ、みんな知ってたん!?」
「私も知らなかった」
岡崎氏と月山氏が存じ上げない様子であるのを見るとこれは放課後になっても教室へ残っていられるメンタルを抱えた陽キャのみが知りえたアンタッチャブルな領域の話題だ。
「その時教室に残ってた者だけが知っていることだ」
「ちょっとワタシも知らないんだけど!」
陽キャの代表格である田口氏が不可解なことを言う。
「あのね、サトミちゃんが、あの日休んでたヨシミちゃんには黙っててって、何回も言うから、みんな言えなかったんだよ」
なんてことはない欠席だっただけだった。
「じゃあ、郷さんそれが理由で自殺したわけ!? 盗まれたってこと?」
岡崎氏はその心性が理解できないと困惑の声を上げる。わたしはヘアピンなどの装飾品をたちばな市随一の盛り場ゼノンモール橘にある100円ショップにて購入しているくらいなのでやはりその程度の価格と命の価格は釣り合わないのではと不審に思う。
「落ち着けって。みんなも知ってるように、次の日の朝に大和が、郷を発見して俺に知らせてくれた。それで警察を呼んで遺体を調べたら、制服のポケットにヘアピンが入っていたのが分かったんだ。それは葬式の時に、田口にも確認してもらったよな?」
三条先生に同意を求められた田口氏は何事か口走ったが遠くてよく聞き取れなかった。
「え。っていうことは、盗まれてなかったってことですか?」
野田氏もまた困惑して声を発する。無くなったとして騒いでいたヘアピンが翌朝に発見された遺体のポケットに入っていた論理矛盾は誰かが嘘をついていなければ論理的整合性が取れないのではないかと思う。誰かが誰かを騙していると思うと急に何か事件性を帯びてくるように感じる。
「だからな、みんなに面談で話を聞いたけれど、いじめがあったわけじゃない。郷の遺書が残っているわけでもないから理由は分からないけれど、ヘアピンを盗まれたのが理由じゃないってことは、確かだ。ご家庭の事情のことまでは踏み込めないけれど、それが理由なんじゃないのか」
三条先生にとって郷氏の自殺はご家庭の事情に因るとすればクラスのいじめやそれによる監督責任といった諸々の責任を問われずに済む。しかしまさかそんな理由で自殺の原因を外部に求めているとは思いたくないが。
「せんせーこのホームルームいつ終わる? もう腹がぺっこぺこなんだけど!」
新藤氏にとっては依然として空腹が目下の一大事らしい。
「もうちょっと我慢しろ。まだ5時間目の最初だろ」
「もーむりー」
新藤氏は机に沈み込んでしまった。わたしは「貴様は空腹では無いのか」と問われれば否定することは出来ないけれど新藤氏のようにああやって態度に出すほどの蛮勇は持ち合わせていない為その葛藤を専ら自らの内で解決せねばならない。新藤氏の図太さが時に羨ましく感じる時もある。
「みんな協力してくれ。そしたら早く終われる。他に何か、思い当たることはないか?」
「サトミのこと?」
福岡氏が尋ねると三条先生は否定した。
「いや、書き込みのことだ」
「先生。あの」
今度は津田氏が口を開く。
「なんだ、津田?」
「さっき、体育館の裏で、猫が死んでて…」
猫殺しとは先ほどの裏サイトでの殺害予告が急にリアリティを持ち始めてくる。なるほど確かに今が緊急事態だなと再確認できる。
「それ何の関係があんだよ」
和泉氏は辛辣な言葉を津田氏へ浴びせる。
「あたしも一緒だったけど、猫が殺されてたっぽい」
福岡氏がフォローすると委員長が尋ねた。
「どうして分かるの?」
「誰かが猫を拾ってきて、体育館の裏に段ボールで家を作って飼いだしたの。で、みんなで餌をやったりしてたから」
「ちょっとそれ顧問の先生が許可したの?」
「今そんな話じゃないっしょ委員長。その猫が、変な物食べさせられて死んでたのを、さっきあたしとつだまるで見つけたの」
黙ってやり取りを聞いていた三条先生はひとつ尋ねた。
「それはいつの話だ?」
福岡氏が答える。
「昼休みの前」
「昨日の放課後は猫ちゃん元気にしてたのに…」
津田氏は泣きそうな声で言う。
「だからさあ、猫と殺害予告と何の関係が」
和泉氏はまだ理解できないようで苛立って言うと橋本氏が一般論を優しく説明してあげた。
「あのね、猫を殺した人間って、だいたい次に人間を狙うの」
「もうやめてよぉぉぉぉ」
青江氏が凄い声を発すると両耳を両手で塞いで以降の尋問を拒否する姿勢を構えた。
「待って、体育館の裏?」
曽根氏までもが何か思い当たったことがあるらしく口を開く。
「うん、バスケ部の部室の裏」
「…あの、何の確証もない、ただ見かけただけの情報でもいいんですか?」
曽根氏に尋ねられた三条氏は表情ひとつ変えず答えた。
「それは聞いて判断する」
「朝に、体育館裏から伊村さんが一人で歩いてくるの見たんです」
伊村氏が淡々と語る。
「伊村は弓道部だろう? 部室から出てきたんじゃないのか?」
三条先生は当然そう思うであろう答えを返す。
「だって私、弓道部の部室から出てきて見かけたんです」
曽根氏の返答にはさすがに伊村氏への疑惑が一気に噴出してくるような感覚を覚える。クラスのトップ3を争うくらいの秀才ながらそれなりに運動もこなし文部両道。しかしながら無表情で感情を表すことの少ないその御仁なら例えば猫を人知れず殺害していたとしてもおかしくはないというかそれを否定できる材料がまったく見当たらなかった。
「先生さー。この写真、おかしくない?」
いつの間にか一眼レフをいじり回していた岡崎氏が声を上げる。
「何か撮ってあるのか?」
「私、卒業式前日の、体育の授業の前に、適当に写真撮ってたんだけど」
そう言うと岡崎氏は立ち上がって教卓へと歩んでいく。田口氏と埋田氏も立ち上がりそれを見に行った。
「…なんだこれは」
三条先生が絶句した後絞り出すように言った。
「だから体育の前だって。ナオがヘアピンをポケットに入れる所が写ってるんだけど、これサトミちゃんの机なんだよ。私も今朝、栗原がこの写真をパソコンに表示するまで気がつかなかった」
終業式の前日に郷氏の机の前で細田氏がヘアピンをポケットに入れていた瞬間であるならばこれはもう決定的な証拠だ。
「ナオがやってんじゃん!」
「盗んでたんだ!」
田口氏と埋田氏が次々に叫ぶ。
「…いや、でも、首吊った時のポケットには、入っていたんだぞ? 何かの間違いだろ」
三条先生は安易な断定を戒めるように言うがそこへ橋本氏が更なる新情報を叩き込んだ。
「先生。郷さんの遺体の第一発見者なんですけれど、大和さんだけじゃないでしょう」
「…何を言ってるんだ?」
探るような三条先生の言葉を無視して橋本氏は大和氏へ向かって語りかけた。
「ねえ、そうなんでしょ?」
しばし間が開いて大和氏は白状した。
「…ハァ。そう。わたし、終業式の朝、下駄箱で出会ったナオと一緒に教室に入ったんで、ふたりでサトミちゃんを見つけたんです」
「おい! なんでそんな大事なこと黙ってたんだ!」
叫ぶ三条氏へさらに田口氏が噛みつく。
「あんただってヘアピンのこと黙ってただろ!」
「うるせえっ!」
三条先生の一喝で教室は静まりかえってしまった。その静寂を果敢に破るのはやはり委員長だった。
「先生。怒鳴るのはやめてください。それで大和さん、だったら終業式の朝、あなたが先生に知らせに行っている間、細田さんはどうしてたの?」
冷静さを欠いた三条先生に代わって委員長が大和氏へ尋ねる。
「え、考えたことなかったけど…。なんか、わたしの手柄にしたらいいじゃんって言うから、わたしが先生に知らせに行って、先生と戻ってきた後に、初めて見る感じでナオが教室に入ってきた」
手柄とな。クラスメイトが首を吊っていた件を知らせに行くことが手柄になるのか。歪な人間関係を目の当たりにしたようで悶々とした思いが去来する。
「…つまり、大和さんが先生に知らせに行っている間に、細田さんは前の日に盗んだヘアピンを、郷さんの遺体のポケットに戻すことだって出来たわけですよね?」
橋本氏は探偵さながらに推理を披露すると和泉氏はまったく理解できずに性急な結論を繰り出した。
「じゃーナオがサトミ殺したってことじゃん!」
度重なる和泉氏の流言飛語に堪忍袋の緒が切れたらしい田口氏がその喉笛へ強かに噛みついた。
「さっきからうるせーんだよおめーはよ! じゃあなんでワタシがサトミを殺したって噂をあんたが流したことになってんだよ!」
「だからそれは、ナオがわたしのせいにしたんだって」
一転して守勢に回る和泉氏の惨めさを哀れに感じる。しかし待てよと思う。1時間目の後に雪隠で偶然ながら録音していた個室外の音声が図らずも和泉氏の無罪を証明できるのではないかと思い浮かんだ。ホームルームの最中に切り分けていた音声データはわたしのスマートフォンの内部で既に細田氏の発言ごとに頭出し出来るようになっている。
「証拠があんのかよ!」
体に電撃の走るような思いがする。間違いなく和泉氏の窮地を救う証拠を提出出来るのは今この瞬間わたし以外にはあり得ない。その一方で今まで和泉氏から被った数々の卑劣な扱いに対して憮然たる思いを覚えた瞬間が思い起こされる。体育の授業中にサッカーでディフェンダーだったわたしは飛んできたボールに対して目を瞑りヘディングした所オウンゴールを決めてしまい同じチームに割り振られていた和泉氏の発した「ボール見えねーんならコンタクト付けろよ」という一言。修学旅行で山道にて遭難しかけて集合時間に大幅に遅れて到着した時に言われた「目立たない奴が目立つ行動すんなよ」という一言。他にも挙げればキリがない位の不愉快な諸々。それでもわたしは和泉氏の窮地を救う銀の弾丸を持ち得ている以上それを撃つ以外の選択は採れないと思えた。
「あの、証拠なら、保存しております」
わたしは可能な限りの力を振り絞って声を上げた。
「…は? なんであんたが出てくんだよ」
田口氏の睥睨に狼狽してしまう。もはや反社会的存在であり破防法を適用すべきである。
「す、すみませぬ」
「証拠ってなに? 教えてよ」
和泉氏がいつになく親しげに話しかけてきてそれはそれで戸惑ってしまう。致命か救命かの瀬戸際ではそのような態度になるのも致し方ないのかもしれないが。
「は。ええと、今日の1時間目のあとに、拙者、雪隠へ赴いたのですが…」
「さっちん?」
突然中島氏が声を上げると間髪入れず新藤氏も発声して驚愕してしまう。
「パン食いてー!」
戦場へ本意ならぬ参戦を果たしたもののやはり場違いであったと後悔すること頻りである。
「うるさい! そんで?」
和泉氏は血走った目でこちらを見据えていて今更退却することも叶わぬことを思い知らされる。
「ええと、個室の中で、たまたま、たまたまなんですが、私、音声を録音できるアプリを作動させまして…」
「ちょっとコイツ何言ってるかわかんねーんだけど」
田口氏がオーディエンスへ向かって声を上げる。もはやならず者国家であり経済制裁を課すべきである。
「誰かの会話を録音したってこと?」
和泉氏は努めてわたしから情報を聞き出そうとしているのが分かる。
「さよう。これをお聞きください」
わたしは先刻より編集していた音声データの入ったフォルダを開くとスマートフォン側面の音量ボタンを押し続け最大音量へと変えた。選び出したファイルの再生ボタンをタップすると細田氏の発言が響き渡る。
再生が終わってしまう。これではないこの次だ。わたしは次のファイルの再生ボタンをタップする。
興奮した様子の細田氏の発言を聞いて和泉氏は嬉しそうに言った。
「これだ! これだよ、わたしが朝、ナオに変な質問されて、答えたんだ」
「おいメガネてめー、これ、ホントだろうな?」
田口氏が恫喝してきた。
「さ、さすがに細田氏の音声合成するアプリはありませぬ」
必死に弁明をすると田口氏は小さく舌打ちをすると余所の方へ向き直った。
「ナオがイズミンのせいにしようとしてたのは分かったよ。でも、なんでそんなことしたんだ?」
福岡氏が疑問を述べると橋本氏が推理した。
「細田さんが、自分への疑いを反らしたかったんじゃ、ない…かな?」
それを受けて埋田氏がさらなる推理を述べる。
「っていうことは、サトミちゃんが死んだのは、細田のせい?」
「静かに。仮にそうだとしよう。俺がいま問題にしているのは、裏サイトで殺害予告がされたことだ」
三条先生にとって優先順位が高いのは年末の事件への細田氏の関与よりも眼下の殺害予告を阻止することであるらしい。
「先生、この、ヨシミについて書き込んだのって、ナオなんじゃない?」
裏サイトの書き込みを追っていたらしい津田氏が声を上げると和泉氏も同調した。
「ありうる。つーかさー、このログ読み返してると、明らかにナオの書き込みって、分かるよね」
「あたし何が書いてあんのかわかんねーから説明してくんねー?」
スマートフォンでウェブ閲覧が覚束ない様子の福岡氏は解説を求めた。貴殿は無線で通信するのがお似合いだと思う。
「ログを見ると、サトミの自殺の後から、やたらそれを茶化すような書き込みがあって、それがナオだと仮定すると、異常にしっくりくる」
「じゃあ、最後の書き込みの特定したっていうのは、細田さんだと特定したってこと…」
橋本氏が自分の推理の行き先が恐ろしくなったかのように徐々にトーンダウンしながら口にすると三条先生は大きな声で言った。
「狙われるのは、細田ってことか!」
「先生! 伊村さんが細田さんを保健室に連れて行って、どれくらい経ちますか!」
委員長が先生に問うと同時に橋本氏と神保氏、佐伯氏、福岡氏、大和氏、和泉氏といった面々が席を立ち教室を飛び出していく。
「堀川! みんなを教室から出すな!」
委員長へ言いつけると三条先生も慌てたように教室を出て行った。入れ替わりに教卓へ立つ委員長に向かって新藤氏は悲痛な訴えをした。
「委員長! もう昼にしよう!」
「だめです! みんなを教室から出さないように言われたので」
「じゃあ何するの」
中島氏も苛立ったように言う。
「先生が戻るのを待ちます」
「もうむり。今からパン買いに行く!」
新藤氏は敢然と立ち上がった。
「だめ!」
「私以外にこの空腹を救える者はありえない!」
新藤氏が決意の程を高らかに宣言する。
「委員長、これもう止まらないよ。諦めて」
中島氏は一蓮托生とばかりに席を立った。
「お願いだから!」
委員長の懇願虚しく新藤氏は有志を求めた。
「パンを求める者は私について来いっ!」
「いえい!」
野田氏が立ち上がる。
「ごめん委員長、私ももうおなかが限界」
続いて岡崎氏と、無言で曽根氏も立ち上がり5名は教室を出て行った。
「どうしてみんな私の言うこと聞いてくれないのよぉ…」
委員長は消沈して教卓に顔を沈めてしまう。
「いいんちょう、大丈夫。まだ大勢残ってるよ」
青江氏が優しい言葉をかける。
「パン買ったら戻ってくるでしょ」
田口氏もそれなりの言葉をかける。
「部長ー、みんなでお弁当食べよー」
平氏がのほほんと言うと津田氏が嬉しそうに言った。
「さんせー!」
「それは」
「部長、いま最善の指示は何?」
橘氏が委員長に決断を促した。しばし考えた後に委員長は諦めたように言った。
「それじゃあ…みんな…お弁当にしましょうか」
朗報だ。さっそく鞄からオーゾンで購入した昆布味とおかか味のおにぎりを取り出す。更に番茶の入った水筒を取り出すと机の上へ広げて食べ始めた。わたしも人並みに空腹ではあったので染み入るようだ。もしゃもしゃと咀嚼する音すら心地よい。教室では津田氏が田口氏の隣へ移動した以外は皆おとなしく自席にてめいめいの昼食を摂っている。
「えっ、ちょっと待っ」
井上氏が突然慌てた様子で声を発する。
「まこちん、どしたのー?」
青江氏が呼びかけるも井上氏はうなだれたまま動かない。
「まこちん? まこちん!」
青江氏が必死に呼びかけ続けると井上氏は勢いよく起き上がって言った。
「ちがうちがう! ちがうの!」
「まこ…ちん?」
「つぐちゃん、私、郷。郷義弓。ちょっと信じられないだろうけど、サトミが井上さんの体を借りてるの」
死んだはずの郷氏の幽霊とは面妖な。
「井上テメー悪い冗談やめろよ!」
田口氏がまた恫喝する。
「ヨシミちゃん、まこちんはそんな冗談言うコじゃないよ?」
青江氏はそれを庇った。
「ありがと、つぐちゃん。私、死んでた。死んでたんだけど、それに気づかないまま、この教室にいたんだ」
「ほんとに…あなた、サトミなの?」
埋田氏が半信半疑で尋ねる。
「サエさん! 今はただ信じて欲しい。私、みんなに伝えたいことがあるの」
「井上さん? 郷さん?」
委員長も困惑して声を掛ける。
「今はサトミでも郷でもいいよ、委員長。私、ナオちゃんが私を殺したことにされちゃってるの、どうしても訂正したくって、いまこうして井上さんの体を借りたんだ」
「ほんとに…サトミなの? なんで井上なの…?」
田口氏は混乱しているようだ。まあ自死した朋友が唐突に現れたとしたらイタコでもない限りそれを信じろという方が難しい。
「私ね、自分が死んだことに気がついてもいなかったんだけど、それに気がつくまでずっと、井上さんだけが私のことを見えてたの。霊感が強いのかな? だから、試してみたら、乗り移れたんだ」
「まこちん…じゃないの? サトミちゃん?」
「そうなの、つぐちゃん。久しぶり!」
「サトミちゃんー!」
青江氏は泣きながら井上氏の姿の郷氏と抱き合った。感動の場面なのだが双方とそれほど親しいわけではないわたしは泣いた方が良いものか考え込んでしまう。
「サトミ! 伝えたいこと…って、なに?」
埋田氏が郷氏の蘇りの理由を尋ねた。
「そう…。あのね、私はナオちゃんに殺されたわけじゃないの。それだけ言わないと…って思って」
「なら、なんで!?」
津田氏の言葉に被せるように田口氏が強く言った。
「なんでワタシに断りなく死んじゃったんだよ!」
田口氏は涙を流しているようだ。
「ごめんねヨシミちゃん。私、実はみんなと同級生じゃないんだ…」
「はぁっ?」
津田氏が奇妙な声を発した。
「あの…どういうことか、説明してもらえます?」
橘氏は郷氏へ説明を求める。
「もちろん。そうさせて」
「郷さん…。あなた、同級生じゃないっていったら…13年前の…?」
委員長が歴史の蓋を開いた。
「さすが委員長、その通り。私はね、13年前、2学期の終業式にこの教室で自殺したの」
わたしはまことしやかに語られていた噂を思い出して感嘆の声を発した。
「あ…この学校の、黒歴史ですな!」
「何よそれ。知らないんだけど」
田口氏が声を上げると月山氏が説明をする。
「たしか13年前にこの学校の生徒が自殺して、それ以来この学校の人気がなくなったって噂の…」
「はは…そういうことに…なるのかな」
郷氏は自嘲的に言った。
「もうつまんねー冗談やめろよ井上!」
田口氏は泣いたり怒ったり情緒不安定である。
「ヨシミちゃん、サトミちゃんだよ? わたし、わかるの」
青江氏は完全に郷氏を信じ切っているのか田口氏へ語りかけた。
「わかんねえよ! なんなんだよ! なんでサトミが死んじゃうんだよ!」
田口氏は声を上げて泣いている。
「ヨシミちゃん、ごめん。私あんまり時間がないみたいだから、とにかく説明するね」
「郷さん。13年前に亡くなったあなたが…なぜこのクラスに…?」
委員長が気になっていたことを尋ねる。
「うん…。私ね、死んでからずっと、ずっとここの教室にいたんだ」
「えっ。おうちは?」
平氏が思わず尋ねる。
「ねぇ、不思議でしょ? 朝になるとここにいて、そのままここから出られないの…」
「嘘よ! だって一緒に帰ったりしたじゃない」
埋田氏がその言葉を否定した。
「うん、それはね、私がみんなに魔法? みたいなのを掛けちゃってたんだんだと思う」
わたしは興奮して尋ねた。
「どんな妖術なのですか!」
川部氏もやはり反応した。
「知りたいです!」
ところが埋田氏は郷氏の答えを待たずに尋ねた。
「掛けちゃってた…っていうのは?」
「私も仕組みはよく分かんないんだけど…。説明が難しいな…。えっと、私が普通にみんなと毎日を送ってるっていう風に思うような、そういう魔法がみんなに掛かっていたの」
「じゃあ、意図せず、自然に…ってこと?」
「…うん」
今度は委員長が尋ねる。
「なんでそれが、私たちだったのかしら?」
「…うん」
「あなた、13年前に亡くなったのよね?」
歯切れの悪くなった郷氏は何か答えづらい理由があるのだろうか。
「郷さん、あなたまさか、毎年…?」
橘氏が尋ねると郷氏は俯いていた顔を上げて答えた。
「そう。私が死んで、次の学年から、毎年。毎年4月の最初からこの教室にいて、2学期の終業式に自殺してたんだ」
思わず津田氏が困惑の声を上げる。
「次の学年って…1年生が2年生に上がったときに、そのクラスに加わるってこと? 気づくでしょフツー?」
「それができちゃう…魔法?」
埋田氏が尋ねる。
「うん」
なんて特殊能力だ。会得できるものならしてみたいと思う。
「なんでそんなことを」
津田氏が尋ねる。
「私が知りたいくらいなんだけど…そういう風になってたの。そんな仕組みの中で、私は毎年4月から12月まで、その年の2年生なの」
「なら、私たちは、幽霊の郷さんと一緒に、2学期まで夢を見てたっていう感じ?」
月山氏が問うと郷氏は初めて微笑んだ。
「綺麗に言うとね」
田口氏が激高して叫んだ。
「じゃあ、サトミはワタシと友だちでも何でもないってことかよ!」
「ヨシミちゃん、それは違う」
「どこが違うんだよ! 全部魔法だったんだろ! 騙されてたんだろ!」
「それは違う。違うよ。たしかに私、みんなを騙してたのかもしれない…。でも、みんなと過ごした去年の私。それは紛れもなく本物の私だよ」
埋田氏も続いて問いかける。
「だったら、なんで死んじゃうのよ!」
「サエさん…。私だって、死にたくなかった。死にたくなかったんだよ! だって、だって、私、このクラスのこと、大好きだったんだから!」
泣いている人がいる。この場で泣けるのは郷氏と仲の良かった人に限られるのではないのだろうか。わたしは右にならって涙しておきたかったけれど遺憾ながら落涙することはなかった。
「じゃあ、自殺してしまうことは変えられなかった…ってことね」
埋田氏が湿った声で問うと郷氏は申し訳なさそうに返事をした。
「うん」
橘氏が郷氏にいま現在進行中の事件についての関与を尋ねた。
「っていうことは、細田さんがヘアピンを隠したっていうのは…」
「偶然。偶然なんだけど…ちょっと利用させてもらっちゃった」
「どうやって」
津田氏が尋ねると郷氏は白状した。
「終業式の前の日には、次の日の朝に自分が自殺するってことは分かってた。だから、どうしたら自然かなってずっと考えてたら、私のヘアピンがなくなった。だから、ちょっと過剰に騒いでみちゃった」
「な…なんだよ! すげー焦ったんだぞ!」
津田氏は焦ったように言った。
「ごめんね、つだまるちゃん」
橘氏はさらに問いかける。
「あの…伊村さんのことは?」
「それは本当に、ぜんぜん知らないの。ヘアピンを盗んだのがナオちゃんだったってことも、知らなかった。だから…私の自殺がナオちゃんのせいで、それを理由にナオちゃんが狙われるんだとしたら…って。それだけは違うんだって言わないとって、思ったんだ」
それを言うために郷氏は蘇ったというのか。なんとも途方のない話だなと思うと遠くで誰かの悲鳴がした。
即座に平氏が教室を飛び出ていく。
「ちょっと待ってタイラー!」
橘氏もそれを追う。
「あなたたちまで!」
委員長が止めるが既にふたりはいない。
「ほっとこう、委員長」
津田氏が言い放つ。
「どうしよう…私のせいで…」
郷氏は不安げに言う。
「あんなに沢山行ったんだから、大丈夫だよー」
青江氏はなおも楽観的で羨ましい。
「でも…」
「サトミ! なんで死んじゃったんだよ!!」
田口氏は郷氏の両肩をガッシリ掴むと大きな声で言った。
「ヨシミちゃん、私のためでなんか、泣かないで」
「泣いちゃ悪いかよ! 笑えよ!」
「ううん。私のために泣いてくれてるんだったら、本当に嬉しいし、本当にごめんなさい」
「ワタシだけじゃないだろ…」
そう言われて郷氏は周りを見回した。津田氏や青江氏や埋田氏などが泣いているのを見たのかまた申し訳なさそうに絞り出した。
「ごめんね、みんな…」
「例え13年前のサトミがかけた魔法なんだとしても、私たちはあなたの友だちなんだよ」
埋田氏が感動的なことを言った。ついに郷氏の涙腺が決壊した。田口氏は無言で郷氏へ抱きつく。
「うええええー、ヘアピン見つからなかったとき、酷いこと言って悪かったよおお」
津田氏もそう言いながら郷氏へ抱きついた。
「ありがとう。気にしてないよ。なんだかね、長い長い夢から、醒めたみたいな感じがするの」
「どういうこと?」
涙声で委員長が問う。
「私、去年までは、年末に自殺して、だけど年が明けたらもう魔法が解けて、誰も私のことなんて覚えていない中、一人でずっと教室の中に座ってる…そんな感じだったんだ。それなのに、1月の半ばになっても、私はこんなにもみんなの中にいられたんだよ。それって、奇跡」
「忘れるもんか!」
田口氏が声を上げた。
「忘れられないよ」
埋田氏もそれに続く。
「…うん。そうだったら、本当に嬉しいな…。たぶんね、こうやって最後にみんなの前に出てくることができたのも、奇跡なんだと思うんだけど…」
言葉に詰まる郷氏に津田氏が続きを求める。
「なんだよ」
「たぶん…これが最後の時なんだ…」
「最後だなんて!」
青江氏が思わず声を発する。田口氏も言う。
「そんなこと言うなよ!」
「みんな、ありがとう。本当に、ありがとう。今ここにいないみんなも、ありがとう。みんな、大好き。私、このクラスの一員になれて本当に良かった。ありがとう!」
「行ってしまうの?」
別れの時を察した委員長が問いかける。
「重りが取れたみたいな感じがするの。体が浮かんでいくような感じがしてて…」
「行くなよ! 友だちだろ!」
田口氏は声を張り上げる。
「ありがとうヨシミちゃん。思いっきり、やりたいことをやってね!」
「行かないで!」
「サエさん…。ごめんね。私、最後にもう一人にだけ、お別れを言いに行かなくっちゃ。もう行くね。みんな、ありがとう。またね!」
そう言うと郷氏は田口氏へもたれ掛かるように崩れ落ちた。思わぬ清涼感のある錯覚を覚えた。なにかが体を通り抜けたような不思議な感覚だ。すぐにゆっくりと顔を上げた郷氏…いや気がついた井上氏がぼんやりと言った。
「あれ? みんなどうしたの?」
教室のドアが開いて和泉氏と岡崎氏が入ってきた。教室で繰り広げられた異様な光景に絶句しつつも和泉氏は一言ぽつりと言った。
「ヨシミもつだまるも、そんなに井上と仲良かったっけ?」
あれから2ヶ月はあっという間だった。傷害事件を起こして少年院へ送られたという噂の伊村氏とフィー友になることは叶わなかったが川部氏と繋がることはできた。橘氏とも繋がれたため漫画やアニメの感想を交わしたりといった交流は行えている。本音を言えば最新のデジタルガジェットやアプリについて盛大に語り合いたい所だがそれは次のステップに進んだときにしようと思った。3年生になるので人並みに受験勉強は始めた。工学系のプログラミングなどが出来る学部を目指したいと思っている。余暇の時間にプログラミングの練習もするようになり至極簡単な電卓アプリを組み上げてそれを使用している。やはり自作アプリなので愛着が湧くと同時に使用していての不満点や改善点が見えてくるもので逐一修正を重ねている。まだ一般公開出来るほどの物ではないけれど世の中を見返してやれるような物を作ってやるという気持ちだけは沸々と燃えたぎっている。寝るのが惜しいくらいに時間が足りない。睡眠時間が3時間で済めば良いのにと常々思っている。